本音
あの日から、何が正解だったのかを考えている。父の不在の間に、レイドルクは破綻してしまった。俺の立ち回りが間違っていたのか、それとも、最初から避けられないことだったのか。
考えたところで答えが出る筈もなく、ただ、同じことを繰り返し思い返している。
俺は何処で躓いたのだろう。
解らないまま、器に注いだ酒を舐める。ねっとりとした舌触りと強い酒精が、少しずつ俺から正気を剥ぎ取っていく。何かしらの宴でもなければ酒を口にはしてこなかったが、なるほど、嫌なことがあった時は飲むに限る。
正気になれば、また同じことをきっと考えてしまうのだ。
家人を全員部屋から出し、一人食堂で酒を舐めていると、ミルカ殿が入ってきた。
「あら、失礼しました。休憩中でしたか」
「構わん。寝るには早いのでな、少し持て余していた。……伯爵領の果実を漬けたヤツだ、甘いのが苦手でなければミルカ殿もどうだね」
「……では、失礼して、いただきます」
好みが解らないので、酒を適当に水で割って差し出す。
「まあ最初はお試しだ。後は好きにやってくれ」
「ありがとうございます」
盃を掲げ、打ち合わせる。涼やかな音を響かせてから、互いに酒を口に含んだ。ミルカ殿は味を確かめるべくしばし口を閉じていたが、やがて一息に飲み下した。
熱の混じった艶のある息が、ほう、と吐き出される。
「酒は嗜まれるのかな」
「時々ですね。嫌いではありませんが、魔術の出来が悪くなるので」
「なるほど、勤勉だな」
「いえ、臆病なだけです」
当たり前のように笑う。あまりに自然で、そして美しい。魔術に留まらず、その佇まいだけで至宝を謳えるだろう。
どうしようもなく欲しいと思った。立場のある者にはそれに見合った伴侶が必要だ。彼女なら――俺に相応しい。
知らず、食卓の上に置かれた手を握っていた。一瞬驚いたようでも、強く拒絶するようなことはなく、彼女は困ったように眉を下げた。
「私が来る前に、かなり飲まれていたのですか?」
「そうでもないさ、潰れる訳にもいかんのでな。……ミルカ殿、茶番に付き合わせた以上、君には何らかの形で報いねばならんと思っているのだよ」
震える指先がミルカ殿の手の甲をなぞる。真っ直ぐな視線が、こちらを窺っている。酒を飲んでいるはずなのに、やけに唇が渇いた。
聡明な彼女ならば理解している。身分の差がある以上、拒絶などあろう筈がない。
状況は明確だ。むしろ彼女から口にすべきこと。
「……盃が空ですよ」
空いた手で、ミルカ殿が酒のお代わりを注いでくれる。片手を使えない分不安定だったのか、量が多い。予定より深酒になりそうだが、自分が招いた結果だ、甘んじて受け入れる。
お代わりをまた口に含むと、舌先が痺れるような感覚が徐々に広がっていく。飲み過ぎただろうか? いや、構うまい。明日は特に大きな仕事も無い筈だ、多少くたびれていたところで、最低限の仕事は出来る。
「ミルカ殿も、もう一杯どうだ?」
「いただきます」
今度は酒を割らずに、彼女も盃を片付ける。白い頬に朱が差して、美貌が輝いて見える。
「ゆっくり楽しみましょう、夜はまだ長いのですから」
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ジェストがアヴェイラと対峙する際は、周囲の足止めをしなければならない。その中で、ジェストが止められない可能性の高い人物は二人――ウェイン・レイドルクとファラ・クレアスの両名だ。ウェイン様はジェストの指示を聞く立場ではないし、ファラ師は状況によってはレイドルク家を無視して動く。
だから、状況を制御してやる必要がある。
ミル姉はウェイン様を抑えにかかった。ならば俺の役目は、ファラ師を説得して引き込むことだろう。彼女は元より俺から離れるつもりは無さそうではあるが、今後を考えれば、クロゥレン家の動き方を理解してもらった方が良い。
