逆巻く感情
血の気が引く、という感覚はこうも悍ましいものか。頭の天辺から足の指先まで、重く冷たいものが静かに広がっていく。耳の奥で、砂の流れるような音がした。
現実を否定したくて、私は妻へと再度問い直す。
「今日の昼、フェリス君は工房に来たんだな?」
「何度も言わせないで頂戴。あの失礼な子供だったら、追い返しました」
「そう、か……」
両手で顔を覆う。胃液を戻しそうになって、喉を締める。涙は出なかった。
何と馬鹿なことをしてくれたのか。幾ら彼が温厚だとしても、ここまでされて黙っている貴族はいない。むしろ、その場で妻が殺されなかっただけ奇跡のようなものだ。
それを幸いと言って良いのかは、私には解らない。
「そのような真似をして、許していただくことは出来るのか……?」
「あんな子供に何が出来るというの? 何があったのか知りませんけど、しっかりしてください。もう侯爵家にもお話はしましたし、騙されたお金を取り返さなければいけないんですよ!」
聞けば聞くほど、眩暈は酷くなる。彼女の歪んだ表情が、そのまま私の視界をも歪めていくような錯覚。
既に詰んでいる? まだ可能性はあるか?
侯爵家に訴え出ておいて、実は何もありませんでした、とは言えない。せめて和解しましたとでもしなければ、大貴族を無駄に巻き込んだ咎を背負うことになる。それに、そもそもフェリス君が詐欺行為を働いていない以上、調査されればこちらが負ける案件だ。
何をどう話すべきなのか。
死ぬ可能性が限りなく高まっている、ということだけが事実だ。今の彼女にそんなことが理解出来るか?
「……幾つか、誤解を解いておくべきだな。まず、彼は詐欺師ではない」
「あんな子供が、お義父様から依頼を受けるだけの腕があるって言うんですか? しかも、金額は二十万を超えるんですよ?」
どことなく恨みがましいものを含ませて、妻は私を睨む。現金収入が大きく減ったことを伏せようとしたのは、私の失策だった。不自然に減った入金額と、行く時は持っていなかった包丁の柄――妻の不審を煽るには充分過ぎた。
「彼の腕前はバスチャーさんも認めている。指名依頼を受けるだけの腕はあるんだよ」
「だからって、金額が大き過ぎます。必要以上に吹っ掛けられたんじゃないですか?」
そうではない。あれは私がつけた値段だ。彼という職人が生み出した作品に対し、可能な限り適正な値段をつけた結果だ。
だが、一度現金の出入りを伏せたという事実が、こちらを見据える血走った目が、私にそれを語らせてくれない。せめてと首を横に振るも、理解はされないのだろう。
「そもそも、お義父様が事業で失敗した分のお金を、こちらで背負う理由が無いじゃないですか。うちだってそんなに裕福ではないんですからね!」
「そうは言うが、今までうちや君の実家が苦しい時に資金援助をしてくれたのは父じゃないか。少なくともその借りは返すべきだし、そう思うからこそ、君の実家も今回の件では援助を申し出てくれたのではないのか。……今は苦しいけれど、ここを乗り切れば伯爵領で父の仕事を引き継げるんだ」
「そりゃあ、そうでもなければ私たちは終わりですよ。ただそれと、無駄なお金を払うのは別問題でしょう?」
……今まで彼女は職人の妻として、一つの作品が生まれるまでをどう見てきたのだろうか?
泣きたいような、喚きたいような苦しさに胸を押さえる。全てを投げ出してしまいたい。歯を食い縛って自分を押し留める。
「無駄ではない。私も職人である以上、作品に対しては適正な価格で応じなければならないんだ。少なくとも上級を目指そうというのなら、そこを曲げてはならないんだよ。大体、そうやって息巻くのも良いが、フェリス君は貴族の子弟だ。今お前が生きてるのは彼の恩情によるものだぞ」
私の発言でようやく事の重大さに気付いたのか、妻は何かを言おうとして、結局声に出来ずに表情を崩した。
泣きそうなまま私を見つめる相貌に目が眩む。不意に記憶が過去へと飛んだ。
結婚して十年。
かつて私が愛し、あれほどまでに求めた女は何処へ消えてしまったのだろう。目の前にいるのは、我欲に塗れ現実が解らなくなった女だけだ。
責任の所在は何処にあるのか。
父を傷付けた男か? 貴族に楯突いた妻か? それとも、不甲斐ない私か?
