疑
待合室に入ると、ビックス様は何故か険しい表情で天井を見詰めていた。しかしこちらの顔を見た途端、気が抜けたように雰囲気が和らぎ、嬉しそうに立ち上がって俺を歓迎し始める。
……まさかとは思うが、シャロット先生が若い男を連れ込んだ、という通報でもあったのだろうか。決して目を合わせようとしない受付の女性が、どんな表情をしているのか非常に気にかかる。
「お久し振りです、ご無沙汰しております」
「ああ、フェリス殿! 来ていたなら、門兵に声をかけてくだされば良かったのに!」
「彼等も忙しそうだったので、こちらでお断りしたんですよ。お元気でしたか?」
自分から聞いておいてなんだが、まあ元気ではあるのだろう。
現場仕事が続いているのか、それとも鍛錬の成果か、ビックス様は筋量が増して体が一回り大きくなっていた。顔もすっかり日に焼けて、逞しさに拍車をかけている。顔色も良いし、不調の欠片も感じない。
どう評すべきか……取り敢えず、人としての重厚感が増したな。体幹も安定して、明らかに強くなっている。
話が長引きそうだと感じたのか、受付嬢は入口の扉を閉め、一礼して部屋を出て行った。
「いやあ、あれから全体的に農場を広げることになりましてね。忙しくはありますが、どうにかやってますよ。フェリス殿は如何です?」
「あー……そうですね。色々と他国を飛び回っておりました。工国にも教国にも行きましたねえ。得るものはありましたが、移動が多くて正直疲れましたよ」
「他国ですか。いやあ、私は行っても中央までなので、羨ましくもありますな。仕事の都合さえつけば、という希望はあるのですが」
話を適当に合わせようという訳ではなく、ビックス様は本気で言っているようだ。嘘の無い素直な態度だった所為か、精霊二人も少し感心したような空気を感じた。
相手の性格が曲がっておらず、今も親しげに接してくれたことに、俺は内心で安堵する。
「ああ、どうぞこちらに掛けてください。すまんシャロット、お茶を頼めるか?」
「ッ、大変失礼しました。すぐ用意します」
「いやいや、そんな畏まらずに。ビックス様は、シャロット先生に用があったのでしょう?」
「それはそうですが、フェリス殿は当家にとって大事なお客様ですからね。因みに、今晩はお手隙ですか? もしお時間があるようでしたら、ご一緒に食事でもどうです?」
一瞬シャロット先生へ視線を投げると、彼女はお茶の準備にかこつけて顔を逸らした。
そうだよな、邪魔だよな。流石に俺もこれくらいの空気は読める。
シャロット先生の本音はさておき、伯爵邸ともなれば、バルガス様と顔を合わせる可能性もあるだろう。別に嫌いな人ではないが、上位貴族との会話は気詰まりするので、こちらとしても正直気乗りはしない。
「急にお邪魔してもご迷惑になりますので、今回は遠慮させていただきます。ただ、別件で折り入って相談したいことがございまして」
「おや、どういったお話です?」
俺がミズガル領への移住を希望する人間がいる旨を話すと、ビックス様は破顔して両腕を広げた。
「以前に紹介していただいたギドとエレアも、今やミズガル領にとって欠かせない人材です。新たな労働者は大歓迎ですよ」
「そう言っていただけると、こちらも嬉しく思います。今回紹介する者はジャークという男なんですが、元は工国との国境沿いに配置されていた軍人でして。……ビックス様ならご存知でしょうが、国境沿いが汚染されたことに伴い、王国へ避難してきたのです」
「……ああ、あそこですか。最近になって、ようやく浄化が終わったとは聞いております。しかし元軍人となると、相当強度が高いのでは? 害獣駆除についてはクロゥレン領の協力もあって、大分状況も改善されておりますので……活躍の場はあまり無いかもしれませんよ?」
……ああ、ビックス様は本当に良い領主になりつつあるのだなあ。
相手は申し訳なさそうに言葉を濁すが、それ自体は別に悪い話ではない。彼等を荒事から遠ざけてやりたくて俺はこの街を勧めたのだから、平和はむしろ望むところだ。
「本人は肉体労働を希望しているので、先程お話のあった農場は如何です? 夫婦二人が安定して暮らしていけるだけの収入を得られるなら、私からはあれこれ望むつもりはありません」
「農場は人手が足りていないので、働けば働くほど稼げる状態ではあります。ただ、慣れていないとかなりきついとは思いますね」
「体力的な問題であればどうにでもなりますよ。後は本人達次第です」
今はアレンドラの体調が落ち着いていないだけで、出産前後の期間さえ凌げれば、恐らく生活は安定する。本人が嫌がるだろうと敢えて勧めなかったが、彼女なら自身の肩書を利用し、食客として収入を得るという道も一応あったくらいだ。世界十位の魔術師という逸材は、上位貴族の多くが欲しがるだけの価値がある。
……ああ、そういえばアレンドラについて説明をしていなかったな。今のうちに話しておかないと、後で問題になるか。