それで従者になろうなどという意識を改めてくれれば、なおのこと良い。
ファラ師は手札として強力なことは間違い無いものの、あまりに目立ちすぎる。同行してくれても俺にはあまり旨みが無い。どちらかと言えば、クロゥレンの家臣として動いて欲しいというのが本音だ。
そこまで誘導出来るかはさておき、今はまあジェストの支援に努めよう。
何故かずっと部屋の前で控えているファラ師を、中へと招き入れる。今にも跪きそうな雰囲気があったので、手近な椅子を勧めた。
「どうなさいましたか?」
「いや……ちょっと聞きたいことがあったんですが、そんなに畏まらなくても」
「ですが、従者ともなれば立場上そうはいきません」
「まだ従者ではないでしょう。というか、お互い疲れるだけですし、喋り方くらいは戻しませんか?」
ファラ師は少し思案した後、仕方無さそうに頷く。
「主の指示だ、従おう。ただしそちらも敬語は無しだ。……後、私は器用な性質ではないのでね、咄嗟の切り替えは出来ないよ」
「別に構わない。俺がファラ師に敬語を使わない分には、思い上がったガキがいる、で済むだろうしね」
「それはそれで不本意なのだが……やはり人目は気になるのかな?」
俺は肩を竦める。この仕種だけで理解したらしく、ファラ師は諦めて椅子に背を預けた。
さて。本題に入る前に、話の流れを頭に浮かべる。ジェストのことはさておき、俺の方の疑問も片付けておかねば。
「ファラ師はいつ中央に戻る予定で?」
「ああ、聞いていなかったのか。一応、アヴェイラの件の顛末を見届けてから、私とジグラは戻ることにした。まあお偉方に幾ら詰られたところで、辞めることは決めているしな。責任は私が全て取るという形で、ジグラにも骨休めをしてもらっている」
そういえば、副長とやらも来ているのだったか。意識がぼんやりしていた所為で、考慮すべき人物から外していた。
……今更抑えようもない、な。
不安はあるにせよ、恐らく裁きにはあまり関わらなかった人物だ。部外者がレイドルク邸内を勝手に動き回るとも考えにくいし、静観すると信じるしかない。
「ファラ師が職を辞すとなれば、次の隊長はジグラ殿に?」
「どうだろうな。副長は三人いるから、その中から選ばれるなら私はそれで良いと思っている。誰であれ一長一短はあるからね。ただ、ジグラなら統率力は高まるだろう。君は知らないだろうけど、面倒見が良い男なんだ」
俺が聞いたのは、ジグラ殿がミル姉の障壁を破ったということくらいだ。双方本気ではなかったとしても、ミル姉の防御を抜ける人間は珍しい。ファラ師は人格を長所として挙げたが、腕前だって相当なものなのだろう。
ただ、そういう人物だとすれば、やはり不安はある。
「近衛としては、今回の件をどう見たのでしょう?」
「どう、と言われてもな。ジグラは少なからず、アヴェイラに失望したようだ。万が一刑が執行されないのなら、近衛で葬るしかないとも言っていたな。私は――あの浅慮には気付いていたのに、何も出来なかったという点では悔いが残る」
その発言であれば、ジグラ殿については放置していても問題は無さそうだ。むしろ判断がつかないのは、ファラ師の方か。
「アヴェイラが更生する道もあったと?」
「そこまでは言えない。ただ、ハーシェル家を巻き込んだのは明らかにやり過ぎだった。そりゃあ、彼らは確かに短慮だったかもしれない。でも、自分達が生活する領の令嬢に裁きを直接勧められたら、その気になっても無理はないだろう?」
そこで乗ってしまうから駄目なんだ、とは思うものの、口には出せなかった。ファラ師の言い分にも理はある。俺は顔を顰めてひとまず頷きを返す。
取り敢えず、アヴェイラに対して過剰な思い入れがある訳ではなさそう、か。
