厄介事の気配
あの後多少雑談をしたところ、フェリスは研磨の修業があるため、まだ暫くは領内に滞在するつもりだと言った。ならば彼がこの地を離れる前に、多少なりとも恩返しをする必要があるだろう。
簡単に身に付く技術ではなくとも、最低限でも形になったところを示したい。
まず帰宅してすぐに、訓練する土地の選定にかかった。訓練中はとにかく騒音が出るだろうから、民家や店から離れた場所が望ましい。かつ、僕が夜間に家を抜け出して、余裕を持って往復が出来る場所。
そんな都合の良い場所があるだろうか?
あまり期待せずに侯爵家所有の土地の一覧を眺める。二時間ほど図面を眺めていると、丁度僕の希望を満たしそうな場所を発見した。本宅から北に進んだ山の中にある、十年ほど前に利用されていた坑道。目ぼしい物はあらかた掘り尽くしたため、今はただ放置されているようだ。
魔獣が巣穴にしている可能性はあるが……実戦と思えばそれもまた良し、か。いずれにせよ、行ってみなければ解るまい。往復の時間を知るためにも、まずは現地を確認する必要がある。
そうと決めれば行動だ。
弓と短剣を装備し、窓から外へと飛び出す。着地と同時、周囲に誰かいないか素早く見回す。肉眼による横の視野と『俯瞰』による縦の視野を併用しても、気配は感じられない。ならばと足裏に風術を込め、塀を飛び越える。
――夜は僕の時間だ。
誰しもが眠りにつき、誰しもが僕を見ない。
一人きりの自由の中で、ようやく普通の呼吸を手に入れる。
ああ、喉が通る。肺が膨らむ。涼やかな夜気が体内に満ち、淀んだ空気が入れ替わる。本当の自分だなんて、青臭いことを言いたくもなる。
自分の無力を知っている。なのに、何でも出来そうな気持ちになる。
一歩踏み込むごとに、耳元で風が唸る。思考が明快になっていき、つまらない雑事が頭から抜けていく。
これが解放感か。
力を込めて斜めに飛び跳ね、次の足場を求める。目線の先に小型の魔獣が二体、着地の邪魔になりそうだ。空中で矢を構え、連射した。普段ならば外れるので絶対にやらないが、根拠もなく成功すると確信した。
結果、頭頂部を綺麗に射貫くことが出来た。やはり今日は冴えている。
「ふむ、ラグゥか……あまりよろしくないな」
横たわった獲物の頭を割り、矢を取り外す。コイツ等は木を齧るので、増えると厄介なのだよなあ。何処かに巣でもあるのだろうか。
食用としては人気があるし、狩れば土産としては喜ばれるだろうが、当然ながら外出がばれる。残念ながら、持ち帰る訳にはいかないだろう。
「勿体無いけど、焼くか……」
「――では、私がいただいてもよろしいですか?」
右後ろからの呼びかけ。不意の声に硬直したまま、咄嗟に『俯瞰』で相手を確認する。そして自分では対応出来ないと、諦めて構えを解いた。
「いつから追いかけていたんです?」
折角の夜が台無しだ。どうしても問いかけに落胆が混じってしまう。振り向けば、ファラ様が僕を見て苦笑を浮かべていた。
「ジェスト様が塀を跳び越えた時からです」
「誰もいないと思いましたが」
「塀の影にいましたからね」
言われて、首を傾げる。影も何も『俯瞰』には通用しない。上から見ているのだから、遮蔽物の裏にいようと意味は無い。しかし少し考えて解った。
僕は家を出る時、敷地内の確認しかしていなかった。警邏の時間ではないと、甘く見たのが悪かったのだ。
「門の外にいたんですか」
「ええ、体を動かしたいと思いまして。少し散歩をしておりました」
そしたら折悪く、僕が抜け出すところだったので、追いかけてきたと。
溜息をつく。真夜中にこそこそと家を飛び出す人間など、どう考えたって怪しいに決まっている。自分で招いた不手際だったな。
「……確かに、この領ではファラ様の腕を錆びつかせるばかりでしょうね」
「平和であることを嘆かれる必要はありません。ところで……こんな真夜中にどうされましたか?」
どう誤魔化すか一瞬悩み、今更取り繕うのは無理だと判断する。まあ、格好悪いだけで口に出来ないほどのことでもない。
「魔術の実験をしようと思ったんですよ。ただ、試してみようにも、実験中に何が起こるか解りませんからね。他人に迷惑がかからない場所を探していました」
「ふむ? 危険は無いのですか?」
「多少はあるでしょうね。何も無ければ僕だってこんな時間に抜け出しません」
具体的なことはなるべく伏せる。特に、フェリスの手札を晒す形になることは絶対に避けなければならない。
少しの沈黙を経て、ファラ様は僕に小瓶を投げ渡した。
