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バタフライ・マイノリティ

作者: ささき花音


 あたしは銀色にきらめくステンレス製の有頭1号針を指先でもって、蝶の胸部に突き刺した。

 ぷすり、と枝豆の皮から空気が抜けたような感触がある。昆虫針は空気の層を泳ぐように蝶の内部を進んで、裏側から針先がでた。正面から複眼を覗きこむようにして、針がまっすぐ通っているかを確認する。失敗するわけにはいかない。さっきから指先が震えている。当然だ。今あたしが標本(ひょうほん)を作っているのは、幼少期からずっと憧れだった蝶だ。

 

 憧れで――それでいて、あたしのことを。あたしの世界を。ううん。それだけじゃない。

 大げさに言わなくても、紛れもない事実として。あたしの住む()()()()()()を変えた一匹の小さな蝶だ。


 深呼吸。半透明の展翅(てんし)テープを持ち上げて、針が刺さったままの蝶を木製の展翅板(てんしばん)の中央へと据えた。机の脇に置いたプラスチックケースの中から玉付きのまち針を指先でつまむ。それを使って(はね)触覚(しょっかく)の位置を整えテープで固定していく。最後に仕上がりを確認して、額にうっすら滲んでいた汗を袖口でぬぐった。


「ふう……」


 息をついたあと、デスク横のクローゼットを開ける。そこには展翅版の他にドイツ箱と呼ばれる木製の昆虫箱がずらりと並んでいる。中身はすべてこれまでに捕まえてきた蝶の標本で、あたしの〝大好き〟が詰まった空間だ。


「そう、あたしの大好きな――」


 噛み締めるように呟いてから、あたしは自分の部屋の窓を開けた。

 すっかりと夏色に染まった風が吹きこんでくる。目を細めて風を浴びていると、どうしたってあたしは〝きみ〟のことを思い出さずにはいられなくなる。


 きみはあたしに、大切なことを教えてくれて。春を届けてくれて。

 そうして春が過ぎ去ると――跡形もなくどこかに消えてしまった。


「そんなこと。考えたってしょうがないけれど」


 今更なにを言っても。きみに届くことはないけれど。


『とっても遠いところに行っちゃうの』なんて。どこまでも澄んだ微笑みで言ったきみのことが。

『この春が終わったらね』って。

『とっても遠いところに行っちゃうんだ』って。


 繰り返すきみの透明で、(はかな)げで、寂しそうな微笑みのことを。

 あたしはこの先もきっと忘れることはない。

 

 きみと過ごした奇跡みたいな毎日のことを。

 決して忘れることはない。


「…………」


 ふたたび展翅版に目をやる。そこには指の爪先と爪先を合わせたくらいの小さな蝶が。

 光を反射して金緑色(きんりょくしょく)に輝く一匹の蝶が()る。


「――ありがとう」


 そう。()()は間違いなく――あたしのことを。あたしの世界を。

 

 変えてくれたかけがえのない存在だった。



      * * *



『え? 標本?』

『なにそれ』

『蝶を捕まえて剥製(はくせい)にするってこと?』

『無理無理。虫とか触れないし』

『気持ち悪い』『きもちわるい』『キモチワルイ』


『ねえ――鈴岡(すずおか)さんも、そう思うでしょ?』



      * * *



「鈴岡さん。あ、あの……おはよう、ございますっ」


 教室に着くと。

 後ろからクラスメイトの女の子に声をかけられた。


「…………」

「鈴岡さん? だ、だいじょうぶですか?」

「あ、うん」あたしは首を軽く振ってから返す。「ごめん、ぼうっとしてて……おはよう」


 その子は『お、おはようございますっ』ってもう一度大きく頭を下げたあと、恥ずかしそうに顔を赤らめて後方にいる他のクラスメイトたちのもとへ走っていった。『えへへ。鈴岡さんに挨拶しちゃった』『今日も素敵だよね』なんて。聞こえてくるのはそんな、聞いているあたしのほうがむずがゆくなってくるような言葉。


『成績も優秀だし』『まさにだれもが憧れる』『お嬢様って感じ』


 私立・美桜(みさくら)学園高校の二年生。あたし――鈴岡(すずおか)瑠璃花(るりか)はそんなふうに〝お嬢様〟としてまわりから、自分で言うのもなんだけど一目(いちもく)置かれていた。でも一目置かれてるってことはそこには距離? みたいなものがあるってことで。あたしは周囲と〝壁〟を感じていた。それもこれも。


「す、鈴岡さんっ! あの、今日は……どうかな? 放課後、みんなでカラオケ行くんだけど」

「あ、えっと……ごめんね。今日も予定があって」


 なんていうふうに。

 放課後のお誘いをずっと断り続けていることも、みんなとの間に〝壁〟が生じている原因なわけで。

 でも。だからといって。みんなの誘いを受けるわけにはいかなくて。


 春から初夏へと移ろいゆく季節。

 あたしはこの時期。どうしたって放課後や休みの日に〝やりたいこと〟があるんだった。



      * * *



 放課後。一度家に帰ってから、玄関先に用意していた〝いつものセット〟を持って自転車にまたがる。向かうのは『身隠(みかくし)(やま)』なんていう、すこし物騒な名前のついた地元の山だ。


 5月の暮れ。太陽の日差しはほんのわずかに夏の気配を(まと)いはじめている。

 田舎道を走って30分。自転車は山の中腹で停めて、さらに山上へとのびる小さな階段(といっても、断層が露出した斜面に丸太を無理やり埋めこんだような荒々しいものだ)をのぼっていく。周囲には下草が縦横無尽に生い茂っている。もはや道とも言えないような獣道を進んでいくとやがて視界が開ける。東西に広がる小さな池を含んだ盆地のような場所は、私が小さいころから通い詰めている〝蝶〟の楽園だった。


「今日も、よろしくお願いします」


 なんて。ぺこり。だれにともなく挨拶をして。

 あたしは背負ってきた、身長ほどの細長い布袋を地面におろした。触れるとひんやりと冷たいカーボン製の竿を中から取り出す。その先端に補虫網のジョイント部分をねじこんでつける。細やかな編み目の入ったナイロン製の黄緑色の網だ。その緑は森の木々の中で馴染んで迷彩の役割を果たす。網をつけたら一度、柄の部分を引っ張り出して最大の長さまで竿を伸ばしてみる。すべてを振り出すとその全長は7.2mにも到達する。ここまでして長い捕虫網が必要なのは、とある蝶を捕まえるためだ。


