名前をつける
大急ぎで買い物等を済ませ、ミル姉に走り書きを押し付けた上で、俺はすぐさま中央を出た。
宿の前で消した探知だけがシャシィの手札とは思えない。俺が気付いていない罠が、まだ何か残っているだろう。ならば穢れを壁にして追跡を振り切る。
――そうして龍を使って久々に訪れた国境沿いは、無事な場所を探せないほどに汚染されていた。試しに穢れ祓いを撃ってみても、消した先から新しい穢れが押し寄せてくる始末。
対策を諦め、ひとまず汚染区域の端に降りてみると、知った顔が天幕を張ってくつろいでいた。
「おや、奇遇だね。こんな所で会うなんて、我々は巡り合わせが良いようだ」
「……コアンドロ様? 何故ここに」
「はっはっは、当然の流れではあるが、あの後軍部に捕まってね。死罪は免れたものの、労役刑としてこの街の調査を命じられたのだ。因みにカーミンは労役に耐えられんので、治療院で拘束されることに決まったよ」
コアンドロ氏が昏睡状態のカーミン女史を確保していたことは軍部に伝わっていたため、彼女には刑罰を与えず、監視に留めることとなったらしい。まああの人は半分病人みたいなものだし、逃亡を続けるより人質でいる方が、まだ真っ当に生きていけるだろう。
一方でコアンドロ氏は穢れの扱いに慣れており、かつどう死んでも構わないという理由により、この地へ流されることとなった。
……割と深刻な事態なのに、本人はまるで堪えていない辺りが恐ろしい。
「こんな状況で、どうやって生活しているんですか?」
「体が一度に穢れを吸収出来る量には限りがあるし、我慢するのには慣れているからね。食料さえあれば、数年くらいは平気だよ」
「で、その食料はどうしてるんです」
「一応国から提供される物資もあるが、基本は現地調達だな。魚はそこらに浮かんでいるし、木の実の類も成っている。問題は、何から手をつければ良いかさっぱり解らん、というくらいか」
……この人本当にどうなってるんだ? 世に存在する人間の中で、一番穢れに対しての適正があるかもしれん。カイゼン軍部のやり口はさておき、人選としてこれ以上は無い。
俺がこの街を回復させる場合、必要な人員になりそうだ。
「求められているのは調査であって、この地の浄化ではないんですか?」
「そういえば、浄化までは求められておらんな。そこはほれ、カイゼンも誰か英雄となる者を用意せねばならんのではないか?」
「なるほど。では、穢れが広まった理由を私が知っていると言ったら?」
「ほほう、本当に知っている顔だな。教えてほしいと言ったら、教えてくれるのかね?」
こうなったなら、コアンドロ氏を味方に引き込んでおきたい。この人は絶対後で役に立つ。
俺は祭壇のことを適当に濁しつつ、推船によって河底の術式が削れた経緯について説明した。コアンドロ氏は無精髭を掌で擦りながら、楽しそうに目を細める。
「面白いな。穢れについて調査をしていた時、似たような話を聞いたことがある。海の遥か向こうでは百年に一度だけ、どんな生き物の穢れも消し去ってしまう不思議な果実が採れたのだが……ある日若い木こりが、知らずにその樹を切り倒してしまった」
「そしてその地には穢れが満ちるようになった?」
「その通り。まさかカイゼンまで同じ道を辿るとは予想しなかったよ」
百年に一度という悠長な間隔は気になるものの、祭壇は一定の距離で配置されているようだし、あり得ないことではない。とはいえ上位存在がどれだけ対策をばら撒こうと、使う人間に基本的な知識が無いのだから、駄目になるのも当たり前の流れだ。
「該当する樹を再生させたとか、そういった話を聞いたことはありませんか」
「残念ながら。語り部にとっては耳障りの良い物語より、後世の人間を戒める訓話の方が大事だったらしい。だから儂も海外へ行こうとは考えなかったよ」
「残念ですね。……取り敢えず、真相としてはこんなところです。国に信じてもらえるかは解りませんけど」
「何かしらの物証が必要だな。いや、証拠があろうと軍部はそれを認めない、か」
コアンドロ氏は冷静に現状を受け入れつつも、まるで悲嘆していなかった。
ここから事態を逆転させる手は……ああ、もう一度穢れを蓄えて首都に戻るつもりだな。俺が穢れを除去したから弱体化していただけで、本来のコアンドロ氏は一人で軍部と渡り合える人間だ。カーミン女史の治療を敵に押し付けつつ、反撃の機会をいつまでも待つ気なのだろう。
『我慢』強いにも程がある。この人を放置すると、また首都を汚染する可能性が高い。
考え方を変えると――黙っていても穢れに手を伸ばしてしまう人間なのだから、いっそ穢れ祓いを与えた方が好都合なのかもしれない。
