1、アキラ君と氷の魔女
「ヘクセさん。起きてください、もうお昼ですよ」
カンカン、と鍋の底を叩いてアキラ君が起こしに来た。魔女は夕方が朝なんだと、共同生活を始めて暫くした後に説明したのだけれど「それだとお互いの生活リズムがすれ違いすぎます。魔女とか言って、特に理由はないただの反転生活なのですから、これを機に改めましょう」と、眼鏡をクイっと持ちあげて、アキラ君は全く気にしてくれない。
「……ま、眩しい……太陽のあかりでほろびる」
「滅びません。吸血鬼じゃないんですから。魔女だって、ただの長生きしてるだけの人間でしょう。ほらほら、起きてください。今日は天気が良いので、シーツを洗って、布団も枕も何もかも干してしまいましょうよ」
「くっ…………高度に発達した科学世界産まれの人間の偏見のない意見……」
ぐだぐだ言うが、ヘクセだってもうすっかり、目は覚めている。朝から市場へ出かけるために支度をするアキラの生活音、戻って来て畑の手入れをして、家畜に餌をやる仕事の音、それらを微睡んで聞きながら、ただぬくぬくとした布団の中から出たくなかっただけだ。
「着替えはどうします?今日は特にお城へ行く予定とかはないですよね。大きなツバ付きの帽子はいいとして……真っ黒いワンピースにします?いやでもこれだと、合う靴が……」
「君は元の世界で女友達がいなかったっていうわりには、私のクローゼットを遠慮なく漁るねぇ」
「これは仕事ですから」
「仕事」
仕事ねぇ、と、ヘクセは欠伸をしながらアキラ君の背中を眺めた。
出会った当初。雪の降った日の朝、金髪の立派な騎士に連れられてブルブル震えていた貧相な男の子が、中々逞しくなったものである。
(もう半年か)
そろそろアキラの兄君が、城の魔法使いや騎士達との訓練を終えて次の段階に進む頃だろう。一年かけての勇者教育は、ヘクセに言わせればあまりにも突貫工事に過ぎるのだけれど、生憎人類には時間がない。幸いなことに今回の勇者殿は元々の運動神経もかなりよく、異世界召喚の際に神々から呆れるほどの祝福を得たそうで、通常十年かかる修行も一年で終えることが出来るだろうとそういう見込みはあった。
まぁ、人の世が滅ぶなら滅んでしまえというのがヘクセの考え。
他の世界の人間を強制的に拉致して「世界を救ってくれ!」と縋るだけの熱意は無い。なかったので、王宮の再三の勇者召喚の要求を断っていたが、その結果がこれである。
「ほら、ヘクセさん。ぼうっとしていないで、顔を洗って、髪を整えてくださいよ。俺、髪のアレンジはまだ出来ないんですからね」
「こういうのは魔法でちゃっちゃかやってしまえば早いんだけれど」
「駄目ですよ、駄目。出来る限り魔法に頼らない生活を、この一年はして頂く約束じゃないですか」
「承諾した覚えはないんだけれどねぇ」
「いいからほら、お湯は沸かしてありますよ。タオルで顔を拭いて、ヘクセさん」
アキラ君は私の母親か何かか、と、何度も言いそうになるのを堪え、ヘクセはトボトボと洗面台へ向かう。
途中通った居間には朝食……時間的には昼食だが、が、用意されていて、あとはヘクセが椅子にちょこんと収まれば、熱い紅茶が注がれるのだろう。
魔法を使わない生活を、と、自立を促してくる異世界の少年。この魔女に対して恐れを知らない。あまりにも無知で、けれど賢い子。
彼は勇者の兄と違って、元の世界へ帰りたいと言う。