 それは指先をふたつ重ねたくらいの小さな蝶。

 あたしの昔からの憧れで。一度として目にする機会のなかった存在。


「――ミヤマミドリシジミ」


 あたしが追い求めているその蝶は、高い木の樹冠(じゅかん)部分を素早く飛翔することが多い。

 まだ謎も多い生態や捕まえる難易度の高さ、そしてメタリックな金緑色に輝く見た目の美しさや希少性から、愛蝶家の憧れの的になっている。


 そんなミヤマミドリシジミを含む、樹上で生活を営むシジミチョウの仲間は、ギリシャ神話の神様になぞらえてこう呼ばれている。


「『ゼフィルス』――春の訪れを告げる、豊穣(ほうじょう)の風の神様」


 トートバックの中からブリキ製の三角缶(さんかくかん)を取り出して、スカートの上からベルトで脇腹の部分に止めた。

 中には捕獲した蝶を保存しておくための三角折の紙が入っている。


「絶対にあたしは、ミヤマミドリ(その子)を捕まえなくっちゃいけない。それが、あたしの大好きなこの場所を()()ことにも繋がるから」


 そう。蝶の楽園ってあたしが呼ぶこの場所は。このままなにもしなければ。


 この秋には消えて無くなってしまう。



      * * *



『ねえ。鈴岡さんもそう思うでしょ?』


 標本作りなんて気持ち悪い――そんなクラスメイトたちの会話の流れで。

 そう尋ねられたあたしは。なにも答えることは、できなくて。


 あいまいな笑顔を浮かべてごまかしたんだった。本当は。そんなこと。気持ち悪いなんて。


 ――そんなこと、すこしも。思ってないのに。


 あたしは蝶が。虫が。好き。

 その美しさや希少性を保存して、ずっと眺めていられる標本が大好き。


 なんていうふうに。

 あたしの本心を答えることは。


 やっぱり、その時のあたしには、できなかった。

 

 だって。分かってたから。虫が好きってことが。蝶が好きってことが。標本が好きってことが。異質(アブノーマル)だってことくらい。

 蟻みたいな社会性昆虫の中でだって。他と違う行動をする存在は排除されたりもする。集団で生きる以上、異端な嗜好は排除されかねない。そんなこと。分かってたから。


 あたしは。あたしの大好きな気持ちを。

 決して表には出せないで、いた。


 これが。きっと。学校のみんなとの間に〝壁〟がある、一番の理由。だった。



      * * *



「とはいえ……簡単に見つかるなんてことないわけで」


 あたしは捕虫網を腕で抱えるようにしたあと、空いた両手で鞄から水筒を取り出して飲んだ。

 6月もそろそろ半ばに差しかかる。これまでほとんど毎日この身隠山(みかくしやま)を探しまわってはいるけれど、目標のミヤマミドリシジミの姿を拝むことはできていない。


 今日は日曜日。気合を入れて朝から周囲に張りついてはいるけれど。


「……おなかすいちゃった。そろそろご飯にしようかな」


 空腹には逆らえない。

 鞄の中には、このために早起きしてつくったお弁当が入っている。


「どこかいい感じの木陰、ないかな」


 なんてつぶやきながら、森の奥へと小径(こみち)を進んでいくと――


「あ……」


 思わず。

 あたしはその場で固まってしまった。


 それもそうだ。

 地元の人ですら、林業(りんぎょう)関係者でもないと滅多に寄り付かないような森の奥に。


 人が。

 それも――あたしと同じくらいの年の。子が。

 そこにいたんだった。


「……っ」


 ごくりと息をのむ。

 目の前の子は、とても、とても。


「――きれい」


 だったから。

 腰くらいまで伸びた色素の薄い髪の毛。泉の底みたいに澄んだ瞳。信じられないくらい白い肌に華奢な手足。

 こんな山奥にふさわしくないくらいにきらきらと輝く、お人形みたいな子だった。そんな子が。


 森の奥の開けた場所で。

 ピンク色のレジャーシートを広げて。

 ハムと卵のサンドイッチを。かじっていたんだった。


「え、えっと、そのっ」あたしは混乱しながら、視線を左右に動かす。「は、はじめましてっ」


 もぐもぐもぐ。その子は丁寧に両手を添えて食パンを口に頬張りながら、「はじめまして」と言った。アオマツムシの鳴き声みたいに澄んだ声だった。


「っ! はじめましてっ!」とあたしは繰り返して、ぺこんと頭を下げる。その時に気づいて、手にしていた補虫網を慌てて背中に隠した。「あ、これはっ……」


「――()()?」


 サンドイッチを食べる手を止めずに。きみは。

 ごく当たり前のことのように聞いてきた。


「え?」

「その装備。ちがうの?」


 思考がうまく働かない。ゼフ。なんていう。あたしが追い求めてる蝶も所属する『ゼフィルス』を、略称でそう呼ぶ人なんて、あたしと()()以外に思いつかなかったから。それが、まさか。目の前の、まだあたしと同じくらいの年の、こんなに可憐な子が――


「ど、どうしてっ」

「うん?」

「どうして、分かったの……?」


 きみは視線だけで自分の後方を指した。「あたしも。同類だから」

 そこには茶色の捕虫網と、蝶屋の()()()でもある革製の三角ケースが木の幹に立てかけて置いてあった。


「え……え!?」あたしは目を丸くして、「蝶屋(ちょうや)、さん?」


 こくり。きみはパンからすこし飛び出たハムを口の中におさめようと悪戦苦闘しながら、うなずいた。


「そっか。きみも、蝶屋さんなんだ」とあたしは動揺を隠しきれない。


 昆虫の愛好家の間では、自分の好きな(得意とする)虫の種類の名前を前につけて『〇〇屋』、などと自称することが多い。〝屋〟っていう言葉ではあるけれど、それで特に虫を実際に売買している、というわけではない。


「……どうしてそんなに驚くの?」

「だ、だってっ! そんな子、いるんだーって」

 きみは、ふふって口角を上げて、「あなたもなんでしょ?」

「あ、あたしはっ……そ、そうだけど。だけど同い年くらいの子だと、はじめて会ったから」


 きみは驚くようなそぶりは見せず、懸命に口を動かしている。


「なにを探してるの?」

「え?」

「お目当ての子がいるんでしょ?」

「あ……」あたしはすこしだけ口ごもってから、答えた。「……ミヤマ」


 ぴくん。

 きみの表情にはじめて驚嘆の色が見えた。


「ミヤマミドリ、シジミ」って。あたしは。憧れの蝶の名前を伝えた。

「ふうん」きみはサンドイッチを食べる手を止めて、言った。「きみも蝶屋なら分かってると思うけど――ミヤマミドリ(その子)が最後に県内で見つかったのは1992年。とっくに県内じゃ()()()に指定されてる」


