三章
その朝、窓際には見慣れないものが立っていた。
白いキャンバス。
昨日までのスケッチブックは、もうどこにもなかった。
木枠の端が光を受けて、店の空気を切り取っているように見えた。
綾香はすでに席にいて、小さなイーゼルの脚を調整していた。
脚が開くたびに、木がきしむ音。
それが、いつもの店の静けさに新しい匂いを混ぜていく。
「……おはようございます」
「おはようございます」
挨拶のあと、湊は少し戸惑った。
「これ……ここで描くんですか?」
「ええ。光がいいので」
そう言って彼女は筆を構えた。
答えに迷っていると、奥から祖母の声がした。
「それね、わたしが許可したんだよ」
「え?」
「せっかく絵を描く人が来てくれたんだし、
店の中で描くなんて滅多に見られないことだろ?
働いてるあんたが一番近くで見られるんだから、楽しみじゃないか」
祖母はいつものように楽しそうに笑って、カップを磨いた。
「……まあ、いいなら、いいけど」
そう言いながら、湊は頬の内側が少し熱くなるのを感じた。
自分が描かれることを、頭ではわかっていても、
実際にキャンバスの前に座ると、妙に落ち着かない。
働いている店で、自分が“モデル”になるという状況がむずがゆかった。
綾香はその表情を逃さず、筆先をわずかに動かした。
「いいですね。いまの顔」
「そんな顔してました?」
「ええ。少しだけ、動いたから」
⸻
14:00
昼を過ぎても筆の音は途切れなかった。
紙の時よりも、重く湿った音が続いている。
祖母は洗い物をしながら、
何度か綾香の方を見ていた。
その目は、何かを測るように静かだった。
閉店後、湊が片づけをしていると、
祖母がカウンター越しに声をかけた。
「ねえ、あの人の絵、いつまで続くのかね」
「さあ……わからないです。まだ途中みたいですけど」
「途中、ね」
祖母は濡れた布をたたみ、少し間をおいて言った。
「悪い人じゃない。けど、何かが詰まってる感じがする」
「詰まってる?」
「絵を描く人って、どこかで心を開かないと描けないでしょ。
でもあの人は、開いたまま戻せなくなってるような気がするんだよ」
「……」
「それにね、目が変わってきてる。
この店の光を見てるようで、もっと別のものを見てる。
たぶん、あんた自身を」
湊は笑ってごまかそうとしたが、
祖母の声のトーンがそれを許さなかった。
「別に怖いってわけじゃないけどね」
「心配してるんですか」
「してるというより、見ておきたい。
あの人が描いてるものの中に、
あんたが全部入っちゃわないように」
言葉が喉で止まった。
湊は、笑いも否定もできなかった。
ただ、祖母がそんなふうに誰かを言うのを初めて聞いた。
⸻
Day2-
祖母はいつも通りに店を開け、
カウンターにコーヒー豆を並べた。
綾香は少し遅れてやってきた。
白いシャツの袖口に、乾いた絵の具がついている。
「おはようございます」
「おはよう」
祖母は明るく答えたが、
その声の裏に、ほんの少しの探るような響きがあった。
「昨日は遅くまで描いてたの?」
「ええ。どうしても光の残りが気になって」
「光って、そんなに気まぐれなものかね」
祖母が笑うと、綾香も笑った。
「ええ、わたしの方が気まぐれなのかもしれません」
それきり二人の会話は途切れた。
だが、祖母の視線はずっと綾香の背中に残っていた。
その目に、湊は気づいていた。
⸻
14:00
綾香が席を外した隙に、
湊はテーブルの上に置かれたノートを見つけた。
厚手の紙で、端に鉛筆の跡が残っている。
何気なく開いたページには、
複雑な線と記号が書かれていた。
V=B×C
数式の横に、細い文字が添えられている。
“Belief/Circulation/Light”
そしてその下に、英語で「封印」と書かれていた。
湊は眉を寄せた。
「……何これ」
ページを閉じると、ちょうど綾香が戻ってきた。
その視線がノートに触れた瞬間、
湊の手が止まった。
「ごめんなさい、見ちゃいました」
「いいんです。
読んでも、きっと意味は通じないから」
綾香は穏やかに笑った。
「研究の癖みたいなものです。
昔、ちょっと変な先生に数式を習って」
「絵なのに、数式ですか」
「ええ。
絵も、世界を観測するための一つの数式なんです」
そう言って彼女はノートを閉じた。
その手つきがどこか儀式のように慎重で、
湊は何も言えなくなった。
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Day 3〜5
綾香の筆は止まらなかった。
描いても描いても、何かが足りないようだった。
彼女が筆を強く握るたびに、
キャンバスの奥で何かがきしむ音がした。
祖母が言っていた「詰まっている」という言葉が、
湊の頭に残っていた。
何が詰まっているのかはわからない。
けれど、彼女の描く音が、
ときどき痛いほど真っすぐに胸に響く瞬間があった。
⸻
その日の終わり、綾香はふいに言った。
「少し、場所を変えようと思うんです」
「場所?」
「ええ。もう少し光の流れを追えるところで。
アトリエがあるんです。そこで続きを描きたい」
筆を洗いながら、彼女は静かに言った。
「もちろん、来てほしいんです。
あなたがいないと、絵が完成しないから」
その言葉を聞いたとき、
湊は返事をしなかった。
できなかった、という方が近い。
祖母の「全部入っちゃわないように」という言葉が、
そのまま喉の奥で響いていた。