「これは?」
「私の秘薬です。外傷には良く効きます。代わりに、私はそちらの獲物をもらいましょう」
ファラ様は貴族でなくとも要人ではあるため、自分の秘薬を持っていてもおかしくはない。侯爵領から王都に直行する分には危険も無いし、あったとしても彼女の技量であれば対応は出来る。だから秘薬を手放しても惜しくはない……というのは解る。
ただし。
「値段が釣り合いませんよ」
各自の家や所属で効能は違うにせよ、何であれ秘薬はそれなりに値が張る。ラグゥで換算するなら十倍は必要だ。
意図を読みかねて、僕は手汗を握り締める。しかし、ファラ様はどうでも良さそうに声を漏らす。
「構いません。近衛の支給品ですし、まだ在庫はあります。それに、私なら獲物を持ち込んでも、あれこれ言われることもないでしょう?」
問いかけに僕は頷く。
武人を賓客として招いている以上、その人が魔獣を狩って来たからといって文句を言うのもおかしな話だ。結果としてそれが糧になるのなら、奪った命を無駄にすることもない。
「ファラ様が良いのなら、僕に是非はありません」
「ええ、どうぞお持ちください。……私にはジェスト様を止める権利はありませんが、危険に対する備えを渡すくらいは、許されるかと思いますので」
何故僕をそんなに気にかけるのかと尋ねようとして――それが他意の無い、割とありふれた心配なのだと気付いた。危険がありますと言った相手に、傷薬を渡しただけのことだ。
きっと、裏を読む必要は無い。
ならば、素直に感謝するのが正しいのだろう。
「ありがとうございます」
「いいえ、私は戻ります。どうぞお気を付けて」
言い終えた直後、ファラ様は突風と共に姿を消した。噂に聞く『瞬身』だろう。
ようやく一人になって僕は大きく深呼吸をする。ファラ様に対する苦手意識が、少し減った気がした。
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そろそろ丁度良い時間だろうか。サームさんの店を前に、唾液を飲み込む。自分で望んだことではあるが、先達に教えを乞うというのはやはり緊張がある。
「ごめんください」
入り口から覗いた限りでは誰もいない。奥で作業中だろうか?
中に入ると、棚に陳列された包丁や短刀が目に入る。ここは鍛冶屋ではないが、日用品であれば刃物の取り扱いもあるらしい。並んでいる物を確認した限りでは、正直、突出したものは感じない。ただ、どれも一定以上の水準を保っており、駄作は一つとして存在しない。
佳品といったところか。
一本を手に取り、刃の角度を眺める。普段使いならば上等過ぎる出来栄えだ。武具を主としていたアキムさんとは、得意分野が違うのかもしれない。
まあ、自分の傑作を表には出さない人もいるし、サームさんの腕を判断するには情報が不足している。それに、伯爵家の発注に応えられるかどうかは、俺が決めることではない。
最近他家のことに関わり過ぎなので、ある程度線引きをしなければならないと感じている。
貴族として生きるつもりは無いのに、どうにも巡り合わせというのか、人様のことに首を突っ込んでしまう。成すべきことはそこではないのだ。ジェストの件はどうにかするとして、それが済んだら暫く貴族とは距離を置こう。そうしよう。
しかし、誰も来ないな。
「ごめんくださーい!」
奥に向かってもう一度呼びかける。耳を澄ますと、微かに足音が聞こえてきた。足取りに重さが無い――奥さんだろうか。
果たして、出て来たのは妙齢の女性だった。整った顔立ちではあるものの、表情に隠しきれない疲れが見える。
「すみません、本日サームさんと約束をしておりました、フェリス・クロゥレンと申します」
特に普段と変わらない、当たり前の挨拶をしたつもりだった。しかし、奥さんと思われる女性は、酷く不快げに顔を歪めた。
一瞬で脳が理解する。これはまた何かロクでもないことが起きる流れか。
内心舌打ちをしつつ、笑顔を崩さないよう心掛ける。
「ああ……お義父様の仕事を受けた方ですか」
俺を頭から爪先まで見下ろして、わざとらしく溜息をつく。接客としては下の下。武闘派の貴族なら武器を抜いている頃だ。何故最近こんなのばかりなのだろう。
別に俺は、民間人を殺すために職人になった訳ではない筈なのだが。
眉を跳ね上げ、彼女は忌々しさを隠そうともせずに問うてくる。
「まだ子供じゃない。うちの人から幾らもらったの?」
とんでも発言で、思考に隙間が生まれる。
……ふむ。殺るか?
