密約
二人で只管走り続け、ついに最深部へと辿り着いた。しかし、俺達は部屋の入口で思わず足を止めてしまう。
「むう……これは酷い。君が地下を優先したがるのも当然だな」
「いや、流石にここまでとは考えていませんでした。取り敢えず……やれることをやるしかありませんね」
最初はまず祭壇について説明しようと思っていたが、前もまともに見えないほど、式場は穢れで埋もれていた。身体的に平気とはいえ、このままでは会話も覚束ない。
たった数日放置しただけで、何から手をつけるべきか解らない有様だ。
「そうだな、とにかくやってみよう。ははっ、いつになったら終わるか解らんなあ」
言うや否や、コアンドロ氏は短剣を下から掬い上げるように振るい、周囲の澱みを切り裂いた。空いた腕は堆積した穢れを取り込んで、抜かりなく魔力へと変換している。
穢れ祓いの光は帯状になり、やがて渦となって式場を照らす。影響範囲を抑えている分、手が届く場所は念入りに処理している印象を受けた。
手首を返した瞬間の、刃の輝きが美しい。
……コアンドロ氏が先陣を切ってくれたのだから、俺が黙って見ている訳にはいかないな。
最初は大雑把に――両手から全力で穢れ祓いを乱射し、視界を確保するところから始める。足りない魔力は祭壇と穢れから補填すれば良い。周りには餌が幾らでもある、ある意味食べ放題だ。吸収、変換、放出を繰り返しているうちに、邪精としての権能がどんどん研ぎ澄まされていった。
何をどうすべきかが手に取るように解る。経験不足で馴染んでいなかった感覚が、最適化される。
「あ」
我知らず声が出ると同時、至った、という感覚が全身に走る。
思考が一気に加速し、成長に置いて行かれた体が形を保てなくなった。宙へ伸ばした腕が輪郭を失い、靄とも液体とも言えない物体へと変質して床に落ちる。
粘体となってみっともなく床を這いずりながら、穢れを体内へとかき集める。今世で一番と言い切れるほど気分が高揚し、そして唐突に理解する。
ああ、なるほど。俺は栄養が足りていなかったのか。
邪精は穢れを源泉とする生き物だ。人間でありたいという意識が強く残っていた所為で、俺は成長に必要な穢れを吸収出来ていなかったらしい。そんな状態で、大量のご馳走を食べてしまったのだからもう止まらない。幾ら食べても飢餓感が消えず、体が更なる穢れを求めてしまう。
もっと、もっと。
全身が拡張されていく――自分と外部の境目が無くなり、汚染された全てを自在に操れるという確信を得た。今なら河底に刻まれた術式に成り代わり、全てを掌握出来る気がする。
自分がもう人間ではないのだと強く実感する。汚泥の形態で床に広がった俺を見て、コアンドロ氏が舞を止めていた。その困惑した視線で我に返る。
「ああ、すみません。燥ぎ過ぎました」
「いや、構わんが……んん? それは何処から声を出しているのかね」
「何処でしょう? 自分でもよく解りません」
声帯も無いのに、会話出来ているのは確かに不思議だ。ただそんなことよりも、精霊化に対しての質問が無いことに驚かされる。コアンドロ氏からは、こちらを忌避するような感情が読み取れなかった。
「訊かないんですね。私の状態が気にならないんですか?」
「昔は穢れで色々実験したからなあ。内側から膨らんで破裂する者やら、全身の皮膚が溶ける者やら、色々見てきたよ。そんな状態で生きていることは不思議ではあるが、君が穢れ如きで死ぬとも思えんし、そんなものかなとね」
動じないなあ……。
コアンドロ氏の前で強さを発揮した覚えはないが、何やら期待はされているようだ。そこまで評価してもらえるなら、悪い気はしない。
俺は興奮した頭を『集中』で落ち着かせ、再び人間としての形態へ戻った。周りを見渡せば、式場の穢れは先程より大分薄れている。食事に夢中になっているうちに、結構な量を処理出来たようだ。
コアンドロ氏は感嘆の吐息を漏らし、そして肩を竦める。
「人目が気になるなら、儂は一旦この場を離れようか? 一人の方が集中出来るんじゃないかね」
「いえ……説明したいことがあるので、少々お待ちください。コアンドロ様、部屋の中心にある、あの黒い塊が解りますか?」
「穢れでよく見えないが……確かに何か大きな物があるな。あれは?」
「あれは大河を通じて上流から穢れを集め、浄化するための装置です。少し前まではあの装置が動いていたので、この地は穢れから守られていました」
コアンドロ氏は興味深そうに一歩前へ踏み出し、穢れ祓いを祭壇に向けて放った。しかし未だ分厚く残る穢れにより、一撃は阻まれてしまう。
十の汚染が七になった程度では、まだ届かないか。
「今は動いていない……いや、集約の機能だけは活きているようだな。穢れの量が多過ぎて、処理し切れておらんのか?」
