かつての記憶
初めて殺されそうになった時のことを夢に見た。
普段通りの食事を口に含んで飲み下した直後、胃の奥からせり上がる強烈な熱。吐き出した胃液の臭い、四肢の痙攣、混乱する思考――その中でようやく毒という言葉に至り、どうしてと困惑した。
自分は大切にされていて、世の中は優しさや親切心に満ちていると思い込んでいた。実際はそんなことはなく、周囲は悪意に満ちていて、俺がそれに鈍感だっただけの話だ。
多大な苦痛と引き換えにそれを知った。
未熟だった自分を今になって振り返るのは、目的の達成が間近だからだろうか。
柄にも無い。
地下への階段を降り、重い石扉を押し開く。入り口だけは薄暗く厳めしいが、中に入ってしまえば存外に心地良い。燭台からは柔らかな光が漏れ、足元も毛足の長い絨毯で覆われている。暑過ぎず寒過ぎず、室温も適当だ。
住環境としては悪くない。
そして、奥まった位置にある椅子で、父上が茶を嗜んでいた。
「ご自分で淹れたのですか?」
「ああ、自分のことを自分でするのもたまには良い。監禁とはいえ部屋も良いし、骨休めのようなものだな。周囲に誰もいないということが、これだけありがたいとは思わなんだ」
「それは何より」
王として生きた人生が長すぎたのだろう。役職から解放された父上は、何処か清々しい顔をしていた。恐れる訳でもなく、ごく自然な在り方をしている。こうしてただの人間として、相手と接するのは初めてかもしれない。
俺は父上の向かいの席に腰かけ、残っていた茶を湯呑に注ぐ。口に含めば、少しだけ甘い。
「……私が毒を入れるとは思わなかったか?」
「父上はわざわざそんな真似をしないでしょう。王として俺を処断するには遅過ぎる」
俺が兄上二人と協調せず、独断で動くのは今に始まったことではない。それで王家が害を被ったことも、一度や二度ではないだろう。その上で今まで放置し続けたのだから、過去のことで責められる謂れは無い。
それに、王を害したことで責めるとしても、当人に害されたという意識は無いようだ。父上は王として、自分の命など、どうでも良いと思っている。
ふと父上は息を抜き、ありがたそうに茶を啜った。
「何もしないということは贅沢だな」
「今後もそうなさいますか。その道を選んでいただけるなら、こちらとしてはありがたい」
「答えは……保留しておこうか。今暫くは、難しいことを考えずにこうしていたい」
僅かに唇を曲げ、父上は茶を飲み切る。そうして立ち上がると、寝台に横になった。自分が殺される可能性は承知の上で、敵の前で眠れる精神性は羨ましい。
俺は結局、死に対する恐怖から意識を逸らすことが出来なかった。今後も出来ないだろう。
そして、己の運命を他者に委ねることも、きっと出来ないだろう。
いずれにせよ、父上は事態への介入を望まないらしい。それならそれで構わない。そもそもこれはダライ兄上との兄弟喧嘩に過ぎず、他人が口を挟むようなことではない筈だ。
如何せん俺が無力な所為で周囲に余波が出ているものの、そこは諦めてもらうしかない。
扉を後ろ手に閉め、今後の展開を予想する。
さて、事実確認だ。
ダライ兄上に近しい近衛の一部を切り離した。引き換えにミルカ・クロゥレンが敵対した。
ジグラ・ファーレンを切り離した。引き換えにラ・レイが戦線から遠ざかった。
ファラ・クレアスはダライ兄上の護衛に就いた。カルージャ・ミスクは使える状態で待機している。
……戦力的に見て、形勢はやや不利か。ただ、ある程度狙った通りにはなっている。
決めた。次に狙うべきはゾライド兄上だ。
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「多分、狙われるとしたらゾライドだろうな」
速足で横を歩くファラに語り掛ける。彼女は片眉を跳ね上げて訝る。
「……この状況下で狙う必要がありますか?」
「後の憂いを断つ、という意味ではな。アレは私とブライのどちらに味方するか解らない。局面を見て、自分に都合の良い方に擦り寄るだろう。いつ裏切られるか解らない相手を、身近に置いておきたくはなかろう?」
機会があれば、私もいずれゾライドを処理する予定ではあった。先を越されてしまったものの、この件に関しては私にも都合が良いので、積極的に止めようとは思わない。
ただ、事情を知らないファラからすれば、無意味な拘りに見えるだろう。
「失礼な物言いかもしれませんが……そこまで重要な相手でしょうか? 無視してダライ様に注力すれば良いのでは?」
「ゾライドは自分で何かする訳ではないのだ。ああでもないこうでもないと理屈を捏ねた挙句に黙り込んで、誰かが事を片付けてくれるよう誘導してしまう。家臣達は王族の発言を叶えようとすることが基本となっているからな。放置すれば不利益が生じる可能性は高い」
頷ける記憶があったのか、ファラは渋い顔で嘆息する。
ゾライドを問題視すべき点は、生じた問題の責任を取らないことだ。個人的には、目的の為にある程度身を切る覚悟のあるブライより、アイツの方が余程性質が悪い。
「救援には向かわない……ということでよろしいですか」
「ああ。それよりも、この時間を利用してミルカ・クロゥレンを確保する。容疑者ではなくこちらの客にしてしまえば、簡単に手は出せなくなる」
文句をつけるためには、私の前に出なければならないからな。
しかし、ファラを留め置きたい欲があったことは察するし、そのためにクロゥレンに手を出さざるを得なかったことも解るが、今回の件はブライらしからぬ失策だった。城下に被害を出さないため、こちらもミルカ嬢へ手間をかけなければならない形にはなったものの、結果としてはそれだけだ。厄介な敵が増えた分、損をしたのではないか。
……いや、違うか?
