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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夜と月と流れる星と。

作者: ぽんぽろん

 

 泣き止まない我が子を抱いて、どのくらい時間が経ったのだろう。


 初めての出産、初めての子育て。

 お互い初心者だから、母乳をうまく飲ませることも、うまく飲むことも出来ない。


 殆ど出ない母乳を強く求められて、胸の頂は一週間も経たずに裂けた。薬も塗れず、時間を置かずに強く吸われるから治りが遅い。


 満腹になる前に疲れ果てて眠ってしまうから、すぐにお腹が空いたと泣き出して。

 何とか飲み終わったと思えば、おむつが濡れたと泣き出して。

 寝かせた途端に全てを戻し、シーツも布団も洋服も母乳まみれ。

 全てを交換して、朦朧としながらベッドに潜り込めば、お腹が空いたと泣き出して。


 昼も夜もなく、何度も何度も寝しなに起こされることが、こんなに辛いと思わなかった。

 そして、そうやって私を育ててくれた母の苦労を知り、ぼんやりとしか思い出せない母に感謝する。


『ひと月たてば、まとめて寝てくれるようになるから』


 先輩にそう言われたのを思い出して、まだニ週間以上もあるのかと気が遠くなった。

 二十分でいい。どうかまとめて寝かせて欲しい。

 我が子の泣き声を聞きながら、私も泣きたくなった。


 ◆◇◆◇


 あれからひと月経った。

 母乳の出は良くなった。胸の頂の傷も治った。


 けれどまとめて寝てくれない。


 うとうとすると、火をつけたように泣き出す。

 退院したての頃よりも大きくなったから、泣き声も大きい。

 抱き癖が付くからと、泣いてもすぐに抱くことを止められた。


 こっそり様子を見に行けば、涙でぐちゃぐちゃになってもなお、時々しゃくり上げては思い出したかのように泣き出す子を見て胸が痛んだ。


 罪悪感から抱きあげても、何かの拍子に大きく泣き出す。


 睡眠不足は依然解消されていない。


 空腹でもない、おむつでもない、寒さ暑さでもない。全てを整えてやっても、満足に寝てくれない。


 生まれてふた月も経っていない我が子に腹を立て、ぞんざいに扱ってしまったこともあった。

 声を出さずに涙をこぼした子を見て、私は泣きながら謝った。


 泣いてばかりの子を見て、義父母も我が家に訪れることが少なくなって来た。夫は長期出張から帰らない。


 このまま二人で死を迎えようかと血迷うほどには私も追い詰められていたらしい。


 そんなある夜。


 子を抱きながらソファで寝てしまったのか。

 慌てて子供を見ると、今までになく穏やかな寝顔をしていてホッとする。

 私も久しぶりに熟睡出来たのか、頭がスッキリしていることに気がつく。時計を見るとニ時間も経っていた。


 また空腹で泣き出さないかとしばらく見ていたけれど、時折口元が動く以外、目覚める気配がない。


 そっとベッドに降ろすと、一瞬、我が子の口元がにやりと笑う。


『天使があやしてくれているのよ』


 同室の見舞客が、そう教えてくれたのを思い出した。


 天使でも悪魔でもいい。もう少しだけ、寝かせて下さい。

 そう祈りながら、私も布団に潜り込んだ。


 そしてその日から、我が子は良く寝てくれるようになった。

 今までは嘘のように、よく眠る。起きている間はとても機嫌がいい。


 私の顔を見ては、うーあーと嬉しそうに口を動かす。


 こんなにも可愛かったのだと思い知り、死を考えてしまった自分を恥じ、謝罪し、全てのものに感謝した。


 ◆◇◆◇


「終わったの?」


 屋根の上で星を眺めてたら、視界の隅に影が動いた。

 ふわふわのしっぽがあたしのほっぺをくすぐる。


「くすぐったいってば」

「今夜は幾つ星が流れたの?」


 あたしの文句なんておかまいなしに、あいつはうーんと伸びをする。

 あわてて手のひらを見て、幾つだったか数える。


「えっと……三つ!」

「そっか」


 あいつはあたしの目の前をわざと歩くと、今度は鼻をくすぐってきた。


「くすぐったいってば」

「帰るよ」

「うん。あ、待ってよ」

「ほら早く」


 慌てて立ち上がり、こちらを振り向いているあいつの後を慌てて追った。


「ねえ、今日も上手くいったの?」

「当たり前だろ」

「そっかあ。良かったね」

「まあね」


 わざとそっけないフリしてるけど、揺れてるしっぽはごきげんの証。


「ツンデレだなあ」

「何それ」

「えっとね、パン屋のニーナちゃんが言ってた。いつも冷たいのに、二人きりになるとごきげんになるのをツンデレって言うんだって」

「…別に機嫌がいいわけじゃないし」

「えー、だってそのしっぽ」


 揺れてるしっぽをそっと掴むと、あたしの手のひらからするりと逃げる。


「バランス取ってるだけだし。邪魔だから触るなよ」

「あ、待ってよ」


 いきなり走り出したあいつ。置いていかれないように、あたしも慌てて走り出す。


「ごきげんのサインはしっぽだけじゃないのに」


 吸い取った記憶があいつの体の周りでちらちらと輝き、あいつをほんのりと照らす。

 今夜は月が隠れているから、あいつがお月様になったみたい。


 黒いはずなのに、金色に見える。


 それを見てるとなぜかあたしも嬉しくなる。


「ほら、置いていくぞ」

「待ってってば」


 わざとスピードを上げるあいつ。

 あたしはあいつの後ろを追いかける。


 ◆◇◆◇


「ねえ、吸い取ってる記憶って、怖いやつ?」

「ん?」


 今夜は星が流れなかった。

 がっかりしていると、ふわふわのしっぽがあたしの首元を掠めていった。


「だってさ、吸い取ったら消えて無くなっちゃうんでしょ?あたしはいいことはずっと覚えていたいな」


 ふわふわのしっぽは気持ちがいい。

 目をつぶってふわふわを楽しんでたら、感触が無くなった。


「いいことって?」

「えーっと……こないだは星が四つも流れた!」


 目を開けた途端に、ふわふわがあたしの顔を撫でていった。


「しっぽ!目に入っちゃうよ」

「なあ」

「ん?」


 両手で顔を擦っていたら、あいつがあたしの顔を覗き込んだ。


「他にもいいことってある?」

「えー?そりゃあるわよ。……えーっと……あ!こないだは青い星がキラキラしてた!」

「青い星?」

「うん。青くて白くてきれいな星だった」


 あいつの顔が目の前に近づいて来た。そのままにらめっこをしていたら、冷たい鼻があたしの鼻にくっつく。


「どうしたの?」

「いや、何でもない。それでその青い星は?」

「え?ええと……覚えてない」

「あっそ」


 顔を離すと、あいつはごろんと丸くなった。

 あたしも隣で丸くなる。


「ねえ」

「なに?」

「なんでこっちにおしり向けるのよ」

「べつに」


 ふわふわのしっぽが、あたしの顔をぱたんぱたんと叩く。


「くすぐったいってば」

「いいから寝ろよ」

「くすぐったくて寝られないよ」


 寝かさないつもりで顔を叩いているんでしょ?