 あたしはゆっくりと頷いた。


「それでも――見つけないといけないの」

「どうして?」

「この場所を、守るために」


 この場所、っていうのは身隠山(みかくしやま)のこと。山の北側に新しく高速道路を作る計画があるみたいで。インターチェンジの近くにあたるこの近辺も開発をして、温泉やアウトレットが楽しめる大型複合施設を建築する計画が数年前から進められていて、今年の秋ごろまでには着手されるらしい。


「――この場所を、守るために」ってあたしは繰り返す。


 蝶の生息域は、周囲の環境に大きく左右される。

 食草や食樹に蜜源(みつげん)植物、天敵の有無に、適切な気温や湿度・標高――様々な生息条件が噛みあわないと、蝶たちは簡単にその命を落としてしまうし、種の繁栄が困難になる。


 それが山を切りひらく大規模な工事にもなれば、周囲の自然を大きく傷つけてしまう。


「ふうん。そっか。その手があったか」


 きみは短く何度かうなずいてから。

 食べかけだったサンドイッチを一気に飲み込んだ。


「いいね。それ、乗った」

「え?」

「だからミヤマミドリを見つけたいんだ」


 あたしはうなずいた。やっぱり同志(どうし)は話が早い。


 例えば工事予定の場所が、蝶をはじめとした貴重な動植物の生息地になっていた場合、その工事は国や県の指示で延期・または中止を検討させられる。


 だけど。そのためには。


「そこに貴重な動植物――つまりは今回の場合、一度は県内で滅んだとされるミヤマミドリシジミが、この付近にまだ生息しているという確固たる()()がいる」


 つまり。

 あたしはミヤマミドリシジミを()()()()捕まえなければいけない。


「うん。たしかに。このあたりはミヤマミドリの生息地としてはある程度の条件は揃ってるかも。食樹のひとつとされる(ベニ)(ガシ)の樹もあるし。でも――」


 あたしはうなずいて、「生息環境が十分なのに、その成虫の姿が見当たらないの」

 きみはうなずいて、「同じ蝶屋なら、その状態で〝絶滅種〟を見つけることの難しさはわかるよね」


 蝶というのは、昆虫の中でも比較的成虫を見つけやすい目立つ種族だ。

 さらにその見た目の優美さやイメージから、愛好家の数もとっても多い。


「そんな目を皿にしてまで愛好家(マニア)が求める希少種が、この数十年間見つかっていない――その難易度はきっと、砂漠の中に落とした砂金を探すよりも難しいかもしれない。ううん。むしろそのほうがましかもしれないね。なんてったって、砂漠のどこかには〝砂金がある〟って分かってるんだから。この森には、ミヤマミドリシジミの一匹だっていない――その可能性のほうがずっと高い」

「わかってるよ。でも! それでも、あたしは見つけたい」


 周囲を見渡す。懐かしい森の香り。音。光。そして様々な生き物たちの気配。優雅に周辺を飛ぶ蝶の数々。

 そのすべてがあたしにとっては原風景(げんふうけい)だ。


「あたしはこの場所で育ったから」


 ものごころついたときから、網を振り回していた。まわりの子たちに引かれるくらいに、あたしは蝶という存在に惹かれた。そんな蝶が生きる場所を。


「あたしは、守りたい。小さいころから図鑑で憧れていた蝶を。他ならないこの場所で見つけることで」


 きみは口角をすこしあげて、「うん。わかった」

「え……ほんと?」

「最初に言ったでしょ? その話、乗ったって。蝶屋の私にとってもすごく魅力的な情報だもん。それに私だって、もともと似たようなつもりで来たんだ」

「え?」

「このあたりが大規模工事で無くなるって話は聞いてたから。最後に寄っておこうと思って」きみは後方にあった捕虫網(ジュラルミン製2・5mのスタンダードな竿だ)を手に取った。「それでもまさか絶滅種(ミヤマミドリ)のことは気にしてなかったよ。将来は?」

「え?」

「蝶屋。つづけるんでしょ?」

 あたしは頷いた。「九州の大学に行こうと思ってて。蝶の研究室が、有名な」

「へえ。黒水(くろみず)研だ」

「知ってるの!?」

「もちろん」ときみは言った。

「わ、うれしい――こんな話、だれにもしたことがなくって……あ」

「?」

「えっと、あたし、鈴岡瑠璃花(るりか)。――おなまえ、きいてもいい?」


 思えば。人に名前を聞いたことなんて。ここ数年なかったかもしれない。

 それはきっと。あたしが誰にも心を開いてこなかったことが原因かもしれなくて。


 それ以上に――友達なんて、だれもいなかった。から。

 はじめて。あたしは。この目の前の子と。変わった嗜好をもった同志(マイノリティ)と。友達に。

 なりたいって。思ったんだった。だけど。


「ううん。好きに呼んでいいよ」

「え?」

「あんまり自分の名前、好きじゃないんだ。だから、名付けてよ。新種の蝶を見つけたときみたいに」

「あ、ええと……」


 急にそんなことを言われても困ったけれど。懸命に頭を働かせた。

 どこからか吹いてきた暖かな風を浴びる中で、ふと思いつく。


「フウカ、は、どう?」


 きみは一瞬目を細めて、満足そうに手を口元にあてた。「香る風、か。うん。いいね」


「ほんと?」

 きみはうなずいて、「瑠璃花が私の()()()()()だ」って。あたしの名前を。呼んでくれて。なんだかとっても。こしょばゆい。感じがして。

「……ありがと」なんだか恥ずかしくなって。緑色の捕虫網で、顔を覆うように隠した。


 名前が気に入らないからって。あたしが名前をつけるなんて。

 なんだかとっても不思議に思うけれど。でも。それ以上に。

 同じくらいの年の子で。同じ嗜好(おもい)をもった子と出会えたことが。

 とても。とても。嬉しかった。


「あ……フウカちゃん」

「うん?」

「あたし、高校2年生。フウカちゃんは?」


 きみは。フウカは。その疑問に対して。

 木漏れ日を反射して幻想的に輝く長い髪をなびかせながら。


「ううん。そうだね。年齢は――生まれて5日目」


 なんて言って。

 悪戯好きな西風の妖精みたいに笑った。



      * * *



 こうして巡り合ったあたしたちは。

 ふたりで一匹の蝶を探すことになった。



      * * *



「フウカちゃん」

「瑠璃花」

「……見つからないね」

「うん。ここまで見つからないなんてね」


 あたしたちは身隠山の山頂付近にある大きなシイの樹の根に腰をおろして、空を仰いでいた。


「早く見つけないと。このままじゃ、時間がなくなっちゃう」


 本格的な工事が始まる秋まで時間はあるようにみえるけど。

 肝心のミヤマミドリシジミは、他県では春と夏の間――つまりは5~6月の期間にだけみられるとされている。


「…………」


 あたしは左腕の時計に目をやる。その日付カレンダーに示される数字は20をまわっている。

 もうすぐ、本格的な夏がやってくる。太陽が山々を照りつけはじめると、まるでその熱射線に羽を焼かれたようにして、春風の妖精(ゼフィルス)はその姿を見せなくなってしまう。


