寿
今回から新章です。
酒が抜けた瞬間、『健康』が焼き切れそうな勢いで回っていることに気が付いた。
蓄積した疲労を無視して動き続けた体が、どうやら限界を迎えようとしている。本能がこれ以上頑張るなと言っている。
何だか、考えるのが酷く億劫だ。明確にどこが悪いという訳でもないが、全てが煩わしかった。
少しゆっくりしたい。
俺があれこれ口を出さずとも、家のことならミル姉が巧くやってくれる筈だ。コアンドロ氏の処遇等、王家と交渉すべきことは伝えてある。だから敢えて誰にも行き先を告げず、逃げるように中央を飛び出した。
ヴィヌスに乗って、雲一つ無い空へ一気に舞い上がる。
もう街は遥か足元で小さくなっている。久々の自由に、ヴィヌスが快哉を上げた。
「ウオオォォォオオオ!!」
「あああああああ!!」
空気が振動し、痺れにも似た感覚が全身を包む。冷たい風を浴びながら、俺も大声を上げて応じると、少しすっきりした。
ただ騒ぎたい――たまにはそんな気分の時もある。
そうして思いのままに空を飛び吠え猛り、喉が疲れた辺りで特区に到着した。
「さて……ヴィヌス、好きにしてて良いぞ。ああ、あっちの方は一応行かないようにしてくれ」
居住区は避けるようにお願いすると、ヴィヌスは頷いてから尻尾を振り回し、木陰に隠れていた獣を薙ぎ倒した。俺は気絶している獲物に対し、反射的に石弾を撃ち込む。
まともに見もしないで仕留めてしまった。鹿のような姿……普通の大きさの『大角』か?
食いではありそうだし、まあ手土産が出来たと考えよう。これだけあれば三日は肉に困らない。頭や内臓はヴィヌスに与え、残りは当分の食料として持ち込むことにした。
アイツ等は元気でやっているだろうか?
半身を引き摺りながら歩いていると、樹上に知った気配――当のジャークが迎えのため、わざわざやって来たようだ。俺は足を止め、肉を脇に寄せてから相手へ向き直る。
何かあったのか、心做しか相手の顔色は悪く見えた。
「よう、久し振り」
「うん、久し振り。これはまた……随分でかいのを仕留めたねえ」
「余るようならヴィヌスが食うよ。取り敢えず好きに使ってくれ」
「ありがとう。折角だし、今日の晩はちょっと豪勢にしようか」
聞けば居住区と取引をして、ジャークは少ないながらも調味料を仕入れるようになったらしい。塩と香辛料があるだけでも、食料事情はだいぶ変わる。街に比べれば質素だが、それなりに巧くやっているようだ。
……しかし、今までアレンドラに付きっ切りだったジャークが、遠出をするようになるとは意外だな。症状が安定して、留守番くらいは任せるようになったか?
「美味い飯は歓迎だが……アレンドラはどうしてるんだ? 目は治ってないだろ?」
「症状は変わってないよ。ただ精霊様が言うには、どうも妊娠したみたいでねえ。体調を崩さないように、栄養のある物を食べさせろって言われたんだ。最近はずっと拠点と狩り場の往復だよ」
ああ、だから顔色が悪いのか。
有り得る話なのに、何故か意表を突かれてしまった。元々ジャークはアレンドラを想っていた訳だし、アレンドラがそれに応えたなら当然の流れだ。結ばれるのは想定していたのに、その後については考えないなんて、俺は随分と間が抜けている。
「なるほど……おめでとう?」
「ありがとう」
話だけなら喜ばしいことではある。ただこの状況下で素直に祝うべきなのか、正直なところ疑問も残る。
特区は基本的に人の手がほぼ入らない、文明的な生活から切り離された土地だ。まともな医者もいないこんな鬱蒼とした森の奥で、果たして無事に出産が出来るものなのか? 産まれるまではまだ時間があるにせよ、こんな環境では準備さえ儘ならない。
余計な心配ばかりが頭を巡る……いや、厳しいな。二人の体調を考えると、街へ移住すべき理由の方が多い。
俺の懸念を察したのか、ジャークは疲れた顔を隠しもせず笑った。
「アハハ、変に気を遣わなくても良いよぉ。このままずっと祭壇に籠っている訳にもいかない、ってのは解ってたからね。そろそろ動き出す頃合いなんだよ、きっと」
「まあ祭壇の存在さえ隠しておいてくれれば、ここから離れても構わんが……今後の生活はどうする?」
「そこなんだよねえ。ボクが稼ぎに出るのはさておき、アレンドラを一人にするのは不安だ。何処か良い職場知らない?」
良い職場ねえ……。
近衛より強いであろう元軍人と、世界十位の魔術師。本来なら俺がわざわざ紹介するまでもなく、皆がこぞって欲しがる人材だ。ならば、育児がし易そうな街を案内した方が良いだろう。
……その条件ならミズガル領かカッツェ領――僅差でミズガル領に軍配が上がるかな? どちらも気候が穏やかで、魔獣の数も少ない土地だが、ミズガル領の方が街として栄えている。加えて、カッツェ家は跡目問題が解決していないため、今後の先行きが読めないところがある。