いや、まだ早いか。
アヴェイラの相手が続いたからか、思考が短絡的になっている気がする。一度思考を切り替えなければ。
「失礼ですが、どなたですか?」
「サームの妻よ。君、質問に答えなさい。うちから幾ら取ったの?」
おお、質問が変わった。あまりの展開に、逆に面白くなってくる。
コイツ、とんでもねえ危険物だ。
俺の中の境界線をあっさり踏み越えられた所為で、笑ってしまいそうになる。取り敢えず、俺の回答は一つだ。
「そちらについては、妻であるならサームさんからお聞きください。部外者に契約内容を話す理由がありません」
この国において、名前は身元を証明するものの一つだ。その土地の領主に名前で問い合わせれば、該当者が何者なのかある程度は解る。事前確認が出来ない点が弱いが、取り敢えず現場はそれで回っている。
つまり、名乗りもしないうちは身元の開示を拒んでいるということで、目の前の相手は妻を自称する誰かでしかない。
まあ十中八九、彼女がサームさんの妻であることは間違い無いのだろう。ただそれでも、組合を通して交わした正規の契約なのだから、彼女に何を翻せるものでもない。
何故サームさんは、この人と関係を続けているのだろうか。疑問を抱きつつも、相手の反応を窺う。
俺の言葉に、相手は歯を剝き出しにして喚いた。
「部外者とはどういうことよ! 私はサームの妻なんだから、家計のことを知らなくちゃいけないの!」
「いや、ですから、そうであるならサームさんから聞いてください。そうでなければ正規の手順に従って、組合に契約の内容を照会してください。こちらはサームさんとの契約を履行しに来ているのですから、取次をお願いします」
多分通じないとは知りつつも、我ながら恐るべき理性を発揮して、淡々と正論を述べた。
案の定、彼女の眦が吊り上がって、こちらに噛みついてくる。
「駄目よ、あの人はいないし、いても君みたいな詐欺師には会わせないわ。今なら黙っててあげるから、素直に金額を白状して、全部返しなさい! そうでないなら、侯爵家に訴え出ます!」
「んぐふっ」
我慢し続けていたものが抑えきれなくて、噴き出してしまう。いかん、腹を抱えて笑いそうだ。
口元を隠して笑みを嚙み殺す俺をどう捉えたのか、彼女は何故か勝ち誇ったように笑う。
「貴方だってバレたら都合が悪いんでしょう? いいから私に任せておきなさい」
何も都合が悪いことなど無い。侯爵家に訴え出た時点で、少なくともこの女性は終わりだ。下手をすればサームさんも終わりだが、そこはまあ俺の説明次第でどうにかなる範疇だろう。
痙攣になりそうな笑いの波を乗り越え、俺は目尻に浮かんだ涙を拭い、ようやく吐き出す。
「いや、こちらの答えは変わりませんよ。金額は言いません。サームさんへの取次が出来ないということであれば、組合を通して契約を履行してもらうだけです」
こうなるとは思わなかったので、契約書を交わしていなかったことが悔やまれる。場合によっては、フィッツさんに第三者として証明をしてもらう必要があるな。
組合を通すことでサームさんの立場は悪くなってしまうが、この場合は致し方あるまい。ある程度の強制力を用いなければ、話が進まないと判断した。
勿論、この人が本当に侯爵家に訴え出るのなら、それはそれで構わない。その場合、俺はサームさんのみの助命を願うだけだ。
暫く俺達は睨み合ったが、最終的には彼女が叫びを上げることでそれも終結した。
「帰って、帰りなさい! 本当に訴えるからね!」
「どうぞ」
他に言うべきことは無い。
俺は背を向けて素直に店を辞す。物でも投げつけられるかと思いきや、それは無かった。
いやはや……現金が無いという話は聞いてはいたものの、貧すれば鈍するという奴か、それとも彼女の本質的なものか。
思わぬ展開で変に感情が昂ってしまったが、ある程度手を回さないと伯爵家に迷惑がかかるな。ジェストだけでなく、ハーシェル家についてもどうにかしなければならないらしい。
「はあ、何だろうなこれは」
やることが多すぎる。流石に気が重くなってきていた。
今回はここまで。
体調崩してちと進みが鈍かった。
ご覧いただき、ありがとうございました。
2/23 追記
矛盾点があったので前後を多少修正。