エピローグ
月曜日。霧科医療センターでの激闘がまるで嘘だったかのように、白石いろはの日常は戻ってきた。……いや、少しだけ、変わったかもしれない。
「いろはちゃん!」
教室のドアを開けると、真っ先に声をかけてきたのは親友の栞だった。その顔には、心からの安堵が浮かんでいる。
「昨日のアーカイブも見たよ!本当に……無事でよかった……!」
駆け寄ってきたいろはの手をぎゅっと握り、栞は目に涙を浮かべている。あの廃病院での出来事が、どれほど彼女を心配させたかが伝わってくる。
「心配かけてごめんね、栞。もう大丈夫だから!」
いろはが力強く頷くと、栞も少し安心したように続ける。
「でも、いろはちゃん、本当にすごかったよ!あのカレン様と共闘なんて、鳥肌立っちゃった!MOCAちゃんも大活躍だったし!」
栞は興奮冷めやらぬ様子で、身振り手振りを交えながら昨日の配信の感想をまくし立てる。その瞳はキラキラと輝いていた。
そして、教室の他のクラスメイトたちも、どこか遠巻きながら、いろはに注目しているのが分かった。以前のような「また何か変なことやってる底辺配信者」という冷ややかな視線ではない。そこには、驚きと、ほんの少しの尊敬のようなものが混じっている。
「白石さん、あの配信マジやばかったよ!」
「ちょっと見直しちゃったぜ」
「カレン様と渡り合うとか、スゴすぎ!」
口々に話しかけてくるクラスメイトたち。いろはは照れくさそうに頭を掻きながらも、まんざらでもない表情を浮かべていた。自分の配信が、少しだけ認められたような気がして、胸が温かくなる。
放課後。いろはは自室に戻り、PCの前に座った。隣には、情報屋ククの手によって身体の傷も綺麗に修復され、完全復活を遂げたMOCAが浮遊している。
「さて、と。始めますか!」
『廃病院ガチ凸配信・反省会!』
そう題した配信を開始すると、待っていたかのように視聴者が集まり始めた。コメント欄も、開始早々からものすごい勢いで流れていく。
『キターーー!』
『待ってた!』
『いろはちゃんお疲れ様!』
『MOCA様復活おめ!』
『伝説の始まりを見た』
「みんな、こんばんいろはー!そして、ただいまー!」
いろはは満面の笑みでカメラに手を振る。MOCAも小さな手を振って応える。
「視聴者の皆様、ご心配と多大なる応援、誠に感謝します。私のボディはクク氏の卓越した技術により、以前のようにすっかり……おっと、これは余計な情報でしたか」
「もー、MOCAったら!」
軽口を叩き合う二人。視聴者からの称賛や質問に答えながら、今回の事件の反省点や、協力してくれた人々への感謝を述べていく。カレンの名前を出すと、コメント欄はさらに沸いた。
『カレン様との再戦は!?』
『あのツンデレお嬢様、最後ちょっとデレてたよなw』
『ククって誰?新キャラ?』
「カレンちゃんには、本当に助けられました。あと、情報を提供してくれた謎の情報屋さんにもね!」
遠回しにククにも言及しつつ、いろはは今回の事件を振り返る。多くの危険があったけれど、それ以上に大きなものを得られた気がした。
「はいはーい、ということで!本当に色々なことがあったけど、みんなのおかげで乗り越えられました!応援、本当にありがとうー!」
いろははカメラに向かって笑顔で手を振った。コメント欄には、別れを惜しむ声や感謝の言葉が溢れている。
配信は盛況のうちに終了した。視聴者からの温かいコメントに包まれ、いろはは充実感と共に息をつく。
「ふぅー、終わったー!」
「マスター、お疲れ様。今回の配信も、多くの視聴者にポジティブな影響を与えられたようだ」
労いの言葉を言い残して、MOCAは滑らかにドローン形態へと変形し、PC横の充電スタンドへ戻る。……その直後だった。
MOCAのモニターが一瞬だけ、チカッとノイズが走ったかと思うと、複雑な幾何学パターンを表示した。それはほんの一瞬のことで、すぐにいつもの待機画面に戻ったが、いろはは見逃さなかった。また“あれ”だ、家電と戦った時の。
その瞬間、いろはの脳裏に、 MOCAの画面に映ったパターンと共鳴するかのように、幼い頃の記憶の断片が鮮明にフラッシュバックした。薄暗い部屋、誰かの優しい手、そして……何か得体の知れないものの気配。誰も信じてくれなかった、あの「怪異体験」。
「……あの時も……もしかして、本物だったんじゃ……?」
いろはは一瞬、MOCAに何かを問い詰めようとした。あのパターンは何だったのか、そもそもMOCAは一体何者なのか、なぜ自分の過去と繋がっているのか、と。しかし、モニターに映る自分の顔を見て、その言葉を飲み込んだ。そこに映っていたのは、不安と期待が入り混じった、複雑な表情の自分だった。
「マスター、何か懸念事項でも?」
微細な視線の揺らぎを検知し、MOCAは再び人型へと戻った。その表情からは何も読み取れない。
「……ううん、何でもない!」
いろはは笑顔を作った。今はまだ、聞くべき時ではないのかもしれない。目の前の相棒は、確かに自分を救ってくれたMOCAなのだ。
「それよりさ、次の配信どうする?もっとすごいガジェット作って、もっと面白いことしなきゃ!」
目の前の相棒を信じる。それが、今のいろはの答えだった。希望を隠しきれない表情で、いろははMOCAに向かって語りかける。
「ねえMOCA、次はどんなヤバい場所に凸しようか?もっともっと、みんなをドキドキさせたいんだ!」
「承知した、マスター。次なる候補地リストと必要なプランを提示する。言うまでもなく、相応のコストを要する。予算確保はキミの仕事だ」
「うぐっ……そ、そこはほら、視聴者さんたちの愛とQチップでなんとか……!」
いつもの調子を取り戻した二人の声が、部屋に響く。次なる配信への期待を胸に、白石いろはとMOCAの物語は、まだ始まったばかりだ。