後は本人の好みか。
「向こうが迎え入れてくれるかは聞いてみないと解らんが、一応当てはある。農業は平気か?」
「体を使う仕事でしょ? そんなの全然苦じゃないよォ」
「そうか。うちの実家の隣に、ミズガルって伯爵家が治める領地があってな。果樹の育成が盛んな土地で、ちょっと前に害獣駆除の人材を募集してたんだが……そこならどうだ? もしかしたら害獣駆除以外にも、収穫とか色々仕事があるかもしれん。それに、あそこの医者は女性だし、アレンドラも相談し易いと思うんだよ」
「そっか。……確かに、医者がどういう人かまでは考えなかったねェ。そりゃボクには無い発想だ。流石は御使い様」
仮に発想があったとしても、実際に行ってみなければ医者の性別なんて解らないのだから、どうしようもない話だろう。ともあれ俺の情報は安心出来る材料になったらしく、ジャークの顔色は血色を取り戻した。
……うん、本人に自覚は無いようだが、かなり追い詰められていたんだな。解決策が見えたからか、ジャークはいきなり饒舌になっている。相談出来る相手もいない状況で、将来への不安を長く抱え込んでいたのだろう。
相槌を打ちながら暫く話を聞いていると、ジャークは不意にこちらの顔を覗き込んだ。
「御使い様も疲れてるのに、申し訳無いねェ。ボクばっかり喋ってしまって」
「いや、お前は一人で頑張ってた訳だし、これくらいは構わんさ。むしろ話を聞いてると、アレンドラよりもお前の方が心配になるよ。最近ちゃんと寝てるのか?」
「寝てはいるけど……何だかすぐ起きちゃってさァ。ゆっくり休めてるとは、正直言えないねぇ」
やはりまともな寝具も無く、硬い地面でただ横になっているだけでは、徐々に体も疲れてくるか。むしろ今までよく我慢した、と褒めてやるべきだろう。
うん、決めた。
どうせ俺も当分の間はここで生活する訳だし、ジャーク達が出発するまでの間に、少し環境を整えよう。寝床くらいは作ってやらないと、ミズガル領に移動する体力さえ怪しくなってしまう。
「ジャーク。肉を処理する時、ついでに魔核と皮を寄せておいてくれ。俺は暫くここに滞在する予定だから、その間に細々とした物を作ってやるよ。ここを発つにしても、準備は必要だろう?」
「そりゃありがたい話だけど……残念ながら支払いは出来ないよ?」
「材料さえ集めて来てくれればそれで充分だよ。どうせ俺の分も必要になるし、一つ作るのも二つ作るのも大して変わらん」
職人としてあるまじき意見だが、支払いなんてこの際どうでも良い。とにかく今は手当たり次第に何でも作って、ただの洞穴を人間が住める部屋へと変えなければならないのだ。
疲れているジャークを酷使するのもなんだが、こればかりは俺も協力して二人体制でやるしかないだろう。
「いずれお前等が出て行くなら、残された物を俺が自分で使うから無駄にはならんさ。こっちの手間は一旦置いておいて、必要な物と欲しい物を片っ端から挙げてくれ。アレンドラの分も用意するから、ちゃんと確認しろよ」
久々の創作で色々忘れているだろうし、感覚を戻す意味でも数をこなしたいところだ。まあ二人には俺の練習に付き合ってもらう形になるが、これくらいの我が侭は許されると信じたい。
さあ忙しくなってきた。
職人としての活動が許されるという事実に、血が騒ぎ始めている。
「御使い様には世話になりっぱなしだねェ」
「そんな重く捉えるような話じゃないぞ? こっちも実利があってやってることだしな。俺は職人に戻りたいんだ、修行の一環だよ」
「っは、ちゃんとした職人は金を取るじゃないか。理屈がおかしいよォ」
「じゃあご祝儀って言い換えようか? 妊娠はめでたいことだからな」
状況が悪いだけで、妊娠そのものは別に責めるような出来事ではない。こうなった以上、こちらは慶事を素直に受け取るまでだ。
ジャークは申し訳無さそうに目を伏せて、唇の端を歪める。
「……ボク達は、幸せになって良いんだろうか?」
「駄目な理由が解らん」
罪の有無と幸不幸は切り離して考えるべきだ。ジャークが罪人なら俺は外道になるだろうが、未来なんてどうせなるようにしかならないのだから、人は自分の最善を求めるしかない。
いちいち気にしていたら、動けなくなる。
「……いつまでかかるか解らないけど、後でちゃんと払うよ。だから少しだけ待っていてほしい」
「そんな金があるなら取って置けって。ご祝儀に現金で返すなんて聞いたことねえよ」
これから扱き使うんだから気にするな。
俺は手を振ってジャークから視線を切り、急ぎ足で洞窟へ向かう。相手は立ち止まったまま、なかなか後を追ってこなかった。
今回はここまで。
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