次なる地へ
やれることがあれば、やれないこともある。魔術師としての腕を誇りこそすれど、それはあくまで敵を滅ぼすための力であって、人を癒す力ではない。
フェリスの指示に従って、シャロット医師に協力をしたものの、アキム師の治療の成果は芳しくなかった。刃物から身を庇って滅多刺しにされた腕が、元の状態には戻らなかったのだ。
傷口は塞がり出血も止まったが、普段通りの生活をするだけでも、本人の弛まぬ努力が必要となるだろう。
研ぎ師としての今後は、絶望的と言える。
「私にもっと、技術があれば」
呟く横顔には、どうしようもない悔いが覗いている。私が見る限りでは、悲嘆するほど腕が悪い訳ではない。ただ、状況を引っ繰り返せるだけの才も能力も、今の彼女には無かった。
「シャロット先生、貴女は最善を尽くした。これ以上もこれ以下も無い。ならば、この経験を糧にするしかないでしょう」
「ええ、そうですね」
噛み締めた唇から血を滴らせつつ、彼女ははっきりと返答した。激しい怒りと悔しさ――心は折れていないようだ。ならば、彼女はこれからもっと成長するだろう。
救えなかった人間の数が、医者を形作る。かつて母がそう言っていたことを思い出した。
「シャロット先生、もし貴女が望むなら、子爵領で医術を学ぶ機会を与えられます。私の母に師事してみませんか? 無論、貴女にその気があればという話ですが」
「ミルカ様の母上と言いますと……『天医』ミスラ・クロゥレン様ですか?」
ああ、そう言えばそんな仰々しい称号だったか。
本人は熱心な医者という訳ではないのだが、とにかく腕は良い。それに、子供が全員成人したために暇を持て余しているようなので、後進の育成くらいやってくれるだろう。
「先生も自分の仕事があるでしょうから、時間のある時にでもいかがですか? 行き来は大変かとは思いますが、得るものは多いかと」
「教えを乞えるのであれば望外の喜びではありますが、何故私にそのような機会を? 人を救うには、私はあまりに未熟で無才です。子爵家の方に目をかけられるだけのものは持っていません」
「理由は二つ。私が貴女を気に入った。そして、フェリスが貴女を認めている。技術なんてものは、今後解決していくべき課題でしょう」
「……そうだな、自分の腕が悪いと思ったんなら、学んでいけばいいさ。それで、俺の体をもっと良くしてくれよ」
突然の声で、首を横へ向ける。先程まで眠っていたアキム師が、うっすらと目を開いてこちらを眺めていた。その顔には、隠しきれない苦痛が浮かんでいる。
「起こしてしまいましたか。アキムさん、無理をしてはいけません。今は休んでください」
「いや、いい。痛えから、暫くは眠れん気がする」
薬と魔術で誤魔化していた意識が戻れば、当然体の痛みを知覚してしまう。しかし、顔を顰めてはいても、アキム師は冷静だった。
はだけた胸に手を当て、軽く風を流す。汗で湿り、火照った体を少しだけ冷ましてやった。
「ああ、涼しいなあ。いい気分だ」
言葉通り心地良さそうに目を細めるアキム師を眺めながら、彼がどれだけ自分の状態について自覚しているのかを考える。職人としての道がほぼ断たれたことは、説明しなければならない。でも、それは容態が安定してからにすべきだろう。
シャロット先生を盗み見る。彼女は表情の抜け落ちた顔で、微かに首を横に振った。やはり私と同意見で、時期を改めた方が良い、という判断か。
アキム師は、そんな私たちを仰ぎ見て、淡々と口を開いた。
「……隠さなくたっていいから、教えてくれよ。さっきの話からすると、俺はだいぶ悪いんだろう?」
話を一部でも聞かれていた以上、その事実には思い至って当然だ。やがて誤魔化しきれないと感じたか、シャロット先生は絞り出すようにアキム師へ告げた。
「腕の傷が深すぎて、私の力では完治させられませんでした。研ぎ師としての仕事以前に、日常生活を一人でこなせるようになるだけでも、かなりの時間が必要です」
「そうか……」
それきり、二人は黙り込んでしまった。お互いに、目は逸らさなかった。
暫くして、アキム師はふっと息を抜いて天井を仰いだ。
「命があっただけでも、良しとすべきなんだろうな。……すまんが、少し一人にしてくれないか。考える時間が欲しい」
「解りました。何かあったら呼んでください。私達は隣にいますから」
「おう、悪いな」
部屋を出て、後ろ手に扉を閉める。窓の外は日が暮れようとしていた。
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伯爵領、最終日。包丁の出来を良くしたり、辛山に食事にしに行ったりとほどほどの日々を過ごしたものの、結局、あれからアキムさんとの面談は叶わないまま、その日を迎えることになった。
世話になった者として、依頼を受けた職人として、最後にもう一度会いたかった。弟子を殺した人間が合わせる顔は無かっただろうが、それでもけじめとして、俺はアキムさんと会うべきだと思っていた。しかし、研ぎ師としての道を半ば断たれた今、彼は精神的に不安定らしく、シャロットさんが会うべきではないという判断を下した。
また俺は、彼に対して悔いを残すこととなる。せめて今後の旅の途中で、何か傷を癒す術を見つけられたのなら、それを伝えることをしなければと頭に刻んだ。
出発に際しては、ミル姉とバスチャーさんが見送りに来てくれた。行先は隣のレイドルク侯爵領。大角の件について侯爵が話を聞きたいらしく、呼び出されたビックス様が一緒に来てくれることとなった。合同演習については全てが終わった訳ではないものの、大角さえいなければ大した脅威は無い。守備隊長が抜けた穴はミル姉が対処するということで、話が決まったらしい。なので彼の準備が出来次第、こちらも合わせて出発となる。
