既知との遭遇
月明かりも無い真夜中に、ワタシの幸せはある。
逞しい胸板に指を這わせ、首筋に額を擦りつける。顎先に口付けて、睦言の余韻を楽しむ。知らず喉奥からは抑えた笑いが漏れた。
「……何が可笑しい」
「いいえ、嬉しいのでございますよ、ブライ様。貴方の時間をいただいているのですから」
きっと、あの空を舞う獣のような双眸が、ワタシを射抜いている。その眼差しを思えば、得も言われぬ痺れが駆け巡るようだ。
ワタシの言葉を鼻で笑いつつ、ブライ様は深い溜息を漏らす。
「フン、俺の時間か。まあこうしていられるのも今のうちだ。事が動けば、こうも悠長にはしていられまい」
「人は身を休める必要がございます。それは王であっても変わりません。こうして戯れる時間は、無くしてはいけないのですよ?」
相手の唇の端に、己の唇を添える。うっすらと伸びた髭が当たった。
悠長な時間とは言いつつ、ブライ様は忙しない日々を過ごしている。道理を弁えぬあの女が、離反を口にして以来――捌くべき案件が増えた。
近衛とは王家の所有物であるにも関わらず、許諾も無しに野に下るなどという戯言をぬかすとは、恥知らずにも程がある。そのような思い上がりが許される筈がない。
臍の下で煮え滾る魔力が、怨敵を滅せよと吠え立てる。
「勝手な真似はするなよ。アレは手駒として必要だ。切り捨てるにせよ、結論を出すにはまだ早い」
「ですが、放置する訳にもいかないのでは? これまで近衛としての仕事に携わる上で、漏らしてはいけない情報を彼女は幾つも見て来ているでしょう。どう転ぶにせよ、何らかの処置は必要です」
「それも含めて保留だな。アレを敵に回すなら、それなりの準備が必要だ」
「ワタシが負けるとお思いですか?」
やりようなら幾らでもある。
ブライ様は暫し黙して何やら思索していたが、やがて嗄れた声を漏らす。
「勝ちも負けも、有り得ることだろう。何やら私財を処分する流れで、何故か武器まで手放しているようだが……強度は武器に左右されない数字だからな。アレは無手でもやれる人間だということだ。仕掛けるなら確率をもっと上げたい」
仕留め切る自信ならある。だが、それを信じてもらえないのなら、ワタシは動けない。
歯噛みするワタシの頬を、分厚い手が撫でる。
「まあそのことは措いておけ。それよりも動いて欲しいのは、お前の弟子の方だ。呼びつけておいたから間も無く来るのだろうが……大人しく従うのなら良しとしても、まあ話に聞く気性ではそうはならんだろう」
目を閉じて、かつての弟子の記憶を辿る。確かに彼女は『至宝』の称号を得るに足る才気に満ちていた。数年前にはワタシの順位に迫る所までやって来ている。強度的には微差だろう。
凡百の相手ではない。しかし、知り尽くした相手でもある。幾ら成長したとはいえ、想定を超えることはあるまい。
あの娘は、格上と戦う経験に乏しい。
ワタシは唇を曲げ、笑いを浮かべた。
「お任せください。ミルカ・クロゥレンなど、確実に処断して見せましょう」
「そうか。……お前はこれまで結果を出し続けた。今後もそうあってくれ、ラ・レイ」
「はい。ワタシは、いつまでも貴方に報いましょう」
ブライ様の体に縋りつく。夜はまだ長い。
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薬液は無事に出来上がり、コルムの遺体を浸して終了となった。過去の経験からすると、仕上がるまでに三日はかかる。後はただ待つだけだ。
気持ち的には風呂に入って汗を流し、ゆっくり眠りたい。だが、中央の動向も気になることだし、無駄な時間を過ごす訳にもいかない。
特区に辿り着いた時、久々にゆっくりしようなどと目論んでいたことを思い出し、気持ちが落ち込んだ。
眠気を噛み殺し、重い足を自覚しながら門外に出る。雲間から差す久方ぶりの陽光が目に刺さって鬱陶しい。今日に限って晴れか、顔を顰めて舌を一つ打つ。
半分機能していない頭の中で、やるべきことをまとめる。
まず最低限必要なこと――牙薙の死体を回収し、脅威が取り除かれた証拠とする。これについては現地に着いたら術を打ち上げて合図をすれば、ギドや近衛連中が持って行ってくれるらしい。まあ回収されたところで肉は毒が染みているし、骨も牙も砕いてしまったので、使える素材は皮くらいしか残っていない。俺一人ではどうせ動かせないのだから、討伐の手柄ごと持って行ってもらおう。
標本化の仕事は五百万ベル、正直貰い過ぎだ。大物狩りの功績が、お釣りとしては丁度良い。いずれ彼らが無事中央に戻った時、証があれば箔付けとして機能するだろう。
……仕事の代金としては、何気に過去最高額だな。
ならばまずはメシの種を確保せねばなるまい。地術で自分を跳ね上げて、牙薙の死体の所まで一気に移動する。膝を破壊しそうな衝撃を繰り返し、ようやく目的地へ辿り着く。
そして、目の前に広がる光景に、思わず苦言を漏らす。
「うわっ、汚えな」
他の獣に喰われないよう保全のために張った水壁に、無数の虫が浮かんでいる。小型の四足獣も二体ほど、水壁に首を突っ込んだまま溺死している。備えておいて正解だったようだ。
溜息をついて水を入れ替える。水だとどうも汚らしい印象を受けるので、今度は氷で牙薙を覆った。それなりの魔力を込め、強度が充分であることを確認して頷く。
そうして手を空に翳し、魔術を撃った。放たれた水弾に陽術と陰術を混ぜれば、照明弾もどきの出来上がりだ。光と影が空中を乱舞し、準備完了を彼らに伝える。後は動ける連中が、必要な道具を持って動き出すだろう。
しかし――周囲を見回して、立ち尽くした。ふとした思い付きが、頭の中に浮かび上がる。
祭壇と牙薙を探していた時、俺は基本的に居住区を基点として、徐々に捜索範囲を広げるというやり方をしていた。ヤツと初めて遭遇した地点も居住区からそう離れてはいなかったので、まずその周辺から始めた程度だ。だから、俺は塒と思われるこの近辺を充分に調査出来ていない。居住区の連中も、接敵の可能性が高いとなれば、わざわざここで採取や狩りは行っていないだろう。
となれば、誰の目も届かないこの近くに、祭壇があるのではないか?