王族へ素直に従う貴族であるなら良し、そうでないなら敵に回る。回ったとして――ミルカ嬢ほどの強者を押さえようとすれば、かなりの人員を動かさねばならない。ブライなら、私が止めに入ることも想定しているだろう。八割失敗するとしても、こちらの人的資源を削れるなら、手としては悪くない。
仮にミルカ嬢が力を振るわないのなら、ブライの配下がそれを装えば、同じ結果は導ける。
……戦力は充分とはいえ、それほどこちらも余裕は無いな。
「すぐに動かせる近衛は何人残っている?」
「私は今職務から切り離されているため、把握していません。ジグラが代行をしていましたから」
ジグラを釣り出したのはそのためか。指揮系統は私にあるとしても、使えなければ意味が無い。
いやはや、考えるものだ。正直感心してしまった。
今回ばかりはブライも本気のようだ。
「時間が無い、詰所に向かう。影は南門と東門へ行って、ミルカ・クロゥレンが来たら事情を説明してこちらへ来てもらえ。くれぐれも失礼の無いようにな」
「畏まりました」
帯同していた二人分の気配が、物陰から消える。中央への経路を考えれば北は無いだろうが、手は抜けない。
足を緩めずに詰所へ。通常ならば、少なくとも三人が控えている筈だ。残った門に二人、補佐に一人……もっと人手が欲しい。
「ダライだ、入るぞ」
扉を押し開けると、期待していたものとはまるで違う光景が視界に飛び込んでくる。
武装状態のままの近衛三人が、呻き声を上げながら床に転がっている。そして、部屋の中心には見知った顔が拳を握り締めて立ち尽くしていた。
濃密な怒気が漂っている。瞬間的に、この三人はもう使えないと察した。
「……ヴェゼル・バルバロイか。一体ここで何をしている」
尋常ではない眼差しで、ヴェゼルがこちらを睨み付ける。そうして大きく息を吸い込み、ゆっくり吐き出すと、その分厚い体躯が僅かに萎んだ。瞳の中に理性が戻っている。
彼は首の骨を鳴らすと、忌々しげに漏らした。
「納品に来たんですよ。で、先程コイツ等に、ちょっと質問をしましてね」
「ふむ」
握り締めた手を緩めながら、歩み寄って来る。ファラが険しい顔のまま、私の前に立った。
「何故、俺の弟子はアンタ等に殺されねばならんのだ? と聞いた訳ですよ」
ファラが息を飲む。気配に揺れを感じた。
経路上にあった部下の頭が蹴り飛ばされる。動きはある、よって死んではいない。
しかし弟子? 娘以外の弟子など聞いたことが無いが、それが死んだ?
頭の中が疑問符で埋まる。展開が早過ぎて追いつかない。考えている間にも、ヴェゼルは歩みを止めない。気付く――圧が弱まったのは、理性で抑えつけているからだ。感情が弱まっている訳ではない。
よく通る声でヴェゼルが続ける。
「俺は学がある訳じゃあない。お偉いさんの事情なんか知らない。だから聞いた訳ですよ。そしたら、コイツ等はなんて答えたと思います? 姉兄に才能を吸われた出涸らしが死のうと、どうでも良いことだと抜かしましてね」
ヴェゼルの強さを賞賛すべきか、配下の弱兵ぶりを嘆くべきか。とはいえ、それは叩きのめされても文句は言えない。殺されずにいるだけ良かったと見るべきだ。
ただ、その対象は誰なんだ?
ファラが短剣を抜き、掠れた喉で問う。
「ヴェゼル殿……教えてくれ、弟子とは、フェリス様のことか?」
「ああ、そうだ。俺の大事な大事な弟子のことだ」
フェリス……フェリス? ……クロゥレンの次男か!
名前を聞いて話が繋がる。そうか、ブライが殺害の指示を出していた。貴族としての彼は調査していたものの、交友関係までは把握していなかった。
こちらの所為でないと言うことは簡単だ。しかし近衛が実行犯であることも、近衛の統括が私であることも変わりはない。それでは納得出来ないだろう。
焦りが募る。時間をかければかけるほど、この三人の治癒は見込めなくなる。今にもミルカ・クロゥレンが門に現れるかもしれない。ブライも手を進めていくだろう。
一刻を争うこの状況下で、ヴェゼルの説得に時間をかけていられない。言って聞かなければそれまでだ。
「彼のことはこちらとしても本意ではない。……ヴェゼル、お前が怒るのは尤もだ。ただ申し訳ないが、今はそれどころではないのだ。後で説明の機会は設けると誓おう、ミルカ・クロゥレンの為にも協力してくれないか」
「集団で人の命を狙っておいて、それどころではないとは。いやはや、王族は言うことが違いますなあ」
淡々と言いつつ、気付けばヴェゼルが懐にいる。横目でファラを見れば、止める気配がまるで無い。仕えるべき主を奪われて、王族を守る理由など無いか。
脇腹に拳が突き刺さる。肺から息が絞り出され、床に転がった。衝撃が強過ぎて痛みを感じない。いや違う、これは、殴ると同時に治されたのか。
どれほどの技量だ。
倒れ伏したまま驚きに首を動かせば、冷たい目をしたヴェゼルが、私を見下ろしている。
「ミルカ様の為、ってところが気になるんで、命までは取りませんよ。ただし説明は今すぐにしていただきましょうか」
体の芯が冷えて痺れる。
ああ、懐かしい。久々の感覚だ。
一個人の武力が一軍に匹敵するような世の中で、権力など仮初の力に過ぎない。かつてそう気付き、多くを見限ったことを思い出す。
――だから王族などやっていられないのだ。
今回はここまで。
年末年始はどうなるか未定です。
今回もご覧いただきありがとうございました。