後を頼む
ファラ師が戻って来たのは、打ち合わせから五日後のことだった。帰還当日はまず体を休めてもらい、明けて昼から異動について話すことになった。
会議室は既に使われていたため、何も無い野原で俺達は向かい合う。
「お疲れ様。昨日はゆっくり休めた?」
「お陰様で、体調は万全です。大変お待たせいたしました」
久々に見た彼女は、随分と気配が静かになっていた。他者を圧倒するような華やかさは鳴りを潜め、立ち姿も自然なものになっている。
ようやく近衛という役職から解放され、素に戻った――俺にはそんな風に見えた。
「修行の甲斐はあったみたいだな」
「ええ。集中して鍛錬が出来ましたので、良い気晴らしになりました。折角ですから、成果をお見せしましょうか? フェリス様がどれだけ変わったか、私も知りたいところですし」
思わず苦笑してしまう。
幾ら大人しく見せたところで、人の本性は変わらない。外での会話になった時点で、こんなことになるだろうとは予想していた。
戦いたい訳ではないが、ファラ師の言う成果に興味はある。お誘いに付き合うのも悪くはない。
「武器はどうする?」
「私は素手で構いません。フェリス様は?」
「いや、俺は棒も鉈も魔術の触媒にしてしまったんだ。今は何も持っていないよ」
両手を広げて見せると、大袈裟な嘆息が耳に届いた。
「あれだけの逸品が失われるとは……惜しいことです。となると猶更、私が抜く訳にはいきませんね」
ジグラ殿の形見の短剣を指でなぞり、ファラ師は息を止める。そうして、身を低く沈めて掴みかかるように構えた。対する俺は突っ立ったまま、周囲に意識を配る。
何かあった時のために立会人が欲しいところだが……こんな所に来るヤツなんていないか。いないなら仕方が無い。
俺はすぐさま思考を切り替えて『集中』し、そのまま歩いてファラ師との距離を詰める。かつてやり合った時とは真逆の展開だからか、相手の顔に僅かな驚きが見て取れた。
まあ、これで動きが鈍るような相手ではない。間合いに触れたまさにその瞬間、緩く握られた拳が眼前に迫る。
「おっと」
速いだけの軽い牽制――喰らっても大したことはないにせよ、一応避けておこう。
『観察』は正常に機能している。というより、魔力と精気を併用しているからか、昔よりもずっと見えるようになっている。精気を得る前なら直撃だったかなと思いつつ、首を逸らして拳を流す。
さて回避は出来ても、反撃するだけの余裕は無い。取り敢えず両手を前に出し、止まらない連打を捌き続ける。次第に強くなっていく一撃に、段々と腕が追いつかなくなっていく。
「シッ!」
あ、しまった。受け損なった。
両腕の隙間を縫うようにして、貫手が頬を掠める。俺は意地を張らずに一歩下がり、相手の腕を払って睨みを利かせた。
……敢えて退がっても追撃はせず、か。完全に遊ばれているな。
とはいえ本気を引き出すほど頑張るつもりもないし、何処までやるか悩ましいところだ。
「手加減が巧くなったみたいだな。いや、無手が専門ではないからか?」
「手を抜いているつもりはありませんよ。単純に、フェリス様が強くなったんです」
「ご謙遜を」
一発も反撃出来ていない俺に対し、言うことではないだろう。しかし、ファラ師は真顔で首を横に振る。
「いいえ、普通ならもっと簡単に終わっています。そもそもフェリス様は魔術師でしょう」
「……どうだろう?」
以前なら職人だと答えたような気がする。ただ、最早自分が何なのかすら、俺には答えられない。
首を傾げて返すと、ファラ師の瞳が戸惑いに揺れた。
「……何があったんです?」
「色々あり過ぎて、何処から説明したものやら。まあ今は俺のことは置いておこう」
「そうですか。後でお聞かせ願いたいところです、ね!」
不意を突いて、脛を刈るような下段蹴りが放たれる。足裏でそれを止めて押し返そうとするも、むしろ力づくで膝を浮かされてしまった。
これは敵わないな。泥化で退避――いや、手札を晒すまでもないか。
俺は勢いに任せて素直に後ろへと倒れる。それと同時、石柱を地面から突き出してファラ師の前進を止めた。
……なるほど。
精霊二人から色々と教わりはしたものの、実戦を経ていないため、いまいち知識が体に馴染んでいなかった。だがこうして超一流と向かい合うと、出来ることが増えたのだと気付かされる。
地面を伝わる振動が、空気中の水分の揺れが手に取るように解る。相手の狙いが何であるか、その全てが読めてしまう。
「凌げるもんだな。本当に自分は強くなったのかも、という気になってきた」
「嘘なんて吐きませんよ。とはいえ、このままだと私の成長をお見せ出来ませんね」
「そうでもないさ」
