拳を交える
龍が従ってくれるお陰で、移動が本当に楽になった。かつて何日もかけた道程が、今や数時間で到着出来てしまう。加えて、既に生命活動が止まっているため、食費がかからない点も最高だ。
代わりに俺は龍へと魔力を注いでやり、少し遊んでから特区の洞窟へと降り立った。
暫く内部を歩いていると、少し広くなっている空間の前で、身を低くして待ち伏せているジャークと遭遇した。
「そう警戒するな、俺だよ」
「んん? ……なんだ、御使い様じゃないかァ。気付かなかったよ、何か気配が変わってない?」
「ああ……多分、人間じゃなくなったからだな。穢れが全身に回り切って、そこから何故か汚染を克服したんだよ」
「もう何が何だかよく解らないねェ。生きてるなら良いんだけどサ」
あの時何が起きたのか、俺にだってよく解らない。敢えてそこには触れず、俺は肩を竦めて返す。一方ジャークは姿勢を戻すと、むき出しの地面に腰を下ろして力を抜いた。
落ち着いて周囲を見回しても、アレンドラの姿は無い。
「アレンドラはどうした?」
「ああ、外に湧き水が溜ってる場所があってねェ、今は身を清めに出てるよ」
「一人で動けるようになったのか。目はどうなったんだ?」
「片目は開くようになったんで、歩くだけならどうにかって感じ。走るのはまだまだ危なっかしい、ってとこだねェ」
状況が好転しているなら喜ばしいことだ。俺は満足して頷き、道中で捥いだ果物を投げ渡す。ジャークはすぐさまそれに齧り付いて果汁を啜り、大きく息継ぎをした。
「うん、美味い。いやぁ、こんな場所だと食事が偏っちゃってさァ。こういう差し入れは嬉しいよ」
「これだったら山の麓に結構生ってるぞ。もっと行動範囲を広げたらどうだ?」
「いや、そもそも食えるって知らなかったし、似たような木の実で酷い目にあってるから……」
しまった、カイゼンにはこの果物は無かったか? 王国の山の食材を知らない人間を、他国に連れ出したのは拙かったかもしれない。
状況が状況だったとはいえ、気の毒なことをしてしまった。
俺は手持ちの食材をジャークに与え、後で山菜について教えると約束する。そんな話をしていると、やたらと煽情的な恰好のアレンドラが戻ってきてしまった。素肌に薄い布を引っかけただけの姿――恐らく、普段は他人がいない所為で完全に油断していたのだろう。彼女は開くようになった右目で俺の姿を凝視し、すかさず、ジャークが俺達の視線を遮るように体の位置をずらした。
「御使い様の前だ。すぐに着替えてきなよ、アレンドラ」
「あ、はい。ごめんなさい」
返答が素直だ。念のため顔を背けていると、足音はすぐさま遠ざかっていった。
あの感じからして、アレンドラは無事にジャークと結ばれたようだ。最低限、自罰的な精神状態から抜け出せているのなら僥倖である。
「……随分と様変わりしたな。良くも悪くも肩の力が抜けたか?」
「素に戻ったと言うべきだねェ。まあ、粗相があっても勘弁してやってよ」
「詫びるのは俺の方だろう。また怒られる前に退散するかね」
「あ、いや待った。今ちょっと時間ある?」
アレンドラも気まずいだろうし、早々にこの場から離れようと思ったのだが、ジャークは俺に用があるらしい。何かと尋ねてみれば、少し体を動かしたいとのことだった。
魔術無しという前提で、ジャークの体捌きを思い返す限りだと、俺では相手になりそうもない。
「鍛錬なら一人でも出来るだろう?」
「鍛錬は出来ても、良くなったかどうかの評価が出来ないんだよ。御使い様は長老衆に対抗出来てたし、かなり動けるでしょ?」
「お前と比べられるものではないんだが……」
まるで気乗りはしないものの、アレンドラはさておきジャークに面倒を押し付けたのは俺だ。それと食料不足が影響しているのか、彼は以前より痩せたように見える。技術にせよ体にせよ、自身の衰えを感じてもおかしくはないだろう。
……仕方無いか。
あくまで遊びということで、少し付き合ってやることにした。
俺が溜息を吐いて手招きすると、ジャークは嬉しそうに笑い腕を撓らせる。大股で踏み込みつつ身を沈めれば、頭の上を拳が通り過ぎていった。
相変わらず初手は裏拳からか。まあ攻撃が遅い訳でもないし、同じ相手と二度やることも少ないのかもしれないが……、
「攻め方が単調じゃないか?」
「そう?」
拳は引き戻され、ジャークは追撃の体勢に入っている。上からの打ち下ろしを首を捻って避け、俺はそのまま肩で相手の鳩尾を押した。
体当たりというほど勢いはつけていないが、感触が想定よりも柔らかい。