俺が口を出すようなことは、もう無いだろう。
「わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」
「気にすんなよ、こっちこそお前には世話になったしな」
バスチャーさんがいつもと変わらない笑みを見せる。包丁を変えてから、仕事が楽になったと彼は言ってくれた。ありがたい話だ。
俺達は握手を交わして、頷き合う。
「アキムのことはこっちでも気にしておくよ」
「お願いします。後は依頼されてた包丁なんですけど……」
俺は剥き身のままの包丁を取り出し、バスチャーさんに見せる。
「依頼の通りに作ってはあります。ただ、本人と途中で打ち合わせが出来なかったので、調整が済んでいません」
「それについてなんだが……隣の侯爵領にアキムの息子がいる。息子も研ぎ師でな、ソイツに仕上げを任せちゃくれないか。終わった後の引き渡しも、そっちにやらせるから」
急に息子の話が出て来たため、詳細を求める。
よくよく考えれば当たり前の話なのだが、父親の進退に関わる話なので、隣領の息子にはすぐに知らせをやったらしい。その中で俺が依頼を受けていた包丁が行き場を失っていることを知り、ならば自分が仕上げると手を挙げてくれたそうだ。加えて、今抱えている仕事が終わればこちらでアキムさんの後を継ぎ、今度は伯爵家の仕事を処理するとのこと。
聞いた感じから察するに、俺の包丁は彼の技量を示すための試験となるのだろう。
親の金銭問題の責任を取るというだけでも、後継者の資格はあると思うが……まあ余所の家庭の在り方を問うても仕方が無い。腕があった方が工房の維持がしやすいというのも事実だ。どういう形になるにせよ、息子が戻って来られるのであれば、それは幸いなことだと俺は思う。
「しかし、そうなると金も息子さんからですか? 知っての通り、最低二十万としか決めてませんよ?」
「そうか、その問題があったなあ」
すると、黙って話を聞いていたミル姉が口を挟んだ。
「じゃあそうね、アキム師の見舞金代わりに、私が二十万出すのはどう? 大角の依頼料も払ってないし、併せて四十万」
金がもらえるなら、俺に文句は無い。しかし狩りの手伝いはさておき、包丁についてはミル姉が出す筋合いが無い気はする。俺は眉を顰めてミル姉に問う。
「……何が条件だ?」
「条件というほどのことではないけどね。私が最低価格は保証するから、貴方はアキム師の息子の言い値で売りなさい。そして、その値段を伯爵家に報告する。アキム師の後を継ぐのなら、伯爵家の仕事を今後請け負う可能性が高いでしょうからねえ」
「まあ俺はいいけど……」
バスチャーさんが俺の仕事に三十万を出してなお安いと評したことを、この場にいる面子は知っている。とはいえ、今回は刀身については敢えて甘く作ってあるので、俺が提示した二十万前後が妥当な金額になるだろう。
だから、理由も無くそれを下回る金額を提示した時点で、彼は技術を見る目を疑われる。
部外者であるミル姉が、さり気に一番恐ろしい試験をぶち込んできたな……。
意味を理解したバスチャーさんも、軽く引いている。
「いやはや、貴族家の当主ともなると、考えることが違いますな」
「モノの価値が解る人であることを期待しよう……」
親の仕事を理解していれば、下手は打つまい。機会を活かせなければそれまでだ。
ミル姉の陰謀はさておき、俺はバスチャーさんから息子の店の場所を聞き出した。職人としてはそこそこ名が売れているそうなので、解らなくなったらその辺の人に聞けば大丈夫とのことだ。
隣領でやるべきことは、その店に行くことと、侯爵家に挨拶に行くくらいか。長期の滞在にはならないな。
そんなことを考えていると、ミル姉がふと疑問を口にする。
「フェリス、侯爵家への手土産はどうするの? 下位貴族は上位貴族の領地に入ったら、先方へ顔を出しに行かなきゃならないけど」
「ん? 元々あそこの次男は友人だし、挨拶には行く予定だったけど……土産って普通は何持って行くんだ?」
「大体は自分の領の特産か、相手の領地では入手しにくいもの、って所かしら。まあ親しい間柄の人間がいるなら、とやかく言われることは無いと思うけど」
なら道中でちょっとした細工物でも作るか。書簡でのやり取りを続けていたとは言え、実際に会うのは七年ぶりだ。通例に対して職人仕事で応えるのも良いだろう。
うん、大体の流れは出来たかな。
屋敷の方の気配からして、ビックス様も準備がそろそろ終わりそうだ。
「じゃあ、バスチャーさん。包丁は息子さんにお渡しするので、祈りましょう」
「おう……」
「ははは。またお会い出来る日を楽しみにしています」
「そうだな。こっちに来たら、また店に来い。良い物を食わしてやるから」
「ええ、その時は是非。ミル姉も、演習で苦労することは無いだろうけど、まあ頑張って」
ミル姉は腕を組んだまま、唇を軽く持ち上げた。
「そっちこそ、侯爵家に失礼の無いようにね」
「ああ、出来る限りのことはするよ」
友人の双子の妹とは頗る相性が悪いので、確たることは言えない。ただ、敢えて口にするようなことでもないだろう。
さて。
体をぐっと伸ばす。ビックス様がこちらへ向かって来るのが見えた。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「気を付けてな」
またここに来る時は、この二人にもアキムさんにも、良い報告が出来ますように。
目を細めて空を見上げれば、雲一つ無い晴天。旅立つには良い日だ。
さらば伯爵領。お世話になりました。
これにて本章は終了。
それでは皆様、良いお年を。