 そう言おうと思ったのに、ぐいと夜に引っ張られた。


 ◆◇◆◇


「今日は幾つ流れたの?」

「あ、おかえり。ええと、二つかな」

「そっか」


 指を数えて答えると、ふわふわのしっぽがあたしの鼻をくすぐった。


「くすぐったいってば」

「帰るよ」

「あ、うん。そういえば、さっき青い星がお月様に寄り添っていたわ」

「青い星?」

「うん。青くて白くてきれいな星だった。……どうしたの?」

「いや、何でもない。ほら早く」

「うん」


 金色のあいつを追いながら、あの青い星を思い出す。

 青くて白くて小さい星が金色のお月様に寄り添っていて。


 あいつがお月様なら、あたしがあの青い星かな。


「大きさは、あべこべだけどね」

「何か言った?」

「ううん、なにも。ねえ、待ってってば」


 あの星は、お月様が好きなのかな。


 ◆◇◆◇


「なあ」

「ん?」


 うとうとと夜に引っ張られていると、ざらりと少し痛みを感じる。

 目を開けると、あいつがあたしのほっぺを舐めていた。


「ちゃんと寝てたのに」

「なあ、あの青い星」

「え?」


 あいつは丸まって寝ていたあたしの腕と腕の間に割り込んできた。

 そのまま夜に引っ張られそうになったら、またざらりと痛みを感じた。


「ねえ、痛いってば」

「なあ、あの青い星はどうなった?」

「え?」

「月に寄り添ってたのを見たんだろ?」

「えー?」


 眠くて眠くて仕方がない。夜に引っ張られそうになると、ざらりと痛い。


「ねえ、痛いってば」

「なあ、あの青い星は?」

「あおいほし?」


 次の瞬間、青い星がまたたいた。


「あ、今見えた」

「どこ?」

「え?ほらそこに」


 頭を持ち上げようとすると、あいつの顔が近づいて来た。


「ちょっと、見えないよ」


 冷たい鼻があたしの鼻にくっついた。


「それで、青い星は?」

「え?……分からない」

「あっそ」


 また夜に引っ張られる。もうあいつは舐めてこなかった。

 ……気がする。


 ◆◇◆◇


「ねえ、どうして記憶を吸い取っちゃうの?」

「ん?」


 毛繕いしているあいつの隣に寝転んで、何となく聞いてみた。


「赤ちゃんの記憶。どうして吸い取っちゃうの?」


 あいつはあたしの肩に顔を擦り付けてくる。

 毛繕いが終わると、届かない頭を掻くのはあたしの役目だ。

 右手でおでこをやさしく掻くと、あいつは気持ちよさそうにあたしの手に顔を擦り付ける。


「何も知らないより、知っていた方が色々と楽でしょ?」

「たとえば?」

「え?えーと」


 知っていたら楽なこと……。


「あ、そうだ、男なんて嘘つきだから信じちゃだめ、とか?」

「何それ」

「え?酒場のライカさんがそう言ってた!」

「お前なあ」


 フッと鼻で笑うと、あいつがあたしの顔を覗き込んだ。


「なあ」

「なに?」

「俺も男なんだけど」

「うん、知ってるよ」

「そうじゃなくて」


 あいつはあたしの肩に頭をぶつけて来た。


「なあ」

「なに?」

「俺も嘘つきか?」

「え?」


 今夜は月が隠れているから、金色にほんのりとひかるあいつはいつもよりきれいだ。


「嘘つきなの?」

「俺が聞いてるんだけど」

「嘘つきじゃないでしょ」

「なら、この先出会う男はみんな嘘つきだと思うか?」

「うーん。分かんないや」


 あいつの耳の後ろを掻いていると、あたしの右手をぐいぐい押してくる。


「ねえ、やりにくいってば」

「なあ」

「え?」


 あいつの金色の瞳があたしをじっと見てる。


「あいつらはな、新しく始めるために生まれて来たんだ。

 新しい存在として、色んなことを経験するために。

 それには前の記憶なんて無くていいんだ」

「そうなの?」

「ああ」


 でもなあ。


「あたしはいいことはずっと覚えていたいけどなあ」

「いいことって?」


 あいつの顔が近づいてくる。

 ああ。まただ。


「冷たい鼻があたしの鼻にくっつくと……夜に引っ張られるんだよね」


 そのギリギリで、あいつが止まった。


「そうか?」

「うん。ほら、こうやって……」


 冷たい鼻があたしの鼻にくっついて。


「ほら、寝るぞ」

「うん……」


 頭がぼんやりして、夜に引っ張られて。

 それはとても気持ちが良くって。


 あいつのふわふわが、いつまでもあたしの顔に当たっている。


 ◆◇◆◇


「探しましたよ」


 終わったの?そう言おうとして、あたしは口を開けたまま声が出なくなった。

 そこにいたのはあいつじゃない。


 白くて、青く光っていて。


 ふわふわのしっぽも、ふわふわの毛並みも同じ。でも違う。


「さあ、帰りましょう」

「あなただれ?」


 だれかがあたしの顔を覗きこむ。


「ふむ。私が分かりませんか?」

「知らない」


 知らないことが急に怖くなった。


 慌てて立ち上がると、だれかが首を傾げる。


「どうかしましたか?」

「あたし……帰る」

「ええ、帰りましょう。彼の方もお待ちです」

「ちがう!」


 怖い。


「あたしは、あいつと帰るの!」

「あいつ、ですか」


 あたしは後ずさる。


 だれかは一歩前に出る。


「こっち来ないで!」


 怖い。


 あいつと同じ姿をしてるのに、声だって似ているのに、絶対に違う。

 それなのに心のどこかが波立っている。

 何か嬉しいことが起きたときのような、ざわざわした感覚。


 目を逸らさないと。そう思うのに、気になって見てしまう。

 あいつと同じ金色の瞳があたしをじっと見つめている。


 その瞳はなにかを訴えていて。

 それは今までに使ったことのない言葉で表すもので。


「れんびん……?」


 心の中で湧き上がった一つの言葉。


 なぜかその言葉の意味を知っていることに気付いた瞬間、目の前を影がよぎった。


「何してる」

「あ……」


 あいつはあたしの目の前で、だれかに対して真っ黒な毛を逆立てた。しっぽなんていつもの三倍位に膨らんでいる。


 吸い取った記憶があいつの周りで輝いて、あいつはいつものようにほんのり金色に光っている。

 毛を逆立てているせいか、とても大きな金色の光。それはまるでお月様のよう。


 そして、あいつと似た全く似ていないだれかは、あいつの威嚇にも反応しなかった。

 ただ、あいつをじっと見つめている。


「あんた誰?」

「ああ。あなたが"あいつ"ですか」

「何の用だ」

「あなたは……そう。覚えてないのですね」


 音のない何かを、あいつはだれかに放った。それはものすごい勢いで、だれかに向かっていった。

 怖くて思わず目をつぶってしまったけど、聞こえて来ただれかの声は、さっきと変わらず、落ち着いていた。


「手遅れになる前にどうか解放なさって下さい」

「失せろ。これは俺のだ」


 目を開くと。勢いよく金色が青白い光にぶつかって行った。

 くっついては離れ、離れてはまた絡み合って。

 時々上下が逆さになって、見てるこっちがクラクラしてくる。


 突然、足元の部屋の窓が開いた。

 そして、怒鳴り声と共に、あたしに向かって何かが投げつけられた。


「うっせーぞクソ猫どもが!!どっかに行きやがれ!」


 ぶつかる!