あっさり後退したジャークがこちらへ連打を放つ。手加減はあるにせよ、一発一発が軽いため捌くのは簡単だった。体格の違う相手の攻撃を、俺が素手でいなせるということは。
「ううん……動きは悪くないとして、筋力が落ちてるんじゃないか。調子が悪いとかそういう感覚は?」
「体が軽くなった気はするねェ。前より動き易いとは思ってるんだけど」
お互い疑問を浮かべつつも、牽制の打撃は止まらない。俺の発言でその気になったのか、ジャークの攻めは少しずつ速さと重さを増していった。控え目ながらも強化を使い始めたようだ。忙しなく腕を動かして、俺は相手の拳を止め続ける。
何だろう……かつてはもっと動きにキレがあったような気がする。
体感として悪くないと言うのなら、骨格と筋量の釣り合いは取れている。技術についても劣化した印象は受けない。しかし、かつて程の怖さも感じられない。
恐らく一番変わったのは、当時と比べ必死になる理由が無い、という点だ。対抗すべき外敵が減り、アレンドラと結ばれた結果、ジャークは温くなってしまった……いやそもそも、背負うものによって大きくやる気が変わる人間だったのだろう。
「うん、問題は解った」
俺は中指が高くなるよう拳を握り、相手の突きを内側から抉る。思わず腕を引いたジャークに接近し、殴ると見せかけそのまま頭突きで顎を打った。そうして衝撃でがら空きになった脇腹目掛け、横合いから肘を叩きつける。
膝に力が入らなくなったのか、ジャークは抵抗出来ずに尻餅をついた。
「ゲホッ、つ、強いねェ。こんなにあっさりやられるとは思わなかった」
「俺が強い訳じゃなくて、お前が集中出来ていないだけだ。やる気は起きないけど、でもこのままではいけない、なんて思ってるんじゃないか」
ジィト兄とやり合った時の俺がそうだった。迷いがあると、人は巧く動けなくなってしまう。
図星だったのか、ジャークは気まずそうに眼を逸らす。
「一応言っておくが、それは別に悪い変化ではないぞ? ずっと気を張っていたところで、急に余裕が出来たから戸惑っているだけだ。争いごとなんて、無い方が本来は当たり前なんだからな」
「……それ、本気で言ってる? こんなに穏やかな日々を過ごしてさァ……ボク達には何らかの報いがあって然るべきなんじゃないの?」
何処となく昏い眼差しがこちらへ向けられる。
そういえば、ジャークはかつて自身の責任について零していたか。同胞を殺した者に安寧など烏滸がましい、平和なんて許されないと、そういうことなんだろうか?
……なら、苦労した人間はそれこそ報われるべきではないのか。少なくとも、全てをアレンドラへ背負わせようとした連中よりずっと、ジャークには覚悟があった筈だ。
「罪があったとして、どうだと言うんだ。その後ろめたさは一生消えないだろうし、他ならぬお前自身がお前を責め続ける。俺はそれで帳尻が合っていると思う」
大体にして、こちらが不利益を被る訳でもないのに、人の平和や幸福に物申すつもりはない。誰かのために身を切って生きるのが正解かなんて解らないし、皆好きに生きれば良いのだ。
そう思わないと、やっていられない。
「色々と勝手なことを言ったが、そこまで酷くなった感じはしない。思考が整理されれば、すぐに調子を取り戻すだろう。……お前が気に病むことなんて何も無いさ」
「あら――随分とその男を甘やかすのですね」
咎めるような、涼やかな声が響く。
まあ、住処を追われた彼女からすれば、確かに甘い采配だろう。とはいえそれは、与えられた使命に忠実だったジャークを責める理由にはならない。
「祭壇に尽くし、かつ自身の目的のため立ち上がった男ですからね。俺は彼を評価しているんです」
両手を広げ無抵抗で振り向けば、着替えを終えたアレンドラと、精霊達が並んで戦況を見守っていた。アレンドラが不安そうに拳を握る一方で、精霊達はやけに嬉しそうな表情を浮かべている。
口調と顔が合っていない……ということは、本心ではないな。本気で責めるつもりも無い癖に、そんな意地悪をすることもあるまいに。
「お久し振りですね」
「ええ、お久し振りです。体の調子は如何ですか?」
「お蔭様で悪くはありませんよ。さあ、お話は奥で伺いましょう。ジャークとアレンドラはこちらで待機していてください」
跪いて従う両者に、俺は思わず眉を跳ねる。二人とも精霊の存在をしっかり認知している……いつの間にやら、主従関係が出来上がっていたらしい。
その様子に何も言えないまま、ひとまず連れ立って祭壇へ移動することにした。
今回はここまで。
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