「そうだね。時間がない」


 フウカちゃんが、ふといつになく真剣な声で告げた。


「あ、そうだ……フウカちゃん。そういえば、ここのところずっとあたしに付き合ってくれてるけど、いいの?」

「うん?」

「無理に、あたしに付き合わなくても……ほら。もしも……ミヤマミドリが見つからなくっても。あ、ううん! きっと! 絶対に! 見つけるんだけど。だけど……また夏にも他の蝶を、探しにこようよ。一緒に、ふたりで。せっかく、同じ()()なんだし」

「――あ。そっか。言ってなかったっけ」


 フウカちゃんは。そこで。


「私、このへんにいられるのは()()()()なんだ」


 なんてことを。


「え? そ、そっか。いつくらいまで?」

「ちょうど、6月が終わるくらいまでかな」


 なんてことないように。


「……そっか。寂しいけど、仕方ないね。あ……だけど。すこしくらいフウカちゃんが遠くたって。あたし、そこまで行くよ? ほら。いろいろな場所で、いろいろな蝶にも会いたいし」


 きみは。フウカは。澄んだ瞳のまま。

 だけどその表情に郷愁をにじませながら。


「ううん。それはなかなか難しいかもしれない。私、この6月が終わったら――」


 言った。


「――ずっと遠いところに、行っちゃうんだ」

「え?」

「瑠璃花が思ってるよりも、ずっとずっと遠くに」

「……そっか」


 フウカは秘密の多い子だ。これまで色々と聞いても、蝶以外のことは『あんまり話せることでもないんだ』ってはぐらかされてきた。携帯だって持ってないって言うし。そもそも本当の名前ですらも教えてもらえてない。『瑠璃花がつけてくれた名前が本当の名前だよ』なんて。冗談か分からない澄んだ笑顔で微笑んでくれるけど。だけど――話したくないってことは。そういうことだ。


 きっとあたしは、きみから信頼をされていない。

 だからこそ。なんだかきみは。いつか。ふっと。目の前から消えてしまいそうで――怖かった。


「はじめてできた、友達なのに……あ」


 つぶやいてはっとした。友達。友達――なんだろうか。あたしたち。


 6月が終われば。きみはどこか遠いところに行ってしまうという。

 本当の名前も。連絡先も。教えてもらえていない。


 確かに嗜好(おもい)は同じだけど。

 奇跡的なまでに同じだけれど。それでも。


 あたしたちは、友達って言えるのかな。


 真夏になれば。きみは。きみの言う通り。

 どこか遠くに。思っているよりもずっと遠くに行って。

 それで。そのまま――なんだか。永遠に。会えない気が。した。


「……」

「どうしたの?」

「ううん、なんでもないっ。そっか――それなら、なおさらだ」


 きっと。あたしたちは。変わった嗜好をもった同志(マイノリティ)ではあるけど。

 友達とは。またきっと、別の種類の関係なんだ。


 お互いに好きなものを好きなだけで。

 でもそれってすっごく尊いことだけれど。ただ――それだけだ。


 あたしたちの好きは。この春と夏の間の不安定な時期だけの。

 砂上で偶々(たまたま)できた奇跡的な重なりにすぎない。だけど。


 ――その瞬間はあたしにとって。とても大切な時間であることは変わりない。


 それがたとえ。胡蝶の夢だったとしても。


「感謝、しなくちゃだよね」


 あたしはあらためて。きみに向かって。言った。


残り時間(タイムリミット)は短いけど……絶対に、見つけようね」

「もちろん――そのつもりだよ」



      * * *



 だけど。現実は。そんなにうまくはいかなくて。

 予定されていた工事が急に早まって。

 翌日から身隠山には、たくさんの工事の人たちやトラックがやってくるようになった。



      * * *



「ひどい……」


 たくさんの車両や人々が山に踏み入りはじめて一週間が経った。

 あっという間に周囲の工事は進んで、それまであった森の木々たちが切り崩されていった。沼の東側は大きく整地されて、黄土色の地面を露出する平坦な土地になっていた。そこに工事車両がいくつも並び、プレハブ小屋や仮設のトイレが建てられた。小屋の近くでは、休憩中の工事服に身を包んだ人々がたばこを吸って、青い空に向かって笑い声とともに白煙を吐いていた。周囲の空気には細かい黄砂のような砂が浮かんで濁っている。至るところに黄色と黒の虎ロープや立ち入り禁止の看板が張り巡らされている。今もどどどどど、と鈍く低い機械音が響いて空気と地面が不安定に揺れている。何かが壊されている音だ、とあたしは思った。


 ――そんな様子を、遠くから食い入るように眺めていたら、ヘルメットを被った小太りの男性に声をかけられた。工事関係者みたいだ。


「嬢ちゃん。こんなところで何してるんだ。見学か?」

「…………」

「うん? なんだあそりゃ。虫取り網か? 笑えるくらいにでかいな。鳥でもつかまえるのか?」彼は黄ばんだ歯を見せつけるようにして笑った。「貸してみろ。これでも昔はよくそのへんで虫を捕ってたんだ」


 捕虫網に伸びてきた手を振り払うようにして、あたしはその人から距離を置く。


「っ……なんだよ」男は苛立って舌打ちをしたあと、誰かに呼ばれたようでプレハブ小屋のほうに戻っていった。「こんな山奥で、変わってやがる」


「……っ!」


 あたしはなんだか。たまらなくなって。たまらなくなって。その場を思い切り駆け出した。


「絶対に、諦めてなんか、やるもんか……!」


 ぎゅう、と手にした捕虫網の柄に力をこめる。

 日付は6月の末。このままだと、6月が終わる前に。

 どんどんこの世界が壊されていってしまう。



      * * *



 そういえば。最近、きみのことを見かけていない。



      * * *


 時間がない、と焦ったのが裏目に出た。


「…………」


 放課後に家に寄らずに、そのまま身隠山に向かおうとして。

 網をはじめとしたいつもの採集用具を、学校に持ってきた。


『なにそれ? 剣道かなにか?』『すごい! 鈴岡さん、そんなこともしてたんだ』なんて。聞かれたから。『あ、うん、まあ』なんて。ごまかすように相槌を打って。竿は後ろのロッカーの上に置いて。小さく畳んだ網と採った蝶を保管する三角缶はトートバックに入れて、あたしの机の横にかけておいたんだけど。掃除中に。