 あわてて顔をそむけようとした時に、青白い光があたしと投げつけられたものの間に割り込んできた。


 次の瞬間、あたしのお腹を大きな手が支え、そのまま宙を飛ぶ。あいつは青白い光目がけてもう一度見えない何かを放った。


 さっきまでいた屋根はマッチ箱ほどの大きさしかない。


「すごい!ねえ!空が飛べたの?!」

「舌噛むぞ。黙ってろ」


 あたしは慌てて口を閉じた。


 ◆◇◆◇


「なあ」

「んー?」


 人の形をしたままのあいつが、隣に寝そべるあたしの顔をのぞき込んだ。


 今夜はいつもよりも眠い。夜に引っ張られてうとうととしていたのに、あいつの大きな手があたしの頬を撫でる。


「どうして驚かないんだ?」

「えー?」


 眠くて仕方なくて、寝返りを打って横を向いたのに、肩をつかまれて無理やり仰向けにされた。

 何とか目を開けると、人の形をしたあいつがあたしの体の上におおい被さっていた。


 大きくあくびをして、涙が滲んだその目であいつを見る。

 金色の瞳。不機嫌そうな顔をしているのに、どこか泣きそうな顔。

 真っ黒な髪の毛に黒い眉毛、すっと通った鼻。肌は白くて、唇はほんのり赤い。

 隅から隅まで眺めてから、安心させたくて笑ってみた。


「だってどこも変わらないよ」


 本当に眠い。顔だけ右に向けたら、あいつの大きな手がそこにあった。

 いつもあいつがするように、あたしはその手に顔を押し付けた。


「……」

「尻尾がないのは残念だし、ふわふわの毛も恋しいけど。でもどこも変わらないよ」


 大きな手のひらはとてもあたたかくて。

 あたしの頬をそっと撫でてくれた。


「ごめんね、本当に眠いや。おやすみなさい」


 ぐいと夜に引っ張られた。あいつはもう邪魔をしなかった。


 ◆◇◆◇


 次に目を覚ました時、あたしは後ろから抱きしめられていた。

 目の前の腕に顔を埋めて大きく息を吸い込むと、いつもと変わらないあいつの匂い。それが何だかほっとする。


 モゾモゾと体を動かして、あいつと向き合う。

 黒くてあたたかなマントがあいつと私を隠してくれている。

 白いシャツに、黒いトラウザーズ。ボタンがふたつ外されている胸元に、細い金の鎖を見つけた。

 そっと引っ張り出すと、くすんで鈍く光る指輪が通されていた。石はむらさき色で、中心から外側に向かって色が薄くなっている。


 不意に何かを思い出しそうになる。それと同時に、胸がギュッと締め付けられた。


「っ」


 その甘くて強い痛みに思わず声が出てしまうと、あいつが薄っすらと目を開けた。

 その目はあたしを認めると、ほんの少しだけ弧を描く。そして、そのまま強く抱きしめられた。


「もう少し寝てろ」

「う、ん」


 胸の痛みはまだ消えない。心の奥から湧き上がる感情が溢れ出す。何も悲しいことはないのに、溢れ出た悲しみは、あたしの視界をぼやけさせる。

 何が悲しいのか分からないのに、涙はどんどん膨らむ。


 涙が重みに堪えきれなくて頬を伝う。それを合図に涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

 もう一度開いたあいつの瞳に、あたしの顔が映り込む。


「どうした?!どこか痛いのか?」

「ちが」


 大きく見開いた金色の瞳。あいつの大きな手が、あたしの顔を、体を撫でまわす。

 溢れる涙をすくい、もう片方の手があたしの背中をとんとんと優しく叩く。


 あたたかくて、心地よくて、安心出来るはずなのに。

 あたしは心細くて、悲しくて、寂しくて泣いた。


「大丈夫だから」

「ふっ」


 おでことおでこがくっつく。あいつは自分の鼻をあたしの鼻に擦り付ける。


「大丈夫だから」

「ん」


 あいつはあたしの濡れた頬に口付ける。そして溢れる涙をそっと吸い取った。


 遠い昔にそうやって慰めてくれたのを思い出した。

 今は猫の姿をしていないのに。


 それが可笑しくて、悲しくて。泣いて泣いて、また夜に引っ張られた。


 ◆◇◆◇


「ああ、あなたですか」


 背後に気配を感じ、銀色の髪の男は振り向く。

 黒い髪、金色の瞳の男が、そこに立っていた。

 表情のない白い顔。その身体からはゆらりと立ち昇るものが見えた。


「何をした」

「何のことでしょう」


 次の瞬間、何かが黒髪の男から放たれる。

 銀色の髪の男はそれを払うと肩を竦める。


「何をなさるのですか」

「うるさい。何をしたのか言え」


 先程よりも強い力が放たれる。

 銀色の髪の男は分かったように避けるが、避けた先により強い刃が放たれる。

 払い切れずに、いくつかが銀色の髪の男の体を切り裂いた。


「おやめ下さい」

「あいつに何をしたのか聞いてるんだ」


 黒髪の男から、先程よりも強いものがゆらりと立ち昇る。まずい。咄嗟に防御するが、放たれた力が強すぎる。押し切られて、堪えきれずに身体がバランスを崩す。


 宙に逃げれば、その先目掛けて刃が放たれる。上掛けした防御ですら打ち砕かれる。

 更に放たれたものに切り裂かれて、そのまま落ちた。


 起き上がる間も無く、強い殺気に圧された。


「おやめ、下さ、」

「答えろ。あいつに何をした?」