唇を舌で湿らせ、俺は切り出すこととする。
「……ファラ師、折り入って話というか、お願いがありましてね」
「敬語は使わないこと。……私は主に従うよ、だから気兼ねなく命じれば良い」
「俺はファラ師だけでなく、誰に対しても命令をするつもりはないよ」
お互いの視線が絡む。やがてファラ師が目を逸らしたことで、俺は続ける。
「……まあ、お願いというのはね、今日からこの一件が決着するまで、地下には行かないで欲しいということなんだ」
余程のことを頼まれると思っていたのか、ファラ師は目に見えて肩の力を抜く。とはいえ、いまいち話の着地点が見えないらしく、首を傾げていた。
「元よりそのつもりはなかったし、問題は無いな。しかし、何かあるのか?」
「ジェストがアヴェイラと決着する気でいる。今日にでもアイツは動き出すだろうね。レイドルク家の裁定に反するとしても、俺としては好きにさせてやりたいんだ」
「賛成したいところだが……拘束されている人間を一方的に仕留めることに、意味があると?」
溜息をつく。その武人らしい発想が、何よりの懸念だった。
「ある。虐げられ続けた関係性を、自分の手で終わらせられる。アイツの気持ちを清算するためには、アイツが自分で手を汚さなきゃならない」
ジェストはアヴェイラと戦いたい訳でもなければ、超えたい訳でもない。
ただ、この世にアヴェイラがいることが我慢ならず、殺したいだけなのだ。
ファラ師は困ったように眉を下げ、己の髪に指を絡める。
「自分で手を下すことの意味は解る。でも君達は、ああも真摯に訓練をしていたじゃないか。それを正々堂々と発揮しようとは思わないのか?」
それは、真っ当な言い分だった。しかしどうしようもなく、俺の癇に障る。
「そういう感情は否定しないよ。努力が報われれば誰だって嬉しい。それに貴族であるからには、最低限の強度くらい持つさ。ただね、俺は職人だし、ジェストは金庫番だ。俺達は武人じゃないと再三繰り返しているのに、どうして誰も言うことを聞いてくれないんだ?」
寝台から身を伸ばし、ファラ師の両腕を掴む。全力を振り絞っても、相手を揺らすことすら出来ない。ただ、服に寄った皺がやけに目についた。
「俺達が鍛えてきたのは、貴族だからということと、理不尽な暴力から己を守るためだ。アイツは今アヴェイラを殺さないと、自分で自分の心を守れない。だからどんな手だって使う」
命がかかっているのだから、やり方には拘らない。本気というのはそういうことだ。
ファラ師は俺の手を振り払うこともせず、ただ痛ましげにこちらの顔を覗き込む。そして、額を寄せて来た。
唇が触れ合うような距離。澄んだ赤い瞳が、俺を捉えている。
「出来る人間は期待される。上に立つ者であれば猶更だ」
「それが当たり前のことだというくらいは、解っているよ」
否定するような話ではない。地位や立場を持つとはそういうことだ。
「……私達のような人間が、そうやって君達に重荷を押し付けているのも事実なんだろう」
「それも仕方無いことだ。その荷を背負うことが、民を統べるということだから」
ただ俺達は、理解されない以前に、話すら聞いてもらえないことが苦痛だった。俺とジェストに地位を超えた付き合いがあったのは、こうした貴族らしい心構えを持てず、身を寄せ合うしかなかったからだ。
ファラ師は俺の言葉に一度目を閉じ、顔を離した。
「私はどう返すべきなのか、言葉を持たない。でも……君が願うのであれば、それで良いさ。君の力になれるのなら、それで良い」
静かに笑って、承諾が返る。
どうしてこうも、ファラ師は懐が広いのだろう。この人と話していると、時々泣きたくなってくる。
俺は頭を下げ、ファラ師に感謝を表すしか出来なかった。
今回はここまで。
ご覧いただきありがとうございました。