 あたしの机を、クラスの男子がひっくり返してしまった。その拍子に。

 バックから小さく畳まれたあたしの網が転がって。床にぶつかった勢いで、捕虫網が開いた。


『おわ! なんだよ、これ。緑色の、網……?』


 それだけならまだよかった。

 つづいて鞄から転げ落ちた三角缶の蓋が開いて。中から蝶をおさめていた白い三角紙が滑り落ちた。その中のいくつかが勢いのままに開いて。中からまだ生きている蝶たちが何匹か、教室に向かって飛び立った。


『え!?』『きゃっ』『なんだよ』『蝶?』『蛾だろ!』


 教室の中がパニックになった。


『やば!』『あの机、鈴岡さんのだよね?』『なんで鈴岡さんの鞄に、生きた蝶が入ってんだよ』

『げ! 見てみろよ、この三角の紙の中に入ってるやつ、ほかもぜんぶ蝶だぜ』『わ、まだ生きてるじゃん』


 そんな驚きの中に。どうしたって。彼。彼女たちの。無意識のうちの言葉(とげ)が。混じる。


『――気持ち悪い』


「……っ」あたしの全身に鳥肌が立つ。あの時の記憶がよみがえる。


『ねえ? 瑠璃花ちゃんも、そう思うでしょ?』


 集団では異質は排除される。気持ち悪いと嫌悪を向けられる。それは無意識的な嫌悪で避けられるものじゃない。分かってる。あたしの〝好き〟の感情が、無意識的であるのと同じで。みんなだって。その感情を。〝気持ち悪い〟って感情を。押さえつけるのは難しい。だって。やっぱりあたしの趣味は。どこまでも異質だから。


「それ、でも……」


 あたしはつぶやく。脳裏には、きみと――フウカちゃんと一緒に過ごした時間のことを想い出している。自分の大好きなことについて話して。きみがまた大好きで答えてくれた時の――目の前が晴れたようにときめく感情を。想い出している。


「それでも……っ」


 大多数の人(マジョリティ)に受け入れられることがなくったって。

 世界のどこかには。自分と同じ想いをもった同志がいる。少ないかもしれないけれど、きっとゼロじゃない。それはもしかしたら、()()とも違う存在かもしれないけれど。


 自分の好きを正直に伝えて。あたしの好きを。相手も好きだと返してくれて。お互いの好きが重なり合って――そんな奇跡みたいな瞬間が。一生に一回くらい訪れることもあるかもしれない。ううん。あたしには実際に訪れた。


 小さい世界かもしれないけれど。あたしはフウカちゃんと。その瞬間。同じ世界に生きていた。

 そしてあたしは。そんな自分の大好きな世界を――


「大切に、したい……!」


 今度は絶対に。自分の好きの気持ちを。

 ごまかすことは。したくない。だから。


「だからっ――」


 あたしは大きく空気のかたまりを飲み込んで。意を決して。

 落ちていた緑色の網を拾って、未だざわめきと悲鳴がおさまらない教室の後方に向かって、駆け出した。


『わ!』『鈴岡さん!?』


 長い特製の布袋の中から、カーボン製の竿を取り出す。その先端のジョイント部分に、手にしていた緑色の網の接続部分をねじ込んではめる。その様子を周囲のみんなが怪訝そうな表情で見ている。


『きゃっ!?』『こっちくんな!』『きも!』『おい、そっち行ったぞ』『箒使え箒!』


「動かないで!!!!!」


 あたしは。今まで出したことのないような音量の声で。

 叫んだ。


『『っっっ!?』』

 周囲が静まり返る。みんなは驚いたような表情を浮かべている。呆気に取られている。茫然としている。

 そんな中で。幾匹かの蝶たちだけが。周囲の異変を気にも留めずに。優雅にゆったりと教室の中を浮遊していた。


「動かないで」あたしはもう一度言った。「大丈夫だから」


 今度はささやくように言ってから。慣れた手つきで、蝶たちを網で捕まえていった。

 1匹。2匹。3匹目を捕まえると。蝶たちを白色の三角紙の中へと折りたたむようにしまっていく。

 残りの4匹、5匹もなんなく捕えて。同じように三角紙の中に入れた。


『……え。鈴岡が』『捕まえた。蝶?』『つうか。それ、網?』


 あたしは小さくうなずいた。


『え、なに。蝶つかまえて、どうすんの。飼うの?』

「……標本に、する」


 周囲がまたどよめいた。


『標本って……蝶の?』


 こくん。あたしはもう一度うなずく。

 周囲のどよめきが増していく。頭の中では、昔言われた言葉(とげ)が繰り返し響いている。

 それはもしかすると、現実に言われている言葉じゃないのかもしれない。だけど、あたしの脳の中で声が鳴りやむことはない。


 ざわめきが最高潮に達した瞬間に。

 あたしは。口を開いた。


「……たしかに。あたしは」

『え?』

「標本をつくってる。そのためには。蝶を捕まえて――殺してる」

『鈴岡、さん……?』

「だけど、あたしは必要以上には虫を殺さない。ゴキブリも殺さない。蚊に刺されたら、血が吸い上げられるまで動かずにその様子をじっと観察してる。アリの行列だって踏みつけないように気にかけてる。だけど標本をつくるのが好き。すこしでも綺麗に標本にしてあげたいって思う。できた標本を箱に並べて、それを眺めて綺麗だなあって思う。あたしは。蝶が。好きだから」


 自然とあたしの声の中に、嗚咽が混じり始めるのが分かった。

 あたしは震える声のまま、続ける。


「あたしは、蝶が、好き。だからっ! だから、標本もつくるけど。そのぶん――あたしは、蝶が滅ばないためだったら、なんでもするっ! 蝶のためだったら。みんなが遊んでる時間も勉強してる時間も。ぼうっとしてる時間も。ぜんぶ蝶のために使う。だって、蝶が好きだからっ……! だから、時には、一匹の蝶のために――人間の幸せだって、奪う」


