悩める少年
無理を言って日程を延期してもらったのだから、用が済めば出て行くのは当然の流れで。
財産を持たないファラ師の旅装は、あまりに簡素だった。短剣と数着の衣類、二日分の携帯食料、そして餞別にと手渡した僅かな路銀。
今後の予定を聞けば、隣国のかつて所属していた流派の門を改めて叩くつもりとのことで、道程を思えばあまりに心許ない装備だった。
「それで山を越えるのは無謀じゃないか……?」
「心配性だな、何度か経験はあるから大丈夫だ。物資を使い切る前に走り抜ければ良いんだよ。あちらに着いてしまえば、それなりに稼ぐ場所はあるしな」
もう何を言っているのか解らない。比較的思考が近そうなミル姉ですら、明らかに顔が引いている。
俺の記憶に誤りが無ければ、母は中央から隣国へ行くために十日かかったと言っていた。しかもそれは、比較的気候が穏やかな季節の話だ。雨季を半分抜けたくらいの山など、荒れているに決まっている。
しかし何度警告しても、ファラ師は止めるつもりは無いようだった。いざとなれば山を斬るつもりでいるのかもしれないと、埒の無いことを考える。
結果、俺やミル姉は説得を諦め――本人がその気で、問題無いと言うのならもうそれまでだと結論付けた。
ミル姉は不本意そうな顔で、ファラ師に声をかける。
「まあ……足りない物があったら遠慮無く戻って来なさいね? もっとしっかりした旅装を与えるくらい、大した話じゃないんだから」
「ありがとうございます。しかし、これ以上は甘え過ぎになってしまいます。もう充分です」
ファラ師はそう言うと、ゆっくりと頭を下げる。美しい所作の、貴族へと捧げる最上級の礼だった。この才気が中央を離れることは大きな損失だろう。
先日の騒ぎは本当に何も生まなかったと、心から思う。
俺は一歩前に進み出て、ファラ師に一枚の木片を手渡す。ファラ師は黙ってそれを受け取り、僅かに首を傾げた。
「これは?」
「連絡札だな。裏に宛先が書いてあるだろ? 組合でこれを提示すると、師匠の工房に伝言を頼める。何かあればこれを使って連絡を寄越すようにしてくれ」
「解った。なるべく煩わせることの無いようにしよう」
「離れた状態で何が出来る訳でもないだろうが、まあ戻る時くらいは教えて欲しいな」
仮に俺が中央にいなくとも、連絡があれば戻って来ることも出来る。合流しなければ主従も何もあるまい。
取り敢えず、これで最低限必要な案件は済んだこととしよう。
「……本当に、色々と世話になってしまったな」
「言うほどのことは何も出来てないんだよなあ。……まあ、次に会う時どうなってるか、期待してるよ」
「任せてくれ、損はさせない」
そうして晴れやかな笑顔を浮かべ、ファラ師は旅立って行った。遠ざかる背中がやがて見えなくなり、俺は溜息を漏らす。ミル姉は何処か悪戯な表情を浮かべて、こちらへと向き直った。
「良かったの? 行かせて」
「あまりに危なっかしいという意味では、判断に困るな。かといって、手元で大事に抱え込むべき人材でもない。あの人は好きにやらせるのが良いんだろうよ」
稀有な人材であることは否定しない。しかし俺の手には余る、というのが本当の所だ。
そもそも俺は今後職人としてやっていくのであって、武人として動く訳ではない。あれだけの戦力を持っていても、活用する機会が何処にあると言うのか。ラ・レイ師のような強敵に立ち向かうだとか、そんな大袈裟な事件に巻き込まれることはそうそう無い筈だ。
きっと無いんじゃないかな。
無いと信じたい。
ミル姉は微妙に唇を持ち上げて、何とも言えない笑みを見せる。
「……異性としての感情は無いの?」
「美人だとは思うが。自分の物にしたいだとか、そういう感じではないな……あの人に嵌ると、ロクなことにならん気がする」
好意はあるものの性欲は湧かないし、尊敬すべき個人としての感情の方が強い。結局はあの人に対して、女を求めていないのだと思う。
俺の発言に、ミル姉は一瞬目を見開くと、耐えかねたように大声で笑う。
「ククッ、アッハッハ! いやなるほどね! やっぱりフェリスはフェリスだ」
「……? 俺らが恋仲だとでも思ってたのか?」
腹を抱えたまま、ミル姉は答えない。
まあ、ファラ師は誰もが惹かれる容姿の持ち主ではあるが……ミル姉を含め、美形な人間は俺の周囲にはちらほらといた。皆が美人に引っかかると考えているなら、それは大きな間違いだ。
俺は黙り込んだまま、ミル姉が復帰するまで暫く待った。
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さて、フェリスの作業も終わったし、今日からはウィジャ婆の孫か。
作業に入れるよう魔核を用意し、必要になりそうな道具を磨いていると、来客を知らせるミケラの声が聞こえた。手を止めて腰を上げ、玄関へと向かう。
すると線の細い、俺の腰くらいまでしか上背の無い少年が、緊張した面持ちで立ち尽くしていた。視線があちこちを彷徨っていて落ち着かない。右手には布が巻かれており、何処となく青臭さが漂っている。薬草を当てているのだろう。
十歳くらいだろうか。見た目もあって、年齢の割に大人しそうな印象を受ける。もしかしたら今は、怪我で弱気になっているのかもしれない。
少年はぎこちない恰好で、ミケラへと頭を下げた。
「あの……婆ちゃんから言われて来ました。クインです。お邪魔します」
