やるべきこと
肝心なことは、目的を見誤らないことだ。脅威に対抗するためには、最低限の条件を満たさねばならない。
条件――ファラ・クレアスの離反を防ぐ。そして、ミルカ・クロゥレンに比肩する戦力を用意する。
さてどうするか。
まず拘るべきはファラ・クレアスだ、アレを手放す訳にはいかない。あの女は手元に置く必要がある。最悪味方にならないとしても、今敵に回せばそこで話が終わる。
地位も名誉も金も、アレを縛る鎖にはなり得ない。ならば何で縛る。主となる小僧の命か?
有り得ない。
辺境の塵芥風情がこうまで人の邪魔をして、生き延びるなど許されぬ。クロゥレンを手折るという面でも、小僧を殺すことは必須だ。ただ、始末するまでに時間がかかる可能性は充分ある。特区にいるとなれば山林、山林となれば蛮族の領域だ、逃げ隠れする場所には困るまい。
ミルカ・クロゥレンが中央に辿り着く前に、首を確保したいところだが……そこまでは望めないかもしれんな。いずれにせよ、対応はラ・レイに任せるしかないか。
しかし噂を聞くに、あの二人の強度は拮抗している。ラ・レイの負けは想像出来ないが、現実に起こり得ないこととは言えない。ファラ・クレアスを確保しつつ、もう一枚手札が欲しい。
もう少し踏み込んで考える。傾向と対策――ファラ・クレアスは状況に流されやすい。上にただ従うだけの女ではないが、頭が良い訳でもない。何となくで動いている時は多々あったし、上として切り捨てるべきなのにそうしないこともあった。
強度で相手にならないのなら、違う点を攻めるべきだ。
あの女の、見切りの悪さを利用する。地位でも名誉でもなく、金でもないのなら、やはり残るのは情だろう。
しばし動きを止める。ファラ・クレアスの家族は十年前の水害で全員死んでいた筈だ。では、親しい部下で使えそうな人間……これなら使えるだろう。
卓上の鈴を鳴らし、影を呼ぶ。天井から黒ずくめの男が舞い降り、音も無く着地した。
「御用向きは」
「ジグラ・ファーレンの身辺を探り、身内を確保しろ。姪がいる筈だ、名目は何でも構わんから早急に引っ張って来い。後、組合に行ってカルージャ・ミスクを呼んで来い。狩りの誘いだと伝えておけ」
影は頷くと、天井へと煙のように戻る。相変わらず気味の悪い男だが、仕事は確かだ。アレが王族ではなく、俺に従ってくれればと思わなくもないが……まあ、そこまでは望むまい。
さて、これで事が成れば、最低限の水準は満たしたと言えるだろう。賓客をもてなすにしては急拵えの感はあれ、ミルカ・クロゥレン単体への備えとしてはこれで充分。
他に出来ることは……ファラ・クレアスの資産関係だな。レイドルク家への賠償で私財を処分しているようだし、業者に買い取り額を絞らせるか。そこに一押しすれば、借金で首が回らなくなる可能性もある。
出来ることは全てやっておく。命のかかった状態で手は抜けない。とはいえ打てる手があれば、その分やることも増える。
人材が足りない。有能な者も、忠実な者も、どちらも不足している。
それでも退けないのなら、俺は前に出るしかない。
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目の前の男を、改めて見下ろす。痩せ細り、力を感じさせない挙動。何をするにも難儀をするような有り様――これは、病死する直前の俺の姿だな。
当然ながら魔力は感じないし、あの状態では立ち上がることも無理だろう。アレが俺に及ぶ筈は無い。
なのに、どうしようもない忌避感ばかりが募る。目の前の存在を排除しなければ――
「落ち着けよ。俺が何も出来ないことくらい、充分知ってるだろ?」
声を聴いて、体の強張りが解ける。
「ああ、解ってる。しかしこれは、」
ゆるゆると首を振り、かつての俺が気怠げに遮る。
「落ち着けって、きついなら少し下がった方が良い。……それは単なる防衛本能だ。俺はこの世界の人間じゃないから、異物をどうにかしよう、って意識が働いてるだけだよ」
軽く言うが、強制的にそうした意識を叩きこんで来る存在は、それだけで脅威ではないか。
俺は身を沈め、取り敢えず言われた通り少し後退った。このどうしようもない感情が和らぐ訳ではないにせよ、距離が近ければ、衝動的に殺してしまうかもしれない。
これは、今までに経験したことの無い攻撃だ。
体の強張りを気にしながら、相手の言葉を待つ。すぐには襲われないと知ってか、かつての俺が先を続ける。
「さて……まあ解ってるとは思うが、この俺は確かに死んでいる。ここにいるのは、強引に実体化させられた残り滓に過ぎない。数時間もすれば、多分崩れて消えるだろうな」
「で、それが何でここにいる?」
「ありがちな話だよ。託宣を受けるには、試練が必要だ。試練を乗り越え、初めて人は知識を手にする権利を得る」
言うだけあって、試練などとは本当にありがちな話だと思う。
しかし、知識とは? 俺は託宣を受けに来た訳ではない?