「因みに……お相手の女性はアレンドラ・ズ・キセインという者でして。魔術師としては有名なのですが、ご存知ですかね」
「聞き覚えはありますね。はて、何で知ったのだったか……」
「順位表に名があるので、それが理由でしょう」
事実を聞いて、ビックス様の動きが固まる。そして、まさにその頃合いでお茶が横合いから差し出された。顔を上げれば、シャロット先生が中腰のまま僅かに眉を顰めている。
俺を見る目に、隠し切れない不審感が浮かんでいる。守備隊に続き、更なる戦力を他者の領地に送り込んでどうするつもりか――こんな表情も当たり前だよな。
「あの、フェリスさんは、それだけの人材を何故ミズガル領へ斡旋しようと言うのです? クロゥレン領の方が、余程相応しいのでは?」
「他意はありませんよ。本人達の希望に合った土地、ということでこちらを紹介しただけです。魔術師としての業は残っていても、アレンドラはもうかつてのように戦えませんしね」
「戦えない……? それは何故です」
「彼女は身内に嵌められ、目を薬で焼かれています。探知を使えばある程度は普通に動けますが、盲人になってから日が浅いので、普通の生活がそもそも難しいんですよ。苦労してきた人間なので、私としてはせめて今後を穏やかに過ごしてほしいのです」
あの二人と暮らしていると、色々考えてしまう。
責任とは、どこまで背負うべきものなのだろう。
祭壇が崩壊しかかった理由はアレンドラにあるとしても、事態は既に解決したし、報いは充分に受けたのではないか。日の当たらない冷たい洞穴にいつまでも押し込めてくことが、果たして相応しい在り方なのか。そして、これから生まれてくる子供にも、それを強制するのか。
被害から鑑みて、司法であれば恐らく死罪相当――翻って俺個人としては、もう幸せになっても良いのではないかと思う。
「シャロット先生の懸念はご尤もでしょう。ただ私は、彼等に争いから離れてほしくてミズガル領を勧めました。領地を荒らすつもりはないので、信じてくださいと言うよりありません」
「……フェリスさんから見て、彼女の人柄はどうなのです?」
「彼女自身は善良で、人のために尽力出来る人間ですよ。ただ、世間的には年若い女性が有能だと、疎まれることも多いでしょう? そういう苦労は、シャロット先生ならご存知なのではありませんか?」
医者であり、貴族の妻になろうという貴女なら、共感出来るのでは。
苦い記憶でも蘇ったのか、シャロット先生から一瞬表情が消えた。
「そうですね……色々お尋ねしましたが、私に拒否するだけの権限はありませんので、来院されるのであれば受け入れるだけです。目の治療についても、望まれるのであれば全力で取り組みましょう。ただですね、相手が盲人だとか、そういう重要な話は最初にあっても良かったのではありませんか?」
「いや、私もその辺を説明していなかったなと気付きまして。大変失礼しました」
ううん、後で揉めるよりはと思っての説明だったが、予想より重く捉えられてしまった。
確かにミズガル領には、何か問題が起きた時に対応出来るだけの強者がいない。自分にとって脅威ではないからと、二人の戦力について軽く考えていたのが悪かったな。
平謝りしていると、この辺りでビックス様は頭の整理が終わったらしく、ようやく我に返った。
「フェリス殿! その、アレンドラ殿は……当家で面倒を見た方が良いのですか?」
「いえ、そこまでは望んではいませんよ。少なくとも、アレンドラはミズガル家へ返せるだけの何かを持っていません。あくまで仕事を紹介してほしいのはジャークです。夫婦で互いに支え合って生きていくことを、私は期待しています」
「我々は彼女を放置すべきだと?」
放置と言われると少し違うな……落ち着かないのは解ったが、何故そう極端に走るのか。
「私が話を持ち掛けたからといって、変に義理立てする必要はありませんよ? 特別扱いせず、領民と同じように接していただければ充分です」
「なら、素直にそうさせていただきます。いずれ労働力が欲しいのは事実ですし、フェリス殿の推薦とあれば信じましょう」
そうそう。難しく考えず、普通にしてもらえればそれが一番だ。
ビックス様の結論が出たことで、シャロット先生も肩の力を抜いて席に着いた。
整理すべき問題に区切りがつき、俺が気楽な雑談へ戻ろうとすると、ビックス様は不意に表情を引き締める。
「フェリス殿。恐縮ですが、こちらも相談したい案件があります」
「おや、どうされました?」
「隣のレイドルク領に関するお話です。侯爵領を周囲の貴族へ分割譲渡する件について、聞いておられますか?」
いや、全く知らない。初耳だ。
シャロット先生も聞いていなかったようで、俺達は二人とも居住まいを正す。
頑張って移住の話を進めてきたのに、面倒事は勘弁してほしい。果たして何が起きたのか――俺は茶で唇を湿らせ、続く言葉を待った。
今回はここまで。
ご覧いただきありがとうございました。