四章
第四章 静寂の聖域(最終稿)
道は海辺から坂を登るように続いていた。
潮の匂いが薄れていくにつれ、胸の奥がざわついた。
坂の上の古い洋館の二階――そこが綾香のアトリエだった。
ドアを開けると、乾いた絵の具と油の匂いが混じった空気が流れ出した。
壁には、いくつもの絵が掛けられていた。
どれも、どこかで見たような顔だった。
湊は足を止めた。
光の角度で、表情が変わる。
笑っているようで、泣きそうでもある。
どの絵も、目の部分だけが塗られていなかった。
喉がひゅっと鳴った。
鳥肌が腕を這い、指先が冷たくなった。
見られているのか、覗き込んでいるのか分からない。
息を吸い込むと、胸の奥で光がざらりと動いた。
「全部、あなたです」
背後で綾香が言った。
その声が近くて、肩がわずかに跳ねた。
「途中のままなんです。
この部屋でしか描けない光があるから」
彼女は窓際に立つキャンバスを指した。
木枠の端が朝の光を受けて鈍く光っている。
「ここなら、光が逃げないんです」
その言葉が、部屋全体に染み込むようだった。
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13:00
二人は窓を少し開けて、休憩を取った。
埃が光をまとい、ゆっくり揺れていた。
湊は床に座り、乾いていく絵の具の匂いを吸い込んだ。
綾香はマグを持ったまま、外を見ている。
「ねえ、湊さん。存在って、何だと思いますか」
唐突な問いだった。
「え?」
「人は、見られることで存在してるって言うけど……
それって一瞬のことじゃないですか。
目を逸らされたら、もう消えてしまう」
「そうかもしれないですね」
「でも、描かれたら残る。
光が止まって、形になる。
それが“存在の証明”です」
綾香は窓を見たまま言った。
「わたしがここで描くのは、
光を閉じ込めておきたいから。
逃げられないように」
湊はマグを見つめた。
光が表面で揺れて、飲み口が細かく震えていた。
「だから、ここなんですね」
「ええ。光も、人も、逃がしたくないから」
綾香は笑った。
その笑みは、少しだけ悲しい温度を帯びていた。
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14:00
筆の音が再び始まった。
絵の具の湿った匂いと、筆が布を擦る音が交互に響く。
湊は動かず、呼吸の音さえ押し殺した。
光が揺れない部屋の中で、
時間だけがすり減っていく。
綾香の肩が震えた。
筆が急に止まる。
「光が、逃げる」
低い声でそう呟くと、
彼女はすぐ筆を取り直した。
その一言が、湊の胸の奥でずっと響いた。
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17:30
筆の音が静まった。
綾香は筆を置き、しばらくキャンバスを見つめた。
「……終わりました」
立ち上がると、
絵の中の自分がこちらを見返していた。
ただし、目の部分だけが白く残されている。
「目が、描かれてないんですね」
「ええ。最後はあなたに見てほしかったんです」
綾香はその白い部分を指でなぞった。
「この白が、あなたの場所。
ここだけは、光を閉じ込めないようにしておきたい」
その言葉があまりにも静かで、
湊は返す言葉を失った。
彼女は微笑んだ。
その笑顔が、痛いほど優しかった。
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アトリエを出ると、
海風が頬を冷やした。
坂の下で波が光を散らしている。
振り返ると、
窓の奥で綾香が立っていた。
あの部屋の光はもう動かない。
けれど、海の光だけは、
ゆっくりと逃げていった。




