真っ先に逃げる
カイゼンが公国だったり工国だったりしていましたが、工国としました。
工業国家→工国ということでご了承ください。
「という情報提供があったのですが、どうなさいます?」
「ふむ……まあ来るべき時が来た、というだけのことだろう。君は儂のことなど気にせず、好きに動けば良い」
店主殿の話をしても、コアンドロ氏はまるで動揺を見せなかった。いっそ穏やかな表情からは、策の有無すら窺うことが出来ない。
この状況下では、金でどうにかするくらいしか思いつかないが……最早それで解決する段階ではないだろう。このまま事を進めたところで、俺にはコアンドロ氏が破滅して終わる未来しか見えなかった。
本人はそれで納得しているとしても、女性をどうするつもりなのだろうか。
「官憲がもうすぐ踏み込んでくると仮定して、彼女は自力で歩けそうですか?」
「流石に厳しいのではないかね。ただ、こちらとしても国の勝手を許すつもりはない。この時のために、儂もそれなりに備えてきたつもりだよ」
穢れを抜いて以来鳴りを潜めていた凶相――コアンドロ氏はまだ枯れていない。むしろ、自分達を見捨てた軍部への憎悪は、今なお煮え滾っている。
取り敢えず、この調子なら投降はなさそうだ。彼はとびきり性質の悪い策を、何処かに隠し持っている。
「個人的には店主殿への支払いさえしていただければ、邪魔するつもりはありません。ああ、後は知人に被害が出なければ、ですか。私の交友関係はもうご存知なのでしょう?」
「その辺の調整はしてあるから、心配要らんよ。『緑の蔓』への支払いも明日には済ませよう。それより問題は君への報酬だ。このままでは金しか用意出来んが……それは望みではないのだろう?」
すぐにでも逃げたい状況で、嵩張る荷物を増やしたくはないのは当然のことだ。そもそも大金を貰ったところで、被差別民である俺がまとまった金を使える場所なんて限られている。
欲しい物が思いつかないのなら、いっそ身軽さを求めたい。
「穢れの研究結果さえあれば、こちらとしては構いませんよ? 滞在中の費用は全てお任せでしたし、何より優れた職人の仕事を体験出来ました。あの店を紹介していただいたことだけで、私は充分満足です」
「むう……しかし、それでは儂の気が済まんのだよ」
「だったら、諸々が落ち着いてから報酬を支払ってください。今じゃなければいけないとは思っておりませんし、私はいつまでもお待ちしますよ」
備えに自信があるのなら、後でゆっくり話し合えば良い。
コアンドロ氏が今すぐにと拘るのは――少なからず、負けの可能性を見越しているからだ。相手を知らない俺と違い、彼には大まかな戦況が解っているのだろう。
「因みに……そんなに厳しいのですか?」
「正直、決して楽ではないな。カイゼン軍部は強度云々より、人員の多さが特徴だ。王国のように突出した才が少ない分、数だけはとにかくいるというのが厄介でな。対するこちらは、何せ人手が少ないだろう?」
苦笑しつつ俺を見るその目線は、僅かばかりの恨みがましさを含んでいる。
そうは言っても、コアンドロ氏が周囲を巻き込む可能性を否定出来なかった以上、俺としては安全策を取るしかなかった。
俺達は協力関係にあるものの、同じ判断基準で動いている訳ではない。
「いや、元々軍部との禍根があるのは、コアンドロ様と彼女くらいでしょう? ……手札を教えてくれとは言いませんが、今のうちに彼女と逃げる訳にはいかないのですか?」
「無論、それも計画に含めてはいるさ。軍部に借りを返したいという気持ちはあるが、それ以上に、儂は彼女には安らかであってほしいのだ。目標を達成するために戦うこともあれば、逃げることもある。惰弱な男と笑うかね」
「まさか。そういう心意気は好きですよ」
彼女のために動いている、という点においてコアンドロ氏の態度は一貫している。そういうところが憎めないから、俺は彼との関係性をどうするか保留していた。
……でも、流石に限界だな。
ただでさえ危ない立ち位置なのに、これ以上肩入れすれば、引き返せなくなってしまう。
「まあ、ここから先は彼女と相談して、決めてもらうしかないでしょう。本人も状況が気になっているようですしね」
俺が立ち上がって扉を開けると、その先では彼女が驚きで身を硬直させていた。
血色は悪く、握り締めた杖が震えている……体の調子が戻っていないにも拘わらず、身体強化によって強引に歩いてきたようだ。
「立ったままでは疲れるでしょう、中へどうぞ」
「ど、どうして……?」
「うん? どうして自分に気付いたのか、という意味ですか?」
躊躇いがちな首肯が返ってくる。
確かに彼女は気配を隠すのが巧い。ただ隠密行動をするなら、もう少し体調が戻ってからが良かった。