 指ひとつ動かせない程の強い殺気に圧されながらも、何とか逃げようともがく。その頭をいきなり踏みつけられた。

 固い地面と硬い靴底に挟まれ、ぎりぎりとその力は強くなる。


 正直、侮っていた。まさかこれほどまでに力を保持していたとは思わなかった。

 何とかしなければ。


 頭が割れるような強い痛みを感じながら、必死にもがく。動こうとすれば、より踏みつけられる。


「言う気になったか?」


 声にすらならない吐息。僅かに頭を動かすと、不意に足がどかされた。激しく咳き込み、必死に酸素を求める。


「何をした」

「私は……何も」

「嘘をつくな」


 先程よりも強い殺気にあてられて、呼吸すらままならない。

 己と言う個を自覚してから悠久の時を生きてきて、初めて己の消滅に恐怖を感じた。

 そしてこれが切り離される恐怖なのかと感嘆した。


「どうか、話を聞いて」

「なら何故あいつは泣いているんだ!」


 見えない何かが叩きつけられる。何度も、何度も。

 その度に自分という存在が少しずつ削り取られていく。

 削り取られた存在は、己の周りで火の粉のように燃え尽きる。残渣すら残らない。


 己もまた、脆く儚いものだったことを知る。初めての喪失感。戻れないことへの悲しみを知る。

 不意に彼の方の光を見た気がした。


「彼の方の元へと戻れない魂はいつか消滅してしまうのです!」


 残された力を振り絞ってそう叫ぶと、ぱたりと殺気が消えた。


 横たわったまま、動けない。削り取られ、失われた存在が大きすぎて、もう彼の方の元へ戻れそうにない。

 ならばせめてあの魂だけはお救いせねば。彼の方の元へ何としてもお送りせねば。

 消滅までに残された時間は如何程か。視線だけを黒髪の男へと向けて、何とか言葉を紡ぐ。


「何が」

「あなたは理までお忘れなのですか?この世界に生まれ落ちた魂はあなたも私も含め、元々は彼の方の一部なのです」


 喘ぎながらも必死に語りかける。


「彼の方の一部分がこの世界に生まれ落ち、個として生き、この世界での生を全うすると、彼の方へと戻られるのです。

 戻り、ひとつとなり、やがてまたこの世界に生まれ落ちる」


 手足が痺れる。消滅の時は着々と迫っていることを理解する。

 その前に、お伝えせねば。そして、お助けせねば。


「けれど彼の方の元へと戻れなかった魂は、やがて燃え尽き、消滅してしまうのです。

 それは言葉通りです。二度と生まれ変わることも出来ません」


 黒髪の男は僅かにかぶりを振る。


「嘘だ」

「嘘ではないことを、私が証明致しましょう」

「証明?」

「私はまもなく消滅致します。これだけ私の存在が削り取られていては、もう、彼の方の元へ戻れません」


 黒髪の男が目を瞠る。


「あなたは覚えていらっしゃらないだけです。ですからどうか、あの少女は彼の方の元へお返し下さい。消滅させてはなりません」


 視界が少しずつぼやけていく。

 ああ、これまでか。戻れないことよりも戻せないことを無念に思う。

 深く呼吸し、諦めに似た感情に身を任せる。


 彼の方に戻れなかった魂の最期がいくつも脳裏に浮かぶ。


 ──深い愛から断絶された、儚く脆い存在。

 愛と期待に溢れ、喜びに満ち、願いは叶えられ、今まさに生まれ落ちるその瞬間とは全く違う、弱々しい輝き。


 救いたかった魂。彼の方の元へと戻したかった輝き。


 その輝きが、光が、やがて失われていって。

 音すら無く、すう、と消えてしまうそのむごさ──


 少しずつ自己と外界との境界が曖昧になる。抗うことをやめ、受容したその時。


 額に触れた何かから、あたたかくそして力強い光を感じた。


「すまない──でも失いたくないんだ」


 かすかに聞こえたその声音は、今にも泣き出しそうなそれで。

 気配が消えたことに気が付くと、信じられない事に削り取られたはずの己が修復されていた。

 消滅を免れたことを理解すると、銀色の髪の男はのろのろと起き上がった。


「お救い、せねば」


 銀色の髪の男はそう呟くと、二人を追った。


 ◆◇◆◇


 なぜこんなに悲しいのだろう。


 気がつくと、あいつが私を抱きしめていた。


 あいつの大きな手は、あたしをそっと撫でてくれる。

 あたたかくて、心地よくて、安心できるはずなのに。


 なぜこんなに悲しいのだろう。

 分からないことさえ悲しい。


 あいつがあたしの涙を舐めとってくれる優しさが悲しい。


『大丈夫だから』


 なんどもなんども、そう言ってくれる優しさが悲しい。


 おかしい。何かがおかしい。

 言い知れぬ違和感すら悲しみに転じる。


 声もなく泣き続けて、また夜に引っ張られた。


 ◆◇◆◇


 舐めとっても舐めとっても、あいつから悲しみが消えない。


 俺の姿が違うせいかと思ったから、戻ってみて舐めとっても全く減らない。

 しかも舐めとる毎に、涙の重さの分だけあいつの存在が削り取られているのが分かった。


 ──彼の方の元へと戻れない魂はいつか消滅してしまうのです──


 その言葉は棘になって俺の胸に刺さり、じくじくと痛みを押し付けてくる。


 そんな筈はない。


 今までも俺を分け与えてきた。それで事足りたんだ。


 今夜もまた星が流れる。

 俺を待つものがいる、そんなことは分かっている。