「いいえ、浄化の機能が壊れているんですよ。この街で推船を観光に利用していたことはご存知ですか? その影響で、装置に繋がる術式が削られてしまったんです」
「ふむう。とはいえ、現地の住民はこの装置のことを知らんかったのではないか? 知っていたら流石にそんな真似はしないだろうし、それは責められんよ。結果として被害は大きくなってしまったが、黙っていても金は稼げんからな」
現実的で、商人らしい物言いだ。まあ現状はアレンドラが頑張った結果であると知っているので、俺もあまり責める気にはなれない。むしろ引継ぎをしないまま、酔っ払って溺死した河守の前当主に文句を言いたいところだ。
「そうですね、私もそこは別に気にしていません。とにかく説明したかったのは、放置すればこの場所にはどんどん穢れが溜るということです。そして、集約の術式まで壊れたら、被害がどれだけ広がるか想像も出来ません」
「なるほど。それは理解したが、だとしたらどうするのだね? このまま作業を続けたところで、問題は何も解決しないではないか」
「浄化の術式は私の身内が調査しているので、やるべきはそれまでの時間稼ぎですね。ただこの状況で作業出来るのは、私とコアンドロ様しかおりません。……これまで以上に負担をおかけしますが、助けていただけませんか」
こちらからのお願いに腕を組み、膝を揺すりながらコアンドロ氏は考え込んだ。妙な間が生じてしまい、拒否されるだろうかと俺は身構える。
コアンドロ氏は呆れたように苦笑し、天井を仰ぎ見た。
「各地の伝承を調べていた時、こういった装置について記載されていた資料を読んだ記憶がある。明らかに人の手を超えた記述だったため、当時は真偽をかなり疑っていた。……まさかこんな代物が工国にもあったとはなあ。知っていたらあんな苦労は必要無かったのに。……君はいつこれの存在を知ったんだい?」
「コアンドロ様と会う少し前ですよ。住民の一人から、装置の調子が悪いのではないかと相談を受けましてね」
元々は異能の強化についての話だった訳だが、祭壇の機能は多岐に渡るため、この説明で間違っていないだろう。コアンドロ氏は暫し身動きを止め、やがて納得したようにこちらへ向き直った。
「ああ……この街が何故急に閉鎖されたのか、ようやく合点が行ったよ。生活用水の供給が止まったという噂は聞いていたが、君、水源に手を加えたな?」
「ええ、水の流れを変えました。汚染で住民が全滅するよりは良いでしょう?」
「それはそうだ。とはいえ水源は要地だろう? 管理している者達がいたのでは?」
「全員……ではないか、二人ほど残して他は殺しました。住民を説得する時間も能力も私にはありませんでしたから」
正直、あの一件については正解だったと胸を張れずにいる。河守を殺す意味が本当にあったのかと問われたら、今でも首を傾げるだろう。後悔はしていないが、単に余裕が無くて頼りない策に縋りついただけだ。
あの時俺は、どうするべきだったのだろう。
「君がどれだけ危険を触れ回ったところで、殆どの人は信じなかっただろう。それどころか不穏分子として扱われ、投獄されていた可能性もある。……君はまさに工国の救世主であり、紛うことなき英雄だ。そんな男が、こんな爺を、咎人を頼りにすると?」
震える手を握り締め、膝を叩きながらコアンドロ氏が顔を歪めて吠える。
対して、俺の答えは一つ。
「貴方が良い。貴方が必要だ」
惚れた女のために人命を弄び、穢れに対して向き合い続けた男だからこそ、辿り着いた地平がある。巡り巡ってそれが皆の救いになるのなら、面白い話ではないか。
「犯罪者が英雄になっちゃいけないなんて道理はありません。今度は大手を振って、カーミン女史を迎えに行けば良いじゃないですか」
「ハッ、夢物語だな。だが不思議とやる気にさせる。……君の誘いに乗ろう、フェリス・クロゥレン。儂を高みへ導いてくれ。軍部の馬鹿共に、思い知らせてやりたいんだ」
「導くまでもなく、コアンドロ様なら勝手に高みに昇る気がしますよ」
どちらからともなく握手を交わし、俺達は契約をまとめた。
コアンドロ氏は地下で俺の補助をし、俺はコアンドロ氏に祭壇に関する知識を授ける。また、事が解決して街が王国の支配下に置かれた際は、コアンドロ氏とカーミン女史を王国民として迎え入れる。
なお祭壇の管理については、カーミン女史がついてきてくれるなら、という回答だった。そうなると、猶更ここで失敗は出来ない。
「さて……じゃあ話も決まったことですし、頑張りますか」
「そうだな。君も儂のことは気にせず、やりたいように作業してくれ。人の形に拘らずにな」
お許しが出たので、俺は即座に汚泥の状態に戻り、そのまま穢れの吸収を始める。コアンドロ氏は笑って短剣を抜き放ち、改めて腕を振るった。
今回はここまで。
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