どうせ見つかるまでうろつき回るのだから、ここを先に調べるのは一つの手だ。前回の調査に基づいて、地面に魔力を巡らせる。この場から若干北に行った所に、探知を弾く地点が幾つかあった。その中でも空白が大きい箇所が二つ。
非常に気になる。まずはそこから行くか。
泥を蹴って跳ぶ。探知を弾くということは、地術による地形変化は使えないということだ。手近な素材を利用した盾が使えないというのは痛いものの、最悪は水術でゴリ押しするしかあるまい。
考えつつ、足を速める。
「……あれか?」
目的の土地へ辿り着くと、心臓が強く鳴った。確証など無くとも、人ならざる者に作られた体が、確信を訴えている。
間違いない、アレだ。
生い茂る樹々の中に、一際大きな異彩を放つ岩壁が聳え立っている。泥で汚れた森の中で、やけに白い壁は悪い意味で目立っていた。そして、そこには人がどうにか入れるくらいの亀裂が走っている。
探知を弾いているのは、恐らくこの石材だろう。
得心する。この石材で作られた祭壇を、長い時間をかけて樹々が覆い――雨で剥がれた部分が魔力を弾く形で露出した訳だ。根を深く伸ばさずとも、植物が吸収出来る自然の魔力は地表に留まっているのだから、森は急激に成長する筈だ。特区の開拓が進まず、木工ばかりが発展するのは、こういうことだったのか。
巨大な祭壇を封じる森の結界。それが特区という訳だ。
興奮をどうにか押し殺し、冷静であれと自分に言い聞かせる。鉈を握り締めて、亀裂へと近寄った。岩壁を叩いてみると、甲高い澄んだ音がする。
「……硬えな。頑丈ではある、と」
崩落しそうな感じはしない。森になるだけの時間を耐えたのなら、そう心配するほどのことは無いだろう。ただ、一度で当たりを引けると思ってもいなかったので、装備が整っていないことは危惧される。
水はある。明かりもある。食料は……干した肉や果物が少々。如何せん頼りないが、さっき魔術を撃ってしまった以上、呆けているとギド達に俺の狙いが露見してしまう。
上位存在と交信しに来たなど、知られてもロクなことになるまい。取り敢えず、行ける所まで今日行かなければならない。
唾液を飲み込み、身を屈めて亀裂の中に滑り込む。明かりを浮かべて周囲を見渡せば、入り口が狭いだけで、内側はそれなりに高さがあった。全体的に色味が白いからか、僅かな光量でもそれなりに明るさを感じる。
魔獣の気配は現状感じ取れない……行くか。
滑らないよう靴の泥を落とし、走り出す。時折まとわりついてくる虫が鬱陶しい。燃やしてやりたくなるものの、酸欠になるのは御免だ。毒があるかもしれないため、鉈でこまめに払いながら進む。
往復を考えれば、活動出来るのは二日が限度だろう。それ以上は集中力も体力も保たない。しかしこの空間の中で、どれだけ時間を意識していられるのか?
――ああ、これはいかんな。
身の安全を意識しながら進んでいると、不安が込み上げてくる。まだ足を踏み入れて間も無いというのに。
一度目を閉じ、深呼吸をする。
これを目的として生きて来たのだ。今更怖気づいてどうする。そうだ、いずれにせよ目的は達しなければならないのだから、今はただ足を進めることだ。
急激に襲い来る重圧に抗う。幸い、道は真っ直ぐで、迷う要素は無い。
行くしかないんだ。
行くんだ。
時間を忘れて歩み続ける。汗が落ち、息が上がり始めた頃――視界の先に、人影が一つ浮かび上がった。
その顔を見て、眉を顰める。
「やあ」
「……そう来たか」
悪趣味と言うべきか、ある種の王道と言うべきか。
嫌になるほど懐かしい。
力無く地べたに座り込み、こちらに挨拶をするその男は、前世の俺の形をしていた。
今回はここまで。
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