 けれど、このまま置いて行けない。

 置いて行ったらすぐにでも消えてしまいそうで。


 泣き疲れて眠るその額にもう一度だけ口付けて自分を分け与えた。

 薄い肩をそっと抱くと目を閉じた。


 ◆◇◆◇


 二人が消えてから季節は幾度も巡った。

 あの街だけではない。この世界中を隈無く探し続けたけれど、その痕跡はぷつりと途絶えた。


 彼の方の悲しみを間近で感じたくなくて、あちらには久しく戻ってもいない。


 既に二人とも消滅してしまったのではないか。そんな疑念が己を毒する。


 平和と戦乱を何度も繰り返す世界で、やがて諦念に至り、その無念さに途方に暮れていた時に。


 彼は現れた。


「生きていて下さったのですね」


 背後の気配にそう声を掛けると、銀色の髪の男はゆっくりと振り返る。


「助けてやって欲しい」


 黒くみすぼらしい猫がそこにいて。その儚さに胸が痛んだ。


「何ということを」


 彼は自分の存在を少女へ分け与えていたのだろう。

 彼の魂もまた、傷つき、削り取られ、その最期が近いことが手に取るように分かる。


「頼む、あいつを戻してやって欲しい」

「勿論です。それで、少女はどちらに?」

「こっちだ」


 連れて来られたのは朽ちかけた納屋。

 横たわる少女を見て、銀色の髪の男は駆け寄った。


 努めて冷静に、負担を掛けないように抱き起こすと、余りにも軽い。顔色が真っ白になっている。少女は輝きを失っていた。

 それを目の当たりにして、銀色の髪の男は内心焦る。

 消滅まで猶予が無い。すぐにでも彼の方の元へと戻らねば。


「頼む」

「ええ、必ず。さあ、あなたもご一緒に」


 手を差し伸べると、彼は立ち上がった。


「俺は行けない」

「何故です?あなたもお戻りにならないと」

「約束、したから」

「お待ち下さい!」


 呼び止める努力も虚しく、行ってしまわれた。

 あれほど傷つき、削り取られながらも、約束を違えぬようにと。


「どなたと、どのような」


 寂しそうな顔を思い出し、やりきれなさに身を焦がす。


「っ」


 腕の中の少女が微かに喘ぐ姿を見て我に返る。まずは一刻も早く彼の方の元へお届けせねば。

 銀色の髪の男は少女を横抱きにし、彼の方の元へと向かった。


 ◆◇◆◇


 ベビーベッドにひとり寝かされ、時々むずがる小さきものの隣に、力を振り絞り何とか降り立つ。

 その頬にはいく筋もの涙の痕。疲れ果て、寝ているだろう小さきものは、それでも時々しゃくりあげる。


 そっと涙を舐めとると、その記憶(過去生)が伝わって来た。


 ──気が違ってしまったかの様に泣き叫ぶ若い母親。その腕には、頭から血を流し、既に冷たくなっている少年。

 その悲痛な叫び声は、村にやって来た略奪者達を呼び寄せてしまう。


 屈強な男達は若い母親を押し倒し、狼藉を働く。

 無理矢理に入り込んで来る厚い舌を思い切り噛みちぎれば、周りの男達は若い母親を何度も殴り付けた。


 やがて訪れる最期は、苦痛と悲しみと憎しみに染められて──


 涙を舐めとる度に、その痛みは自分のものに変わる。悲しみに胸が張り裂けそうになる。憎しみが自分の心を焼き尽くす。


 それでも小さきものが泣き止むまで、落ち着くまで、その涙を舐めとる。


 いつしか小さきものの寝息が穏やかになり、その寝顔もまた、赤子の無垢なものへと変わる。


 最後に鼻を小さきものの鼻へとくっ付ける。


 過去の記憶が全て自分へと流れ込んだことを確認して、そこから離れた。


 舐めとった記憶を持て余しながら、足は自然といつもの場所へと向かってしまう。

 けれど、もう自分を待っていてくれるものはいない。


 星が流れる。黒猫は、音を立てずに走り出した。


 ◆◇◆◇


 母猫と兄弟猫とはぐれ、カラスに狙われていた自分を拾ってくれたのは、ヒトのつがいだった。


 暖かい寝床と、空腹を満たす食餌と、心を満たす愛情と、そして名前を、ヒトのつがいは自分にくれた。


『あなたはお兄ちゃんになるのよ』


 女が微笑む。男が笑いながら自分を撫でる。

 ノックス()、そう名付けられた自分を、ヒトのつがいは愛してくれた。


 やがて赤くて柔らかくていい匂いのする小さきものが、ノックスとヒトとの関係に追加された。

 それはこの世界に生まれ落ちた、新しい生命だった。


 ヒトのつがいはその小さきものを、ノックスを愛するように愛した。

 だからノックスもその小さきものを愛した。


 小さきものがやって来てしばらく後、その様子がおかしいことにノックスはいち早く気付いた。


 小さきものは眠ることにひどく怯えていた。けれど、ヒトのつがいにはそれが理解出来ないようだった。


 眠らなければ死んでしまう。ノックスは分かっている。小さきものも分かっている。

 けれど眠りに落ちると、小さきものは恐怖に泣き叫ぶ。


 ノックスは小さきものを注意深く観察した。

 幾度も夜を迎え、やがて、小さきものが抱えている記憶(過去生)に気が付いた。


 この世界に生まれ落ちて間もない生命が、なぜ過去の記憶を持っているのかがノックスには理解できなかった。

 それでもその記憶のせいで、眠りにつく度に辛い思いをしていることは分かった。