少なくとも、戦闘中に暴発し難くなった、という意味では充分に成長している。そもそもファラ師には強さを求めた訳ではなく、加減を覚えろと注文したのだから、こちらの希望は満たされているだろう。
……あまり本気を出されると土地が荒れてしまうし、この辺が潮時かな。
「修行の成果は感じられたよ。でもやる気を削ぐようで悪いんだが、これ以上続けるならもっと外れの方に行かないと無理だ。この場所は後で農地にするらしいから」
「ああ、それは残念ですね。フェリス様にもその気になってもらえると思ったのですが」
「そういうところは変わらないな。俺が昔鍛錬していた場所を教えるから、後でジィト兄とやってみたらどうだ? あの人となら、もう少し楽しめるんじゃないか」
噛み合わない俺とやり合うより、武術で競い合う方が二人とも向いているだろう。そう提案すると、不完全燃焼だったファラ師は明らかに目を輝かせた。
「よろしいのですか?」
「大丈夫だよ、本気を出せない環境にいると苦痛だろう?」
「……ええ、それは否定出来ません」
ならば丁度良い。
俺は呼吸を整え、ファラ師へ最初で最後の命令をする。
「その言葉が聞けて良かった。ではファラ師――現時点を以て、俺の従者としての任を解く。今後はジィト兄の補佐として、領地運営に協力してやってくれ」
「え? は? と言いますと……わ、私では従者として不足ということですか?」
遠路はるばるここまでやって来たのに、こうなるとは予想していなかったのだろう。ファラ師が狼狽えているため、俺はまず落ち着くよう訴える。
「違う、そういう意味じゃない。この結論に至るまで、俺も色々と考えたんだよ。まず、ファラ師は俺が継承権を放棄したことについては知ってるだろう? 結果として姉兄は領地に縛られ、磨き上げた強さを腐らせることになった」
「腐らせるだなんて、そんな……」
「いいや、そうなんだよ。あの二人はお互いと戦うことを禁じられているし、守備隊にも相手になるような人がいない。使われない技術はどんどん鈍っていくことくらい、ファラ師は解っている筈だ。……俺は皆に恩があるから、なるべくなら有意義な時間を過ごしてほしいと思っている」
身内ということで今まで散々甘えてきたが、返せるものは返していかないと肩身が狭い。俺について来るよりは、ファラ師にとっても利益のある選択になる。
そういったことを並べてやると、ファラ師は暫し考え込んでいた。
「……確かに皆にとって悪い話ではない、と思います。ですが、本当によろしいのですか? これでは償いになりません」
「律儀なのは美徳だけど、誤解があるな。俺は一度だって、ファラ師に償ってくれとは言ってないよ」
それはミル姉とファラ師の間で交わされた契約であって、俺の意思とは無関係だ。むしろ償いなどという話を持ち出すのなら、俺こそが姉兄に償わなければならない。
抱えていた負い目をどうにかしたいと願うなら、今こそが好機なのだろう。
「不満はあるかもしれないが、この件だけは飲んでほしい。追ってミル姉から正式な通知が届くようにしておくから、心の準備だけはしておいてくれ」
「不満など、滅相もございません。お話は確かに承りました」
丁寧に頭を下げ、ファラ師はようやく構えを解いた。改めて顔を正面から眺め、ふと義眼がずれていることに気付く。なるべく眼窩に嵌るよう固定していた筈だが、やはり急制動には耐えられないらしい。
魔力操作によって遠隔で位置を調整してやると、ファラ師はくすぐったそうに顔を歪めた。
「ん? 何をしたんです?」
「義眼が変な方向を向いてたんで、ちょっと気になった。師匠も領地にいるから、一度確認してもらった方が良い」
「ううん、合わなくなっているんでしょうか? 自分ではなかなか気付けないんですよ」
そりゃあ日々生きているだけで脂肪や筋肉の量は増減するのだから、収まりが悪くなることなんて幾らでも有り得る。あんなに激しく動いたのなら猶更だ。
調整自体は俺でも出来る作業ではあるが、師匠の仕事に慣れてもらった方が今後のためだろう。
「後で一緒に師匠のところへ行こうか。ついでに、手鏡を作っておくよ」
「それは嬉しいですね。何から何までお世話になります」
いいや、これからお世話になるのはクロゥレン家の方だ。手鏡くらいでは報酬としてまるで足りない。せめて全力を尽くして、ファラ師に相応しい逸品を作ろう。
……まだ俺は仕事の段取りを覚えているだろうか? あまりに長く作業から離れた所為で、少し自信が無い。それでも職人を志すのなら、仕事から逃げる訳にはいかない。
俺は手の中で魔核を転がし、久し振りの仕事に不安を抱いた。
今回はここまで。
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