「コアンドロ様。私は中の様子を確認しに行こうと思っておりますが、そちらはどうされます? 魔力に自信があるのなら、穢れ祓いを預けますよ」
「うん? ああ、教国には魔術ではない穢れ祓いがあるのだったね。しかしアレは国宝であって、外部に持ち出せる代物ではない筈……」
俺は探索用に作った短剣を相手から見えない位置で祝福し、そのまま魔力を込める。目の前で穢れが打ち消され、コアンドロ氏は感嘆の吐息を漏らした。
どうぞと柄を差し向けると、何故かコアンドロ氏は跪き、恭しい態度で短剣を受け取る。
「式典って訳でもないんですから、そう大袈裟にしなくても」
「君は魔術式の穢れ祓いを使えるから解らんのだ。これが欲しくて、儂は十年近く足掻いていたのだよ」
「いや、貸すだけですよ。欲しいなら、対価を支払える立場に戻ってください」
別にあげても困りはしないが、現状では取引が成立しないと判断する。自分で報酬の支払いを先延ばしにしたのだから、こんな所で燻っていないで、せめて約束を果たせる程度に奮起はしてほしい。
彼はカイゼンの枠では収まらない、世界屈指の穢れの専門家として、もっと高みを目指すべきだ。
「先に言っておきますと、穢れ祓いは教国の軍人でも連発が厳しいようです。カーミン女史を迎えに行くためにも、それを使いこなせるようになりましょう」
「なかなか人を煽ってくれるじゃないか。まあ手がかりにも困っていたところだ、ご一緒させてもらうよ。……ああそうだ、軍部の人間が定期的に物資を届けに来るから、龍はここに置いていかない方が良い」
「最近はあまり一緒に活動していないので、今回は連れて行くつもりですよ。こいつもたまには広々とした所で動きたいでしょうし」
脇で控えていた龍の首筋を撫でると、心地良さそうな声が牙の隙間から漏れる。こいつも大分懐いてきたような気がする。コアンドロ氏はその様子をじっと見守りながら、ふと首を傾げた。
「ところで、この龍の名はなんなのだね? 龍の存在を人に聞かれると困ると思うのだが」
「考え中です。魔術で繋がっているのでわざわざ声に出して呼ぶ必要は無いし、現状、特に困っていないんですよ。ただ仰る通り、龍がいると周知するような真似は控えるべきですね」
他者と接する機会も減ってきているし、襲われたら相手を始末するつもりでいたため、その辺の考えが適当になっていたことは否めない。しかし俺はどうにもそういった名付けの才覚が無いというか……適当になりがちだという自覚がある。そうして苦手なことを先延ばしにしているうちに、今日まで至ってしまった。
なのでいざ名前をつけろと言われても、何も頭に浮かんでこない。
「まずこの龍は雄なのか雌なのか、どっちだい?」
「雄ですね。生まれて三十年ほどで、龍としては若い個体です。ううん……コアンドロ様が穢れに関して調べた伝承の中に、龍が出てくるものはありませんか?」
「ちょっと待ちたまえ。……確か、魔を祓うヴィヌスという神がいて、その遣いが龍だったような記憶がある。龍という時点で希少なのに、かつ穢れを祓える存在となるともう現実的ではないということで、あまり資料を読み込まなかったのだが」
「なるほど。じゃあヴィヌスと名付けましょう。構わないか?」
穢れに染まった龍に乗って、穢れの解消に挑んでいるのだから、その辺は洒落が利いている感がある。男神か女神かはさておき、偉大な存在の名を模すこと自体は悪くないだろう。
問いに対し龍は一声甲高く吠えると、俺の顔を舌で舐めた。どうやら気に入ってくれたようだ。
「そんな簡単に決めて大丈夫かね? もう少しちゃんと考えた方が……」
「本人がこれで良いと思っているようなので、大丈夫ですよ。ヴィヌスは私に従ってはいても、主張はする方ですから」
少なくとも快か不快かの反応ははっきりしているため、遣り取りを難しく考える必要は無い。嫌なことがあってもいきなり暴れたりはしないし、コアンドロ氏は龍という威容に飲まれているだけだ。
さて、名付けも済んだし仕事に入るとしよう。
「準備がよろしければ、早速、汚染区域の中へ行ってみませんか」
「そうだな、まずは街の跡地を目指そうか」
隊列は俺が先頭、コアンドロ氏が真ん中、ヴィヌスが背後を警戒するという並びに決まった。俺は邪精の権能を全開にし、コアンドロ氏に負荷がかからないよう穢れの吸収を始める。
――俺が潰したあの街は、今どうなっているのだろう? 何をどうするにせよ、現況を自身の目で確認しなくては。
深呼吸をして、気合を入れ直す。渦巻く穢れの向こうにかつての栄華を幻視しながら、俺は重い足を引き摺って前へ踏み出した。
今回はここまで。
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