 ノックスは求めた。

 自分と同じように大切な、この小さきものを救う力を。

 ノックスは求めた。

 この小さきものを苦しめる、記憶を吸い取る力を。


 毎晩、屋根に登ると月に向かってノックスは求めた。

 毎晩、記憶に苦しめられ涙する小さきものの隣で、ノックスは優しく舐めとり、求める。


 やがて、ノックスは与えられた。


 ノックスは与えられて知った。

 記憶によって苦しめられ、流された涙には記憶が含まれていることを。

 その涙を舐めとることで、小さきものから自分へと記憶を移せることを。


 毎晩、記憶に苦しめられ涙する小さきものの隣で、ノックスは優しく舐めとった。


 少しずつ、少しずつ。


 いつしか眠りに落ちても苦しむことが無くなった小さきものを見て、ノックスは満足した。


 小さきものもまた、ノックスが自分の苦しみを舐めとってくれたことを知っていた。

 ──もっともそれは、小さきものの身体が大きくなるに連れていつしか忘れられてしまったけれど。

 それでもノックスは満足だった。


 ノックスと小さきものは、無二の親友であり、兄妹であり、同じ時を生きる同士であった。


 ただ、ノックスの時間の流れは、小さきものやヒトのつがいとは違っていた。


 そのことに気が付いたのは、小さきものがやって来た、あの季節がまた巡って来た頃。

 小さきものは、ノックスよりも大きくなった。けれどノックスほど成熟していなかった。


 ノックスは不思議だった。

 自分はもう、自分で鼠や鳥を捕まえることも、仔を成すことが出来るのに、この小さきものはまだ歩き始めたばかり。


 季節が移ろい、巡る毎に、自分はより強く、より力がみなぎる。

 なのにこの小さきものは、身体ばかり大きくなるのにまだまだ幼く、庇護がなければあっという間に死んでしまうほど脆くて危うい。


 何度目かの巡る季節に、ノックスは理解した。自分とヒトは流れる時間の速さが違うのだと。

 それからまた何度も季節が巡り。いつしか老成し、緩やかに死に向っていることに気付いた時、ノックスは求めた。


 自分はこの小さきものと共にありたい。

 小さきものが成熟し、やがて仔を成し、その仔が成熟するのを見届けたい。


 暖かい寝床、空腹を満たす食餌、心を満たす愛情、そして愛情の証である唯一の名を自分に与えてくれたこのヒトを、その子孫を、守りたい。


 この小さきものだけでなく、この世界に生まれ落ちる新しい生命が、記憶(過去生)で苦しまないよう自分が舐めとってやりたい。


 ノックスは求めた。

 屋根に登り、月に求めた。

 屋根に登ることが叶わなくなってからは、窓から見上げて月に求めた。

 四肢の力が弱くなってからは、心の中で月に求めた。


 やがて、ノックスは与えられた。


 ノックスは共にいた。

 愛するヒトが、愛するその子孫が、微笑み慈しみ合う。その輪の中に自分もいた。


 ノックスは舐めとった。

 この世界に生まれ落ちた新しい生命が、抱えて来た過去の記憶を持て余さないように。


 ノックスは知った。

 新しい生命から記憶(過去生)を舐めとることで、生命のひとかけらも舐めとっていることを。

 生命のひとかけらはノックスに力を与えた。

 ヒトの姿に変わることも出来るし、ヒトが魔法と呼ぶ便利な力を使う事も出来た。

 どこまでも高く飛び跳ねることも出来るし、食べなくとも生きられることが出来た。


 ノックスは満足だった。


 ◆◇◆◇


 その年はつかの間の平和が破れ、戦乱が世界中に溢れていた。

 ヒト同士が憎しみ合い、殺し合い、たくさんのヒトが死んだ。


 ノックスは悲しかった。


 自分の愛するヒトが、その子孫が、互いに殺し合うその姿が。

 せっかく記憶を舐めとっても、あっけなく殺されてしまう生命が。

 それでもノックスは記憶を舐めとった。


 決して忘れられない日。それは雪混じりの雨が強く降る夜だった。


 その頃になると、ヒトのつがいと小さきものが寝静まると、ノックスはそっと抜け出しては生まれ落ちた新しい生命が抱えた記憶(過去生)を舐めとっていた。


 あの夜も三つの記憶を舐めとった。


 三つめの記憶を舐めとり、赤子から過去の記憶が無くなったことを確認して、その部屋を出ようとした時だった。


 けたたましい鐘が鳴り響き、ヒトの喚き声や泣き叫ぶ声が街中に広がった。

 部屋に入ってくるヒトに気付かれぬよう、ベッドの下に潜り込む。


 ヒトは赤子を抱き上げた。


 突然閃光が部屋を照らす。


 そして。


 ノックスは、ヒトは、赤子は、強い力に吹き飛ばされた。


 ノックスは無事だった。

 その頃には数えきれない程の記憶と生命のかけらを舐めとっていたから。

 何もせずとも、その力は自分を守ってくれた。


 けれど、ヒトは、赤子は。


 既に事切れているのは一目で分かった。


 ノックスは駆け出した。

 ヒトのつがいと、あの小さきものの元へ。

 ノックスの、家族の元へ。


 レンガは崩れ落ち、まるで黄泉の国へと繋がっているような大きな穴が穿たれた建物。

 建物の中に足を踏み入れたが、階段は崩れ落ちていた。


 大きく跳び、家族と自分の家にたどり着いた。

 猫の姿ではひしゃげたドアは開けられない。

