1章
午前十時の少し手前、海の光が窓の縁で折れ曲がる。
その角度を合図のように、俺はミルに豆を落とす。金属の歯が静かに噛み合い、古い時計の音と重なる。粉が受け皿に積もるにつれて店の匂いは濃くなり、テーブルの木目が少しだけ甘い色に見える。
なんでもない朝だ。ここでは、いつも朝はなんでもない。
祖母は裏口でレタスを洗っている。蛇口の水は冷たく、指を通るときだけ音を変える。
「湊、黒板のメニュー書き直しといておくれ」
「うん」
チョークの粉が指につく。指先の白を見ながら、俺は少し笑う。白いものは塩だと決めつけたほうが、ここでは話が早い。海の近くでは、だいたいの白は潮のせいだ。
店の名は「潮音」。国道から少し逸れた道沿いで、山の影と海の反射のあいだに挟まれている。向かいは潰れた民宿、その隣はまだ営業している釣具店。昼だけ開く食堂は、窓に昼の張り紙を貼りっぱなしだ。人の出入りは少ない。けれど、時間はきちんと通っていく。
常連の老人が新聞を畳む音、宅配の端末が鳴る電子音、風がドアの鈴をゆらす音。
ここではそれらがみんな同じ高さで並び、どれも誰の邪魔もしない。
開店してから最初の一時間は、客がほとんど来ない。
俺はその時間が好きだった。席を拭き、砂糖壺のスプーンを磨き、カウンターの上に並ぶカップの耳の向きを揃える。
手を動かすと、頭の中が静かになる。
なんでもない作業をしていると、なんでもない自分でいられるからだ。
高校に通っていた頃の朝は、もっと騒がしかった。
乗り継ぎのバスで眠り、教室に着く前にもう一度あくびをした。黒板の前を人の影が行き来し、ベルが鳴るたびに何かを始めたり終えたりした。
いま思い出すと、細かい音ばかりが耳に残っている。消しゴムのかす、机の蓋の軋み、笑う声。
そこでの自分は、いつも少し急いでいて、誰かの背中を追いかけていた気がする。
ここに来てから、その音は遠ざかった。
波の音に混ざると、ほとんど聞こえなくなる。
聞こえなくなったものは、だいたいどうでもよかったものなんじゃないか、と最近は思う。
大切な音は、静かでも消えない。
光も、きっと同じだ。
ドアの鈴が鳴った。音が一度、長く尾を引いた。
顔を上げると、見慣れない人が立っていた。
白いシャツの袖を二折りし、鞄を片手に、店の奥を一度だけ見渡す。
旅人というより、どこか仕事の途中の人の顔だった。
「いらっしゃいませ」
その人は短く会釈して、窓際の席に座った。
海を背にする席は、午後になると光が柔らかくなる。そこに座る人はいつも、少しだけ目を細める。
水を置き、メニューを開く前に、その人はノートを広げた。
太い罫線に、鉛筆の線がいくつも重なっている。
数字、矢印、途中で消えた言葉。ページの端には、コーヒーの輪染み。ページの真ん中だけが、新しい。
「おすすめはありますか」
「深煎りで、酸味が少ないのがあります」
「それで」
即答だった。声は落ち着いていて、よく通る。
注文が決まると、彼女は窓の外を見た。
見ていたはずなのに、どこも見ていないようでもあった。
抽出を始める。お湯を少し落とし、膨らむ表面の息を待つ。
湯気の向こうで、祖母がゆっくり椅子に座る。ラジオから流れてくる天気予報は、いつもより潮の流れに詳しい。風は午後に強くなると言っていた。
カップに落ちる音が細くなる。俺は火を止め、カウンター越しにカップを置いた。
「ありがとうございます」
彼女はカップの縁に手を添え、ひと口飲むまでの間、目を閉じた。
目を開けたとき、視線がわずかに揺れ、ノートに戻る。鉛筆が走る。
Vの文字、イコールの線。すぐに線は消され、別の記号に置き換わる。
「ここ、静かでいいですね」
席を離れようとした所に声をかけられ少し驚いた。店員に話を振るタイプに見えなかったから。
「はい」
「時間の流れが違う」
「街より、ゆっくりです」
彼女は笑った。笑い方に癖があって、音だけを先に出す。誰かに向けるというより、空気に向けて放つ笑いだ。
「長く働いてるの?」
「半年くらい」
「そう」
それで会話は終わった。終わらせたのは、たぶん俺だ。
無理に続ける必要のない会話は、ここでは長生きしない。
代わりに、食器の触れ合う音や、遠くの船の汽笛が間を埋める。
昼前、釣具店の主人が来て、いつもの席でいつものトーストを頼んだ。
新聞の第三面を広げ、天気図を眺める。祖母はゆっくりと味噌汁を飲み、少しだけ咳をした。
俺はトーストにバターを塗りながら、窓際の席を横目で見る。
彼女は二杯目のコーヒーを頼んだ。
二杯目は、冷める前に飲み切った。
最初の一杯より、飲むたびにわかる顔をした。
味のことではなく、何か別のことを確かめるみたいに。
会計のとき、彼女は財布から紙幣を出し、しばらく指先で端を押さえた。
「この辺りに、長く滞在する予定ですか」
自分でも意外だった。俺のほうから客に話しかけることはほとんどない。
声に出してから、少しだけ後悔した。
「少し」
彼女は答え、レシートを受け取り、鞄を肩にかけた。
ドアに手をかける前に、振り返らずに言う。
「また来ます」
鈴が鳴る。今度は短く、乾いた音だった。
昼下がり、光は少し鈍る。
窓際のテーブルには、鉛筆の削りかすがひとつ、落ちていた。
拾い上げると、指先に黒が移る。
洗えばすぐ落ちる。けれどその黒は、落とすまでのあいだ指の腹に残り、何かの印のように見えた。
閉店後、バケツに水を張り、床を拭く。モップの筋が乾くまで、椅子を逆さにしてカウンターに上げる。
祖母はテレビを見ながらうとうとし、やがて布団に潜った。
外は風が少し強い。雲の流れが速く、星が見えたり隠れたりする。
店の奥、段ボールの積まれた棚の隙間から、古い録音機が出てきた。祖母のものではない。誰のものか分からないが、埃が薄く積もっているだけで、故障はしていなそうだった。
ボタンを押しかけて、指を止めた。
再生する理由がない。
ここでは、動かさなくていいものは動かさない。
動かさなければ、壊れない。
俺は録音機を棚に戻し、裏口を開けて海の匂いを吸う。
潮の匂いは、冷たいときほど甘い。
遠くで波が崩れ、道路のガードレールが風で鳴る。
山はそこにあるだけで、夜になると形を失う。
消えるわけではない。
ただ、見えないだけだ。
寝る前に、ノートの端に今日の仕入れを書き付ける。パン、牛乳、豆の残り。
書き終えても、ページの余白が広く残る。
そこに何かを書き加えることはできた。
できたが、やめた。
余白は余白のままでいい。
いまはそれでうまくいっている。
布団に入る直前、窓の外で鈴が鳴った気がした。
風かもしれない。風じゃないかもしれない。
耳をすませると、何も聞こえない。
目を閉じる。
暗闇には色がない。
けれど、ときどき、昼の光の帯だけが残像のように浮かび上がる。
きょう見た光は、少しだけ形が違っていた気がする。
理由は分からない。
分からなくても、困ることはない。
明日も、きっとなんでもない朝だ。
たぶん、同じ時間に光が折れ、同じ高さで鈴が鳴る。
ただ、その音が誰のために鳴るのかを、俺はまだ知らない。