「ウィジャさんから話は聞いてるよ、中に入って。お父さん、フェリスは?」
「裏で洗濯するって言ってなかったか?」
「あ、そっか。呼んで来てもらえる?」
少年と二人きりにされるのも気まずそうなので、素直に従う。
「おう。クイン、よろしくな。ちょっと休んでてくれ」
何を恐縮しているのか、クインはやたらと繰り返し頭を下げる。俺はそれを視界の端に収めながら廊下を戻り、裏庭に繋がる戸を開いた。
幻想的なような、日常的なような、反応に困る光景が広がっている。
大小様々な水球が宙に浮かび、陽光を受けて煌めく。そして、乱舞する光を目掛け、フェリスが汚れた服を片っ端から突っ込んでいた。足元の桶には、頑固な汚れを落とされ綺麗になったものが積み上げられている。
魔力の流れが複雑だ。水術の扱いがべらぼうに巧い。
「お前、金に困ったら洗濯で稼げるぞ」
「そうですかね? けど、洗濯を誰かに任せるより、食い物に金かける人の方が多いんじゃないですか?」
「いや、とにかく手間を減らしたいって職人は結構いるけどな。まあそんなことより客だ。ウィジャ婆の孫が来た」
「おっと、了解です」
感心はするものの、どうせそれで稼ぐつもりもあるまい。そういうのは喰うに困った時だけで良い。
連れ立って部屋に戻ると、ミケラの前で果汁を啜りながら、少年が畏まっていた。大人三人で囲めば居心地が悪かろうと、ミケラが席を外す。
さて、改めて名乗るべきだろうな。
「ウィジャ婆から聞いているかもしれんが、俺がこの工房の主である、ヴェゼル・バルバロイだ」
「弟子のフェリス・クロゥレン。師匠は今腕を負傷しているため、二人で協力して義指の制作に当たらせてもらうことになる。君の名前も教えてもらえるかな?」
少年は戸惑いと緊張を隠さないまま、唇を震わせる。
「クイン・セネスです。……あ、あのっ」
「ん?」
フェリスの反応が柔らかい。なるべく緊張させないよう、穏やかさを保っている。それがどうにか通じているのか、クインはかろうじて会話を続けられている。
……何に身構えている? 俺やフェリスが怖い訳でもなさそうだが。
少し引っかかるため、ひとまず様子を窺う。
「指は、どうなるんでしょうか? 婆ちゃんは、無くなった物は治せないって言ってました」
一生に関わることだ、不安になるのも仕方が無い。とはいえ俺らも手を治せる訳ではないし、まずは傷口の状態を確認するところからだな。
俺はフェリスに視線で合図し、聞き取りを任せる。
「……ウィジャさんの言うことは正しい。いや、もしかしたら治せる人間はいるかもしれないが、俺達にそういう真似は出来ない。だから、元に戻せはしないけど、そのままよりは良いよう指に覆いを被せるんだ。ここまでは良いかな?」
しかしそこで、クインは静かに口を挟んだ。
「その、すみません。……実は、お願いがあるんです」
「うん? まあ叶えられることなら」
何を言おうとしているのか、クインの唇の震えが激しくなっている。頬が痙攣し、呼吸も荒い。
「おい、どうした?」
明らかに普通ではない。腰を浮かしかけた俺を、フェリスが手で制した。
フェリスはクインの背中に手を当て、撫で擦りながら静かに語り掛ける。
「クイン、ゆっくり息を吐け。苦しくても大きく吸わないよう、ゆっくり、ゆっくり吐くんだ。そうそう、巧いぞ。別に怒ったりしないし、俺達に気を遣わなくても良いんだ」
フェリスは対処方法に心当たりがあるのか、落ち着いたものだった。何やら陰術を発動させると、そのままクインを床に寝かせて楽な姿勢を取らせる。
元から様子はおかしかったが、何か持病でも抱えていたか? いや、それならウィジャ婆がそう言うだろう。人様の子供を預かった途端に問題が起きるのは、正直困る。
「おい、大丈夫なのか?」
「別に病気ではないんで大丈夫ですよ。単なる過呼吸……んーっと、まあ巧く呼吸が出来てない状態ですね。呼吸の拍子を整えてやれば、徐々に治まります」
なるほど。陰術で体を弛緩させて、呼吸を強引に制御したのか。
ある程度医術を理解しているフェリスなら、後のことはどうにか出来るだろう。
とはいえ、この状況では今日の作業は無理だな。
「ちょっと時間を置くか。クイン、辛かったらそのまま寝てな。迎え呼ぶか?」
クインは目に涙を滲ませながら、微かに首を横に振る。迎えは嫌、と。
この感じ……身内に何かあるのか? ウィジャ婆はクインとは一緒に住んでいないから、詳しい話は知らん可能性もある。とはいえ、この様子は尋常ではない。
「フェリス、ちょっと任せて良いか?」
「構いませんよ。二人もついてたら騒がしいでしょ」
「全くだな。何かあったら俺かミケラを呼んでくれ」
立ち上がり、クインを緊張させないよう部屋を出る。
ここに来てからのクインの様子を振り返る――終始怯えている感はあっても、体が痛んでいるような仕種はなかった。身内から殴る蹴るの暴力を受けている訳ではないらしい。
怯えの原因は何だ?
外履きに爪先を捻じ込んで、ウィジャ婆の家へと向かう。
簡単な仕事だと思っていたが、本筋とは別の問題が出て来てしまった。顧客の要望に寄り添うのも職人の器量の一つだが、クインは何を言おうとしたのだろう。
どうやら薬代は高くつきそうだ。
今回はここまで。
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