「部屋の外で、魔力の流れが不自然に乱れていましたからね。会話中でもそれくらいは気付きますよ」
「カーミン、あまり無茶をするな。ほら、そこの椅子に座るんだ」
カーミンと呼ばれた女性は、コアンドロ氏に支えられながらどうにか椅子に辿り着いた。寝室からここまでは大した距離でもないのに、息がすっかり上がっている。やはり本調子には程遠いようだ。
「フェリス・クロゥレンと申します。お邪魔なら席を外しますが、どうします?」
こちらを見上げる瞳に猜疑心がある……まあ、それも当たり前か。
意識を失う前、彼女は王国を討ち果たすために動いていた。なのに味方が王国の人間と談笑しているのだから、何を信じて良いやら判断がつかないのだろう。俺がコアンドロ氏を騙している、とすら考えているかもしれない。
結論を暫し悩み、カーミン女史は苦々しく呟く。
「……私のことは気にせず、話を続けて」
「然様ですか。とはいえ、私から特に提言はありません。お二人が無事に難局を切り抜けられるよう、祈るばかりです」
「え? 貴方は……私達の味方ではないの? どういうこと?」
カーミン女史の視線が俺とコアンドロ氏を行ったり来たりする。俺が肩を竦めると、コアンドロ氏は彼女へ今までの経緯を説明してやった。
ようやく状況を把握し、カーミン女史は頭痛を堪えるかのように額を押さえる。
「事情は解ったけれど、仕事が半端なんじゃない? 病み上がりの私とコアンドロの二人で、軍部とやり合える訳がないでしょう。人から手札を奪っておいて、貴方は逃げるつもり?」
「ええ、逃げますよ。それと、私もやり合えないと思ったので、どうするつもりなのかお伺いしたんです」
勝手な発言ではあるが、頷ける部分もある。
彼女が死ねば、あんなに頑張った俺の仕事の価値は損なわれてしまう。しかしそれでも、挑発には乗ってやれない。
「依頼はあくまで、貴女の意識を取り戻す手伝いと私は認識しています。穢れの除去まではまだ言い訳が出来ますが、軍部とやり合って王国と工国の間に不和を生む訳にはいきません」
今回の件について俺の――王国貴族の関与が露呈すれば、侵略行為と見做され戦争になっても何ら不思議ではない。そんな責任を背負わされるくらいなら、俺は二人を見捨てることを選ぶ。
他者を疑いつつも縋るなんて、危険が迫っている所為で、彼女は少々冷静さを失っているようだ。
「カーミン……儂は彼に報酬の支払いも出来ていないのだ、あまり無理を言うものではない。戦わずとも済むよう策は練ってあるから、心配せずに寝ておれ」
「無理に決まっているでしょう! こんな、こんなことになるなら、私は眠ったままの方が良かった!」
カーミン女史は暫くあれこれと喚いていたが、俺達が話を聞いてくれそうもないと判断したのか、やがて不貞腐れたように椅子へもたれかかった。どうやら体力が尽きたらしい。
当たり前の反応とはいえ、先が思いやられるな。
コアンドロ氏は苦笑しつつ、カーミン女史の髪を愛おしげに梳く。あそこまで言われて平気なのかと、俺は背筋に薄ら寒いものを覚える。
「彼女を不安にさせたのは儂だ。申し訳無い、許してやってほしい」
「状況が状況ですし、構いませんよ。私は一人ならどうにでもなるので、彼女を気にしてあげてください」
そう労うと、コアンドロ氏は頭を下げて俺に鍵を差し出した。
「これは?」
「二階の奥にある書斎の鍵だ。壁際の棚に資料があるので、いつでも回収してくれ。穢れとは無関係なものもあるが……全て持って行っても構わない」
「畏まりました。では早速、確認させていただきます」
カーミン女史を宥める時間が必要だろうし、俺がいたところで事態は改善しない。俺はコアンドロ氏と握手を交わし、互いの健闘を祈ってその場を辞した。扉を後ろ手に閉め、細く息を吐く。
恐らく――再会の可能性は五分といったところか。
コアンドロ氏は根拠も無く出来るとは言わない人だ。そういう人間が策を練ったと言うのだから、きっと劣勢を引っ繰り返す何かはある。そうなると懸念されるのは、やはりカーミン女史だな。
……自己満足だとしても、少しはおまけしておくか。
俺は懐から魔核を取り出し、まずは簡単な棒を作る。それから片方の端を枝分かれさせ、全体の表面をわざと粗し、滑り難くした。出来上がったものを何度か廊下に突いて、感触が悪くないことを確かめる。
安定感のある多点杖なら、少しは動き易いだろう。研究外の資料については、これを対価としておく。
……協力は出来ないにせよ、二人が生き延びてくれた方が精神的に楽なことは確かだ。
俺は完成品を壁に立てかけ、書斎へ向かう。
そうして穢れに関する資料と数種類の図鑑を回収し、速やかに屋敷を脱出した。
今回はここまで。
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