疑問が顔に出ているのか、口にするより先に返答がやって来た。
「言葉だけだと実感は湧かんかもしれんが、実物を見ればすぐ解る。説明は制限されてるから、ちょっと出来ない」
「……ひとまず納得しておこうか。で、試練ということは、お前をどうにかすれば良いということだな」
「そうだ。とはいえお察しの通り、俺とお前が戦ったって何の意味も無い。こっちはまともに動けないしな」
相手の言う通りだ。介助無しで生活も出来なかったのに、戦うなんて夢のまた夢だろう。
俺は顎をしゃくって先を促す。かつての俺は、蟲が這いずるような歪んだ笑みを浮かべる。
「お前の試練は、俺を祭壇まで届けること、だ。無論俺を殺さずにな」
「なるほどな」
確かにそれは試練だ。俺は相手とは対照的な、苦い笑みを浮かべる。
しかし、それをやらねばならないのなら、やるだけのこと。
先程から『健康』を起動させているのに、相手を殺したくて仕方が無い。要するに、異物を排除しようというこの感覚は、この世界に生きる者として当たり前の情動ということなのだろう。それが適正であるのなら『健康』は機能しない。
武術でも魔術でもなく、ただ自制を促す、か。試練とは本来そういったものなのかもしれない。
ひとまず、自分の攻撃手段を減らすべきだな。鉈を鞘に収め、棒は縮めて懐に仕舞う。手を振って力を抜き、意識を切り替えていく。
「……抱え上げただけで死なねえだろうな」
「そこまでではない。そんな状態なら、会話も覚束ないだろう」
それもそうか。
大きく息を吸い、止める。
殺さない、殺さない、殺さない。
何度も繰り返す。全開で練り上げた魔力を『集中』に回し、頭に不殺を叩き込む。
覚悟を決めて相手に近づき、痩身を背負った。驚くほど軽い。重量的な意味で、動き回るのに支障は無さそうだ。ただその反面、背中から心臓へと集約されるような不快感が凄まじい。反射的に相手を投げ出しそうになる。己だった者にここまでの嫌悪を抱くとは思わなかった。
一度目を閉じ、目的だけを脳裏に残す。それでも胸がざわつくのは――
「もう諦めるしかない、か。行こう」
「道は見たままだ、早く終わらせたいなら、急げよ」
言われずとも承知している。前方に魔力を飛ばすも、敵の気配は返って来ない。前方の心配が無いならばと、強く地面を蹴った。なるべく体を上下させないよう、滑るように前へ。振動で殺したら目も当てられない。
ひた走る。耳元に響く自分の呼吸がうるさい。
抑え込んだ衝動が、時折どうしようもなく込み上げる。耐え切れずに拳を壁に叩きつけ、磨り下ろすようにして進んだ。血の筋を引き摺って、それを『健康』で癒し、痛みを正気に変えていく。
そこまでやって、抗えるのは数秒だ。だから何度も繰り返す。まるで足跡を残すように、点々と壁に血の跡を刻む。
長い長い一本道だ。多少曲がりくねってはいても、景色にほぼ変化は無い。体はただ前に進むだけのものとなり、俺は内心と戦い続ける。
背負った男を、捨ててしまえば良い。離れてしまえば、こんな気持ちにはならない。
いやいや、今すぐに殺してしまうべきだ。この男はこの世界に存在して良い者じゃない。
自分の思考が自分から離れてしまったように感じる。そうしてはいけないという理性は勢いを失い、ただ本能のままに振舞おうとする自分を、絶えず諫めている。気付けば噛み締めた唇から血が流れ、唾液と混じり、赤い泡が顎をべったりと汚している。錆に似た臭いですら、何処か他人事のようだ。
おかしくなっていると、自分でもよく解る。いつまで続くんだ。これは本当にやらなければいけないことか?