『鈴岡さん?』『だいじょうぶ……?』


「大丈夫゛っ!」あたしは思い切り叫んでから。震える声で。涙交じりの声で。溢れる涙を止めずに。それでも。みんなに向かって。笑顔を。にって浮かべて。言ってやった。


「残念だったね、アウトレット、できないよっ……!」


「……え?」


 教室に、あたしの息が切れる音だけが響いてる。

 鼻を何度もすすって。手の甲でこすって。ハンカチで拭って。

 もう一度。あたしはみんなに向かって。言った。


「あたしは、蝶が好き。ただ、それだけ」


 みんなの空気で分かった。きっとみんなは、あたしのことを気味悪く思ってる。

 でも。そんなことは当たり前だ。それでいい。あたしだって分かってる。

 あたしの趣味は――だれにも理解されることはない。それでも。


「もう。好きなものに嘘をつくのは、いやだから……っ」


 今度はあいまいな笑顔でなんか誤魔化さないし。謝ったりもしない。罪悪感だって感じてやるもんか。

 自分の大好きな気持ちを。絶対に。ごまかさない。好きなものは好きだって。はっきりと。

 自信を持って。言ってやった。


 その瞬間。窓から大きな風が吹き込んできた。


「っ……!」


 全身を包みこむように暖かい――夏の風だった。

 身体にたった鳥肌は未だおさまらずにいる。心臓はゆっくりと大きく高鳴っている。身体が熱をもっている。じっとりと汗がにじんでいる。呼吸は不規則で荒い。目に滲んだ涙は乾かない。でも。すごく。晴れやかな、気分だった。


「ごめんね。行かなきゃいけない場所があるんだ」

『……行かなきゃいけない場所?』


 あたしはこっくりとうなずいたあと。

 満面の笑顔を浮かべて、言ってやった。「蝶を捕まえに行くの」


『『………………』』


 すこしの間があったあとに。


『あはっ』『あはははははっ』


 みんなが、笑った。


「え? ……え?」


 その笑い声は。冷笑とか。軽蔑とか。そういうものが一切ない、からりととした温かいもので。あたしはすこし、戸惑ってしまった。


『あはは』『なんだ。鈴岡さん、そんなふうに笑えたんだ』『意外。なんか、とっつきにくい感じしてたんだよねえ』『わかるー。なんだか、あたしたちみんな、嫌われてるのかなって思ってた』『壁があったよなー』


 みんなはなにを言ってるんだろう。あたしは目をぱちくりとさせる。

 そう感じていたのは。他ならないあたしのほうだったのに。


『なんだ。鈴岡さん、虫好きだったんだ』『おれだって最近はやってなかったけど、ちっちゃい時は標本作ってたぜ』『あ、うちもおじいちゃん家で鈴虫飼ってたー』『あたしの弟もカブトムシ飼ってるよー。結局エサあげるの忘れててあたしが面倒みてる。ほら、あのカラフルなゼリーのやつ』


「……え」


 信じられない気持ちだった。あたしの趣味は。だれにも受け入れられないと思っていた。なのに。


『あ、……でもあたしは無理。やっぱり虫は気持ち悪い』


 って。目の前のクラスメイトのひとりは言うけれど。


『気持ち悪いし、触れない。鳥肌が立つ。虫なんて見るのもいや。だから。正直――そんな虫のことが好きな鈴岡さんのこと、気持ち悪いって思う。』


 そんなふうに。分かっていたことを言われたけれど。


『だけど――それで鈴岡さんのこと自体が嫌いなんてこと、ならないよ』


「……っ」


 気づけば。

 あたしの頬は震えて。暖かな液体が染みていた。


『ねえ、作った標本の写真とかないの?』『え、みたいみたい!』『見せてー!』

「あ……うん」


 あたしはおそるおそる、学校の子たちには一度も見せることのなかった(そして、今後も決して見せることのないと思っていたはずの)蝶のフォルダを開いて、その写真を見せた。


『え! すっご! これぜんぶ鈴岡さんが捕まえたの?』『ていうか、標本もこれつくったの!?』『博物館よりすごいじゃん』『きれー!』


「え……ほんと?」


 そこで投げかけられたたくさんの言葉に――悪意(とげ)なんて、ひとつも感じられない言葉たちに――あたしは驚いて。思わず前のめりでみんなの前にスマホの画面を見せつけた。


『ほんと! まじすげー!』『まさか鈴岡にこんな趣味があるなんてな』『今度俺も虫採り連れてってくれよ!』

「あはは。ほんとは来る気ないくせに」

『え、ほんとほんと!』なんて。冗談でも嬉しい言葉を。みんなはくれた。

「……ありがと」


 なんだか。これでいいって。あたしは思った。いろいろなものがぐちゃぐちゃで。とりとめもなくて。

 実はなにひとつ解決なんてしてないかもしれないけれど。


 うん。これでいい。

 あたしの趣味は。やっぱりだれにも理解されなくたっていい。

 だけど――きもちわるいって。面とむかって笑って言ってくれる人に出会えたら。それがきっと大きな一歩だ。


「みんな――ありがとうっ」



      * * *



「……あ」


 最初は気づかなかった。

 身隠山のいつもの小径。すこし開けた場所にある、大きなシイの木のふもとに。


「フウカちゃん!?」


 フウカが。その幹の凹みの部分に体を預けるようにして横たわっていた。


「どうしたの? だいじょうぶ……!?」

「……ん」


 声すらも。消え入りそうだった。

 葉を通して上空から差し込む光の関係だろうか。

 幾何学模様のような光の跡がフウカの細くて白い身体の上でゆらゆらと揺れて、今にもそのまま風の中に消えてしまいそうだった。


「体調、悪いの?」

「ん。だいじょうぶ。すこし横になりたかっただけ」

「でも……」

「だいじょうぶ」って。きみは繰り返して。「時間がないんでしょ」

「……っ」

「時間がないんでしょ」


 繰り返すきみのほうが。時間がないような気がして。だけど。


「きっと。瑠璃花になら見つかるよ」


 そんな言葉をくれるきみの瞳が。

 いつもと同じように。まっすぐで。澄んでいて。偽りを言っているようには見えなかったから。


「うん……また。戻ってくるから。絶対に無理はしないで」


 きみはちいさくうなずいた。あたしはふたたび森の奥へと捕虫網を握って駆け出す。


 やっぱり途中でどうしても気になって。振り返ってたけれど。

 そこにはきみの姿はもう、見当たらないようだった。



      * * *



 次の日。6月の最終土曜日。ミヤマミドリシジミが見つかった。

 あっけなくもあって。唐突でもあって。奇跡でもあった。

 あのあと、クラスメイトの数人たちが、本当に『虫捕りに行きたい』と誘いに来てくれた。

『探してる蝶がいる』ってことを話したら、『俺たちも一緒に探す』って。一緒に身隠山にまで来てくれた。確かに彼、彼女たちは虫を探すことに慣れた目ではないかもしれないけれど。それでも左右の目が10以上にもなれば、今まで見つからなかったものが見えてくる。