 ヒトの姿に変わると、手にした力でドアを開ける。


 家族はすぐに見つかった。


 ヒトのつがいがおおいかぶさり、小さきものを守っていた。


 けれど、彼らの上にはレンガや柱がたくさんあった。


 ノックスはそれらを取り除いた。


 既に事切れたヒトのつがい。

 そして、あの小さきものは、生命の最期の輝きが、今まさに消えようとしていた。


 慌てて抱き止める。

 焦点の合わない瞳が、栗色の瞳が、ゆっくり自分を見る。


 ほんの少し、弧を描き。

 そのまま時を止めた。


 ノックスはそれを見ていた。


 消えたはずの輝きが、ふわりと揺らぎ、天へ還る様を。


 猫だった時は涙なんてこぼしたことが無かったのに。

 ヒトと同じように、赤子と同じように、ノックスは慟哭した。


 いくつもの輝きが天に還る様は、とても哀しく、美しかった。


 ノックスは孤独を知った。


 ◆◇◆◇


 ヒトのつがいとあの小さきものは死んでしまった。


 そして鳥や鼠の息の根を止め、その肉を貪っていた自分を思い出した。


 喉元にある箇所を強く咥える。獲物はぶるぶると震え、その震えは弱くなり、もう一度だけ、強く抗う。熱い血潮は、その肉は、甘くて美味しかった。


 食べる以外にも殺した。ちょこちょこと動く様は、どうしても無視出来なかった。自分の中の何かが熱く滾る。

 それに自分が食べなくともそこに置いておけば、他の動物や近くの猫が食べることも知っていた。

 時々土産に持って帰ると、家族は悲鳴をあげていたが。


 食べるために殺した彼らが、自分の衝動で手にかけた彼らが、自分の失った家族と重なった時に。

 ノックスは心が張り裂けそうになった。


 きっとそれは、知らなくて良かったこと。

 ノックスがただの猫でなくなってしまったのは、舐めとったヒトの記憶と生命のせい。


 猫であり、ヒトの心を持つノックス。

 それは記憶(過去生)と同じくらい、ノックスには不要なもの。


 ノックスは、それでも記憶を舐めとることをやめなかった。


 ◆◇◆◇


 それから季節は幾度も巡った。

 あの戦乱は終わり、束の間の平和がまた訪れた。


 ある時、長雨が土地を流し、作物を流し、ヒトを流した。

 流行病が蔓延し、たくさんのヒトが死んだ。


 ある夜、ノックスは死にゆく少女を見つけた。


 ノックスはその少女を見つけた時に歓喜した。

 その姿はかつて愛したあの小さきものにそっくりだったから。

 駆け寄り、注意深く観察する。

 亜麻色の髪、白い肌、赤い唇。何も写していない栗色の瞳。

 その姿はかつて愛したあの小さきものにそっくりだった。


 半刻せずとも、少女は死ぬだろう。

 けれど、まだ生きている。


 そう、生きている。


 ノックスはそっと少女の顔を舐めた。

 生きていて欲しい。


 額に口付け、そっと願った。


 自分が舐めとった生命のかけらを、この少女に分け与えたい。


 それは叶えられた。


 口付けた額から、生命が少女に溶け込んでいく。少女が少しずつ熱を取り戻していく。


 ノックスは嬉しかった。


 これできっと少女も自分のように生きられる。果たして少女は生き永らえた。


 やがて少女は意識を取り戻した。

 けれど現世の記憶に苦しみ、少女は泣く。

 ノックスは少女の記憶を舐めとった。舐めとった分、自分を分け与えた。


 少女が持っていた指輪は、少女に悲しみだけを与えた。だからノックスは少女が眠っている間に取り上げた。


 本当は捨ててしまおうと思った。

 けれど、捨てられなかった。


 もう、少女の中には、少女が生きていた記憶が無くなってしまったから。

 指輪を目にして泣くのは、自分が少女の記憶を全て舐めとってしまったから。


 少女の生きた証を、ノックスは捨てられなかった。


 それから二人は共にいた。


 ノックスは幸せだった。


 ノックスが求め、与えられてから、自分とヒトの流れる時間がまた違ってしまったから。

 自分をおいて死んでしまったあの小さきものと、また共にいられるようになったから。


 それなのに。


 何度自分を分け与えても、何度記憶を舐めとっても。少女は日ごと衰弱していった。


 あの日知ったあの存在が口にした言葉。


 ──彼の方の元へと戻れない魂はいつか消滅してしまうのです──


 その言葉が呪いのように、ノックスの頭にこびりついた。


 衰弱し、儚くなった少女を置いて、この世界に生まれ落ちた新たな生命を救うことなど出来ない。


 それはノックスをも衰弱させることを意味する。


 記憶を舐めとらなければ、生命を舐めとらなければ、ノックスの魂もまた、少しずつ削り取られるままだから。

 補充しなければ、分け与え続ければ、いずれノックスも消滅していまう。


 けれど少女と一時も離れたくなかった。


 ヒトと流れる時間が違うことが。愛するものが死にゆくのをただ眺めているしか出来なかったことが。

 ノックスにはもう耐えられなかった。


 共にありたい。

 それが叶えられる喜びを知ってしまったから。


 ノックスは永い時を生きていたから、忘れてしまった。

 彼の方の元に戻れる喜びを。彼の方と、彼の方の一部と、全てと、ひとつになる感覚を。