手を離せ、足を止めろ、自分を保てなくなるぞ。
当たり前過ぎる制止が、内心から湧き上がり止まらない。黙れ、黙れ。
それでも進む。急な曲がり角を曲がる。
「……ああ?」
自傷で衝動を抑えつつ走っていたが、不自然な状態が目の前に現れ、思わず足を止めた。
「どうした?」
笑いを噛み殺した声が耳元で響く。
こめかみが脈打ち、苛立ちが募る。頭に血が上っていると遅れて自覚した。
力無く俺に絡みついている手足を握り潰そうとして、慌てて踏み止まる。かつての俺を一度背中から下ろし、眉間を壁に強打して己に喝を入れた。
大丈夫だ、落ち着け。俺はまだ行ける。
割れた額から流れる血が、かろうじて俺を繋ぎ止めた。とはいえ内心では、信じられないほどの迂闊さに茫然としている。
「……いつから、俺は嵌っていた?」
問いに答えは無い。
視線の先の壁に、赤く引き摺られた線がのたうっている。正気を保つために、俺が拳を削った跡だ。一本道をずっと走り続けて来て、それが行く先にある意味。
魔術的幻惑――普段ならば絶対に引っかからないであろう、単純な罠にかかっていたということだ。有り得ないと思うものの、目の前にある現実からは、そうとしか言いようが無い。
夢中で内心に抗っているうちに、何処かで何かを見落とした。結果として、俺は恐らく、長い円状の道を回り続けていたのだ。これはもう不覚を通り越し、恥辱に近い。
呼吸が短く、浅くなっていく。
俺は何を考えていたんだ。これは試練なのだ――仕掛けが無いだなんて、誰も言っていない。手っ取り早く事を済ませようとして、視野を狭めた挙句、当たり前の警戒を怠った。
何故、何故俺は『観察』していない。
試練とは、己の持つ全てで乗り越えるべきものなのだ。何を思い上がっている。
視界が涙で滲んだ。
殺意が研ぎ澄まされ、完全に自身の制御下に置かれる。自傷の跡が修復され、四肢に力が入る。身も心も俺に起因するものだ、これは俺のものだ。世界に根差した本能などではなく、俺は俺の意思で、殺す相手を決める。
かつての俺はあくまで試練だ。殺す相手ではない。
「あー、クソ、ふざけんなよ」
涙を拭く。自傷で意識を繋ぎ始めたのは、どれくらい前だったか? 思い出せないが、魔力はまだ残っている。どれだけの時間がかかろうと、今度は手抜かりはしない。
『健康』で呼吸を整え、『集中』で目的を印象付け、『観察』で状況を見極める。かつての俺を背負い直し、顔を上げた。
走り始める前の話だと、かつての俺が維持されるのは数時間。ならば余裕は無い。
「待たせたな、行くぞ」
「どうぞ」
今度こそ、本気で行く。
不甲斐なさが、衝動を忘れさせていた。
今回はここまで。
ご覧いただきありがとうございました。
なお私用のため、次回更新は11/27予定です。