『こっちのほうは探した?』なんて。何年も来ているあたしでも、知らなかった獣道を見つけてくれて。そのうちのいくつかを巡っているうちに。


「あ――」


 あっけなくもあって。唐突でもあって。奇跡でもあって。

 その憧れた蝶は。指先を重ねたくらいの小さな蝶は。まるで金属のような緑色に輝く風の神様が。目の前を。横切った。その蝶は跳ねるようにいくつかの葉先をうつると、そのまま背の高い(ベニ)(ガシ)の上へと飛び立って、その樹冠の周辺を素早く飛翔した。


「っ」


 あたしは息を殺して。ごくりと唾を飲み込んで。高鳴る心臓そのままに。手にしていた竿を限界まで。伸ばしていく。全長7.2m。ゆっくりと竿を空に向かって立てていく。高く。高く。持ち上げていく。ずしりと両腕に重力がかかっていく。カーボン製のシャフトがしなっていく。細く天高くまで伸びた竿を反転させて。網の形をととのえる。視線の先には、ちらちらと樹上を跳ねるように飛ぶミヤマミドリシジミがいる。近くの葉に緑色の網をなじませるようにて伏せて。その時を待ち受ける。世界の速度がゆるやかに感じる。すべてのものが停滞している中で。ただひとつ――緑色に輝く蝶だけが。踊るように跳んでいる。


「……っ」


 そして。

 すべて。を。あたしの人生のすべてを。

 その刹那に。かけた。


「っ!」


 網の中に蝶が入った。

 その瞬間に、手首を返して。網をくるりと回して逃げ道をふさぐ。そして。世界は動いた。


「――やった」


 あたしはその小さな一匹の蝶を。

 網の中に、おさめた。


 心臓の鼓動はおさまらない。高く熱く全身に血液を送り出している。全身は震えている。震える手を伸ばして。ジョイントの部分をひとつずつ。ゆっくりと。縮めていく。半分ほど縮めたところで、そのまま竿を地面に倒した。駆け寄っていく。その網の中では。憧れだった蝶が。夢にまで見た蝶が。あたしの世界を救う蝶が。入っていた。


「~~~~~っ」


 感情が爆発した。喉に熱いものがこみあげてく。頬に涙が伝う。

 まわりにいたクラスメイトたちがやってくる。大きな声で祝福をしてくれている。


「あ……フウカ」


 その喜びを。いちばんに伝えたいひとがいたから。あたしは周囲を見渡して。彼女の姿を探した。


「あ、あのっ――いなかった? きらきら光る、長い髪の毛の、白い肌の……捕虫網を持った、あたしと同じくらいの背の……」


 だけど。みんなは首をかしげて。


『あ、いや……そんな子、一度も見かけてないけど』


 そんな言葉が返ってくるのは、どこか予感をしていた。

 だけど。どうしても。お礼を伝えたくて。この気持ちを伝えたくて。

 だけど。その感情の行く先は。吹き込んできた真夏の匂いのする風の中に吹かれて消えた。


「……う、ああああああああ」


 あたしは、今まで包まれたことのなかった自然と人間の熱気の中で。

 大きく声をあげて泣いた。



      * * *


 あたしは銀色にきらめくステンレス製の有頭1号針を指先でもって、蝶の胸部に突き刺した。

 ぷすり、と枝豆の皮から空気が抜けたような感触がある。昆虫針は空気の層を泳ぐように蝶の内部を進んで、裏側から針先がでた。正面から複眼を覗きこむようにして、針がまっすぐ通っているかを確認する。失敗するわけにはいかない。さっきから指先が震えている。当然だ。今あたしが標本(ひょうほん)を作っているのは、幼少期からずっと憧れだった蝶だ。

 

 憧れで――それでいて、あたしのことを。あたしの世界を。ううん。それだけじゃない。

 大げさに言わなくても、紛れもない事実として。あたしの住む()()()()()()を変えた一匹の小さな蝶だ。


 それは深山(ミヤマ)の名前を冠するミドリシジミ。国内の他の場所で生息が確認されながら、県内では絶滅したとされる場合、種を回復させる手掛かりを得るためにその種の個体の採集が認められている。


 あのあと、あたしは雄と雌を含んだ3匹を採集して、1ペアを隣の市にある昆虫記念館に持ち込んだ。種の同定を行うと正真正銘のミヤマミドリであることが分かり、すぐに市に働きかけてもらえた。結果として、工事は途中で中止となった。工事や施設の関係者からは相当な反対があったみたいだけど、最終的には折れたようだった。


 こうして――あたしは人間たちの楽しみを奪ったうえで。

 ひとつの蝶と。山と。その生息地を守った。あたしはどこまでも()()の異端な同志なのだ。


「……よし。続き続き」


 深呼吸。半透明の展翅(てんし)テープを持ち上げて、針が刺さったままの蝶を木製の展翅板(てんしばん)の中央へと据えた。机の脇に置いたプラスチックケースの中から玉付きのまち針を指先でつまむ。それを使って(はね)触覚(しょっかく)の位置を整えテープで固定していく。最後に仕上がりを確認して、額にうっすら滲んでいた汗を袖口でぬぐった。


「ふう……」


 息をついたあと、デスク横のクローゼットを開ける。そこには展翅版の他にドイツ箱と呼ばれる木製の昆虫箱がずらりと並んでいる。中身はすべてこれまでに捕まえてきた蝶の標本で、あたしの〝大好き〟が詰まった空間だ。


「そう、あたしが守った、あたしの大好きな――」


 噛み締めるように呟いてから、あたしは自分の部屋の窓を開けた。

 すっかりと真夏に香る風が吹きこんでくる。目を細めて風を浴びていると、どうしたってあたしは〝きみ〟のことを思い出さずにはいられなくなる。


 きみはあたしに、大切なことを教えてくれて。春を届けてくれて。

 そうして春が過ぎ去ると――跡形もなくどこかに消えてしまった。


「そんなこと。考えたってしょうがないけれど」


 今更なにを言っても。きみに届くことはないけれど。


『とっても遠いところに行っちゃうから』なんて。どこまでも澄んだ微笑みで言ったきみのことが。

『この春が終わったら』って。

『とっても遠いところに行っちゃうんだ』って。


 繰り返すきみの透明で、(はかな)げで、寂しそうな微笑みのことを。

 あたしはこの先もきっと忘れることはない。

 