解らない。解らないまま、きっと間違った道を進もうとしている。
「今ならまだ間に合う。和解を目指すべきだ」
「いいえ。あの子供が貴族であっても……不当な権力を振るったのなら、侯爵様は相応の裁きを下されるはずです」
震える拳を隠しもせず言い放った言葉。
相応の、か。
「それが君の答えなのだな」
もうどうしようもない。彼女をこうした責任は、私にある。
それが愛した女の末路と言うのなら――道行きには、共に歩む者が必要だろう。
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「クロゥレン家の次男に詐欺の嫌疑?」
一仕事終えて一服をつけている手を止めるには、充分な発言だった。アヴェイラは何処か面白そうな顔で、俺に語り掛ける。
「そうなのです、お兄様。今日の夕方、セレン・ハーシェルという者が我が家に現れまして。あまりに騒ぎ立てるものですから、やむなく家令が話を聞いたところ、夫であるサーム・ハーシェルがフェリス・クロゥレンという者に不当な契約を結ばされたという話でした」
ふむ。
まあ貴族が権力を笠に、平民から小銭を稼ぐことはよくある話だ。大体の場合は身分差の前に平民が泣くか、処断されて終わる。むしろ今回のように、平民が生きたまま被害を訴えることは珍しい。
相手を甘く見たのだろうかと、干菓子を摘まみながら考える。訴えがあり、双方が生存している以上は調査をしなければなるまい。とはいえ貴族は明らかにおかしな理屈を捏ねて、言い逃れようとする場合が多々あるので、時間がかかるな。
クロゥレン家側がこちらに利するものを提示出来なければ、粛々と事を進めて終わりか。
「被害額は解っているのか?」
「約二十万と聞いております」
詐欺にしては少額だ。初犯だからまだ手口が大胆なものではないのか? それとも単に出来心か? 或いは……そんな額でも押さえなければならないほど窮しているのか。
「お前とジェストはクロゥレンの次男とは同世代だったな。あそこは経営が苦しいのか?」
「さて……あそこは先代が商人で、一代にて身を興したとは聞いていますから、そこまで貧しい訳ではないと思いますけれど」
だよなあ。辺境の子爵家が平民の懐に手をかけるようになったのなら、噂が流れるのは早いはずだ。俺もクロゥレン家もあまり社交には出ていないが、貴族家の解りやすい悪評ともなれば話題に上る。
いや待て、あの家の次男と言えば。
「フェリス・クロゥレンは家を出ているのだったか」
「そのようですね」
そうだそうだ。次男は出来損ないだの凡夫だの言われてる男だったはずだ。批判から身を離したまでは良かったが、生計を立てられなかったのだろう。窮した挙句に小銭に手を出したものの、相手の口封じをするだけの度胸も無かった所為で、逆に訴えられたといったところか。
さてそうなると、どういう展開が我が家にとっては望ましいのか。
張り付いた前髪をかき上げ、舌で唇を湿らせる。
「取り敢えず、クロゥレン家には使いを出すか。どう転ぶにせよ、貴族の子弟を勝手に司法の場へ引きずり出すと後が煩い。……クロゥレン家は次男を切り捨てるかね?」
執着があるのなら、持ち掛けられる取引もある。特に当主のミルカ・クロゥレンは武勇に秀で、その容姿も美しいと国内で評判の女性だ。巧く事が進んで、それを手折ることが出来るのならそれも一興だろう。
アヴェイラは少し思案気に宙を見つめると、困ったように返す。
「反目し合っている訳ではないようですから、ギリギリまでは救おうとするのではないかと。ただ、フェリスがどう動くかは解りません。ジェストと仲が良い所為か、侯爵家を侮っている節がありますので」
「別に侮られようとそこはどうでも良い、今回の場合は本人が困るだけだ。そうなると……訴えに来たハーシェル夫妻と、フェリス・クロゥレンの身柄をすぐに確保する必要があるな。状況が確定する前にフェリス・クロゥレンが彼らを殺した場合は、調査の意味が無くなる」
貴族は無礼があったのなら平民を処断しても構わない。ただそれとは別に、裁きの場において貴族側に咎があると判明したのなら、法に則った罰を受けなければならない。貴族は強大な権力を持つが絶対的なものではなく、法がともすれば野放図になる彼らを戒めるものだ、ということのようだ。
平民が貴族に打ち勝てるのは、相手が法を犯していて、かつ自分の命があること。そして、法を味方に出来た時だけだ。条件が揃うことは滅多に無い。
状況が解っているのか、アヴェイラは強い眼差しでこちらを見据える。
「フェリスの所には私に行かせてくださいませんか? 大した男ではありませんが、一応貴族に名を連ねる者ですし、多少の強度はあるはずです。練度の低い人間を向かわせることは危険です」
まあ、領地の間を行き来する程度の腕はあるからこそ、家を出たのではあろう。そういう意味では、アヴェイラの懸念は理解出来る。しかし、今回はそれを認める訳にもいかない。
「確かにお前が行った方が安全ではあろうが、今回はハーシェル家に向かってくれ。彼を害そうというのなら、貴族が平民に襲い掛かり司法の進行を妨げたという事実が必要になるが、まだそんな事実は確認出来ていない。相手も貴族である以上、ある程度の段取りはしなければならんのだ。それに、フェリスがハーシェル夫妻を殺すことを防ぐ方が、強度を求められるからな」
アヴェイラをぶつけて相手を拘束出来るなら、最初からそうしている。煩わしいのは確かでも、今はその選択肢しか選びようが無い。
妹が露骨に不満そうな表情を見せることに、俺は苦笑する。近衛への道が決まったというのに、こうした稚気が未だに収まっていない。これがアヴェイラの急所となるとしても、その頃に彼女は領地にいないだろう。
諫めたところで理解はされないし、利点は無いということだ。代わりに俺は、からかい半分で問いかける。
「大した男でないのなら、そうも拘る必要は無い。そうじゃないか?」
唇を尖らせるも、彼女からの答えは無かった。執着の根がどこにあるのかは知らないし興味も無いにせよ、アヴェイラに目をつけられた彼も気の毒なものだ。
どうせなら、せめて美味しくいただかれてくれと、俺は内心でせせら笑った。
今回はここまで。
オクトラにかまけて遅れそうになるという……。
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