 全てが満たされ、全てが完全で、何一つ足りないものなどないことを。何一つ劣るものなどいないことを。


 切り離され、産み落とされ、個となり。

 その儚さ、脆さ、不完全さに怯え、個として消滅することに恐怖し、満たされたいと願い。

 同じように産み落とされ、個となったものと交じり合い、つかの間を満たされ。

 己が不完全なものだと互いに思い込んでいるが故、ささいなすれ違いは大きな溝になり。

 いつしか己を満たしてくれた半身と歩みを違える。

 疲弊し、悲しみに打ちのめされ、絶望し。


 そしてやがて死が訪れて。


 己が彼の方の一部だったことに、半身も彼の方の一部だったことに、ひとつに戻った時に、全てを思い出す。


 個として体験した全ての記憶と感情は、彼の方と融合し、彼の方の一部となる。

 彼の方と言う集合体は、悠久の時間をそのように存在していた。


 ノックスは、忘れてしまった。


 だから


 ノックスは、孤独だった。


 ◆◇◆◇


 また戦乱を繰り返し、疲弊したヒトはようやく不毛な争いをやめた。

 そして訪れた、つかの間の平和。


 何度歴史を繰り返そうと、何度季節が巡ろうと、ノックスはもう何も感じなかった。

 いや、ノックスは感じることをやめた。


 流れる星の元に降り立ち、この世界に生まれ落ちた新しい生命が抱える記憶(過去生)を舐めとる。ただ舐めとった。


 記憶を舐めとる力と永遠に生きることを求めた時に、ノックスは自分に約束したから。


 あの小さきものだけでなく、ノックスを愛したヒトとその子孫を守ると。

 この世界に生まれ落ちた新しい生命を守ると。

 抱えてきた記憶(過去生)に苦しめられないように記憶を舐めとると。


 孤独になっても、ノックスは記憶を舐めとった。


 皮肉なことに、記憶を舐めとることで同時に手にする生命のひとかけらでノックスは生き永らえる。


 不完全さに打ちひしがれ、満たされることを切望し、それが叶わぬことを絶望し、やがて全てを閉じ込めて。


 ノックスは記憶を舐めとった。


 自分を愛してくれた、ヒトとその子孫の為に。

 そして、共にいてくれた、あの少女の為に。


 ◆◇◆◇


 今夜も流れた星の数だけ記憶(過去生)を舐めとったノックスは、またあの場所に来てしまった。


 思い出せないほど長い間、ヒトの記憶を舐めとってきたからか、最近は猫の姿に戻ることすら難しくなっていた。

 それでも赤子の記憶を舐めとる時は、猫の姿の方が都合がいい。


 それに、あいつはふわふわのしっぽが好きだったから。


 流れた星の数を教えてくれた、愛しい存在。

 共にいてくれた、愛しい存在。


 犬や狼は、心の丈を月夜に謳う。

 自分ならば、なんと謳うのだろう。


 謳えば、戻って来てもらえるだろうか。

 思いかけて、一笑に付す。


 最後に舐めとった記憶は、愛しいものとの別離だったから。

 引き裂かれた恋に絶望し、命を終えた記憶だったから。

 この想いはきっと、舐めとった記憶が引き起こしているのだろう。


 喉の奥で低く笑うと、ノックスは立ち去る。


 ……その声を聞くまでは。


「ねえ、今日も上手くいったの?」


 全身の毛が逆立ったように感じた。


 胸は早鐘を打つ。激情が全身を巡る。息苦しさに喘ぐ。涙が許可なく溢れ出す。


 そんなはずはない。

 分かっているのに、あり得ないのに。


 ガクガクと震えながら、自分の狂気を確かめるために、振り返る。


「おかえりなさい」


 その笑顔は、その姿は。


「なん、で」

「随分と探しましたよ」


 聞き覚えのある声。

 隣に立つ銀色の髪の男はふわりと笑う。


「彼の方は、あなたに感謝しているのです」

「なに……を」

「この世界に生まれ落ちる際に、何故か記憶を残したまま生まれ変わるものがいることは、彼の方も知っていらっしゃいましたし、その苦痛に胸を痛めておられました。

 けれど数多の生命が次々と生まれ落ちる為に、なす術もありませんでした。

 まさか、生まれ落ちた先でその記憶を舐めとりたい、そう願うものがいると思いませんでしたから」


 自分の元へと歩いてくる。


「あの日私はあなたとのお約束通り、彼女を彼の方へとお連れしました。彼女が彼の方に戻った際に彼の方はお知りになったのです。

 あなたがたったひとりで、彼の方の一部を守って下さっていた事を。

 生まれ落ちたばかりの彼らには、重荷でしかないその記憶(過去生)を、あなたが代わりに負担して下さっていた事を。

 そして彼女の願いは、彼の方のお望みへと変わりました。

 これからも、あなたと共にありたいと」


 力が抜けたように膝をつく。

 目の前にやってきた小さな体に、そっと抱き止められる。


「ねえ、今日も上手くいったの?」

「当たり前、だろ」

「そっかあ。良かったね」

「ああ」


 薄い肩を抱きしめる。ふわりと、彼女の匂いがする。

 その細い腕が、小さな手が、背中をさすってくれる。


「おかえりなさい」

「ああ。おかえり」

「うん。ただいま」


 ノックスは、幸せを噛み締めた。


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