 きみと過ごした奇跡みたいな毎日のことを。

 決して忘れることはない。


「…………」


 ふたたび展翅版に目をやる。そこには指の爪先と爪先を合わせたくらいの小さな蝶が。

 光を反射して金緑色(きんりょくしょく)に輝く一匹の蝶が()る。


「――ありがとう」


 そう。()()は間違いなく――あたしのことを。あたしの世界を。

 

 変えてくれたかけがえのない人だった。


「……()()?」


 もしかしたら。きみは――

 春の訪れを知らせてから、風とともに去ってしまったきみは。


『ずっと遠くの世界に行ってしまう』と告げていたきみは。もしかしたら――


「……なんてね」


 あたしは展翅版に据えられた緑色に輝く蝶に視線をむけながら。


 そんな春と夏の隙間に起きた神話のことを想った。



      * * *



「って……なんで、いるの……?」


 ミヤマミドリシジミを捕まえたあの日以来。

 春の気配とともにどこかに消え去ってしまったフウカが。

 目の前にいた。


「ん……ああ、瑠璃花。ひさしぶり」なんてことないようにきみは言って、なんてことないようにあたしの隣の座席についた。「ここ、あいてる?」

「あ、あいてるけど……」


 出会った場所は、九州で行われた昆虫に関する学会だ。あたしはあのあと、ミヤマミドリシジミの調査の時にお世話になった(そして、元から目指していた)九州の大学に入学して、その昆虫の研究室に所属。こうして国内の学会には足を運んだところで――フウカに再会した。


「な、なんで!? なんでここにいるの!?」

「なんでって――うちのキョージュが今日、発表があるから。私もついてきたの」

「あ……じゃあ、フウカちゃんも今は大学生ってこと……?」


 ん。って。フウカちゃんはいつかみたいに静かにうなずいた。「なんだと思ってたの?」

「あ、あたし、てっきり……フウカちゃんは、蝶の神様だったのかなって。それこそ、ゼフィルスみたいに」

 きみはおかしそうな声で言った。「あはは。そんなわけないじゃん」

「だ、だって――あんなに意味深なこと言ってたし」

「意味深?」

「この6月が終わったら、どこかずっと遠くの世界に行っちゃうって」

「うん。遠くの世界に行ったよ」

「え?」

「――Hi. I've been looking for you. There you are.( やあ。探したよ。ここにいたんだね)」

「え……?」


 後ろから声をかけてきたのは、海外の人だった。


「もしかして、フウカちゃんの大学って……」慌てて今日の学会の目録をめくる。そこに記されていたのは、アメリカの有名な大学だった。「ええええ!?」

「言ったでしょ。遠くの世界に行っちゃうって」

「たしかに……アメリカは遠いけど……でも……他にも、いろいろ隠してたし。それにフウカちゃん、ぜんぜん驚いたりしてないね」

「ん……だって私は、そのうちまた瑠璃花に会えるって思ってたし」

「ど、どうして?」

「だって――蝶屋の世界は狭いんだから」


 あたしはその言葉に。なんだか気の抜けたように安堵した。

 まさにフウカは。風の神様みたいに気まぐれだな、なんてことを思った。


「あ。そういえば、名前――」


 そこでフウカはすこしバツの悪そうな顔をした。


「前に言ったでしょ。あんまり好きな名前じゃないんだ」


 あたしはすこし閃いて、学会の参加者名簿を見た。英語で書かれた名前を確認していくけれど――もちろん、フウカという名前はないし。他に日本語の女の子の名前も見当たらなかった。


「George. Oh, by the way, the professor called you earlier.(ジョージ。そういえばさっき教授が呼んでたぞ)」


 ふたたび後ろの席でさっきの人が英語で話しかけてきた。

 その相手は――まさにあたしの隣に座るフウカのことを向いている。


「……って、え!? ジョージって、もしかして……」


 もう一度名簿をめくる。あった。その中で唯一の日本人の名前。さっきは気づかなかった名前。


「ジョージ・イタクラ――え、フウカちゃんって、もしかして」


 ふう、とフウカはあきらめたように息を吐いた。「……だから名前は言いたくないんだ。きらいになった?」

「ううん! ――まさか」って。あたしは食い気味に首を振った。


 フウカはどこか安心したみたいに頬を緩ませた。


「じゃあね。キョージュに呼ばれたみたい。行ってくる」

「あ……また、戻ってくるよね?」ってあたしはきいた。


 きみは不思議そうに「もちろん。ここ、私の席だし」って。あたしの隣を指さして云った。

「そっか。そうだよね」

「あ、そうそう」ってフウカは手を打って。「スマホはおかげさまで買ったんだ。あのときは本当に持ってなかったんだけど。なくったって私は良かったんだけど。まわりが買え買えってうるさいから。だから、さ。あとで。教えてよ。瑠璃花の連絡先」

「え……いいの?」

「さっきから不思議なこと言うね」

「だって。あんまり連絡取りたくないから、もってなかったんじゃないの……?」

「ん。まあ、そうだけど――瑠璃花は友達だし」

「トモダチ?」

「え。ちがったの」


 あたしはその4文字に。ずっと憧れていた関係に。とっくの昔にきみとなれていたことを知って。なんだかすっごく嬉しくなって。


「――うんっ」くしゃくしゃな笑顔で、頷いた。

「よかった。じゃ。またあとで。いってくるね」


 歩きはじめたきみは、途中で振り返って、


「あ、そうだ。瑠璃花は私のこと、ゼフィルスなのかもしれないって思ってたって言ってたけど――それなら正しかったかもね」

「え?」


 やっぱり悪戯好きの西風みたいに笑んでいった。


「だって――ゼフィルスは男の神様だし」

「~~~っ……」


 なにかを言い返したいけれど。うまく言葉が出てこない。

 でも大丈夫。これからはきっと。気まぐれなきみのことを。いつだって捕まえられる――そんな自信があった。


「それじゃ。またあとで」

「うんっ! また、あとで」


 そうやってふたりでささいな――だけどとても大切な約束をして。

 あたしはどこまでも同じ趣味(マイノリティ)な友達の後ろ姿を見送った。







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「蝶が好きな女の子」というマイノリティとしての瑠璃花の苦悩が痛いほど伝わってきました。「もう好きなものに嘘をつくのは嫌」という言葉からは、これまで彼女がどれほど自分の気持ちを押し殺してきたかが感じられ…
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