最善を尽くす
龍で空を駆け抜け、一気にカイゼン首都へ。
久々に見たコアンドロ邸は、濃密な穢れに飲み込まれていた。強度の低い者でもそれと解りそうな澱みに、己の目を疑う。
「これは……」
「さあ、入ってくれ。必要なら浄化をしてくれて構わんよ」
その必要は無いが、俺が教国に行っている間に、一体何が起こったのだろう。ひとまずコアンドロ氏の言葉に従い、そのまま中へ入った。生活音のしない世界は居心地が悪く、不気味なものを感じる。
どれだけ探知を飛ばしても、周辺に真っ当な人間は見つからなかった。
「どうしてここまで……前はもっと制御されていませんでしたか?」
「汚染が限界に達したようでな、気を抜くと外に漏れてしまうのだ。流石に不都合があるので、ここだけに留めてはいるがね」
「それで復調するものでもないでしょう。……地下よりも先に、コアンドロ様をどうにかすべきですね。少しでも穢れを抜かないと」
こうなると穢れ祓いを使うよりも、取り込んでしまった方が早い。
俺は敷地内に漂う穢れをかき集め、そのまま体内へ吸収した。邪精の権能が強化されたのか、体が活力で満ちる。
コアンドロ氏は周囲の様子を確認し、呆然と口を開けた。
「体が楽になった……あれだけの汚染を、この短時間で……? 教国の連中が使う浄化ではないな。君は、何の力を得たのだね」
「自分でもよく解っていないのですが、許容量を超えて一度破綻した結果、体が穢れに順応したようです。穢れ祓いも勿論使えますよ」
「大変興味深い症例だな。偶然もあったとはいえ、儂の研鑽など簡単に飛び越えたか。やはりあの時、君を選んだことは間違いではなかったようだ」
そうは言っても、技術でいえばコアンドロ氏は俺を圧倒している。敷地に沿って完全に汚染を封じるなど、やり方の想像すら出来ない。
ただの人間のまま、よくここまで穢れを操れるものだと心底思う。
「ご謙遜を、私など足元にも及びませんよ。……地下の女性については全力を尽くしますので、どうやって穢れを管理しているのか、後で教えていただいても?」
「こんな技術が知りたければ、幾らでもお教えしよう。資料は残してあるから、根こそぎ持って行きたまえ。……ああ、久々に調子が良いな。今のうちに作業を進めようじゃないか」
「では早速」
コアンドロ氏が待ち切れないようなので、すぐさま地下へと向かう。以前と変わらず、女性は蛇もどきに巻かれ床に横たわっていた。
邪精となった所為か、初回の時よりも周囲の状況がよく解る。何から始めるべきか悩ましいが……やはりここは、縛めを外すところからか?
試しに、まずは女性を縛る蛇もどきに手をかけ、力任せに引き剝がす。形はしっかり保たれているのに、中身は完全に汚染され、ほぼ液状化していた。俺は手に付着した体液を捏ね回し、その正体を『観察』によって類推する。
なるほど。仮死状態になったのは、穢れだけじゃなく毒の所為でもあるのか。
彼女の体内にも穢れはあるのだが、何年も経過している割に、あまり汚染が進行していない――というより、大半が表層で留まっている。蛇もどきによって撃ち込まれた毒が穢れを弾き、内臓の状態を保っているようだ。
……穢れに対し、魔術によって抵抗することは出来る。そう考えると、この毒は陰術で生成したものと似た性質を持っている? だから死亡には至らなかった?
直感が、これは使えるとしきりに訴えている。
「コアンドロ様、この生き物の正体については調べてみましたか?」
「特殊な個体のようで、調べても情報が出て来ないのだよ。何か気付いたことでもあったかね?」
「こいつ、毒を持ってます。穢れの他にも対策が必要なので、ご存知であればと思ったのですが……不明であればひとまず構いません。ただ可能であれば、綺麗な水と消毒液を用意しておいてください。後で洗浄に使うかもしれないので」
依頼に従い、コアンドロ氏はすぐさま上へと駆けていった。それを見送りつつ、俺はこっそり蛇の体液を回収する。中身が漏れないようしっかりと封印して、大事に懐へ仕舞った。
後で要分析だな。
さて、体液の詳細は解らず、血清が無いとしても、毒は陰術の領分だ。手が出ないという訳ではない。
地術で作った針を彼女の腕に刺し、水術によって血液を操作しつつ、陰術を以て毒を抜き取る。そして、邪精の力で全身の穢れを奪い去る。これが工程となるだろう。
やることは多いが、とにかく始めるしかない。
身に付けた技術の全てを使い、慎重に処置を進める。一つ一つは難しくなくとも、失血死の危険性があるため手は抜けない。何処で仮死状態が解除されるかも解らず、『観察』と『集中』も併用しているため、脳の処理が追い付かなくなりそうだ。ものの数秒で、早くもこめかみが悲鳴を上げている。
強力な浄化が使えればそれだけで済むのにと、内心で苦笑した。
いつだってそうだ、必要な時に必要な力が無くて、俺はしょっちゅう困っている。それでも、自分が持っている手札で戦うしかない。独り立ちとはそういうことなのだと、今更ながらに思い知る。
ああクソ。こんな時、ミル姉か師匠の手を借りられたなら。
とはいえ、ここにいない人間を頼っても仕方が無い。慌ただしさに苦しんでいると、コアンドロ氏が水の容器を抱えて戻って来た。丁度良いとばかりに、俺はもう一つお願いをする。
「申し訳ございません。コアンドロ様、魔力の回復薬はありますか? あと、気付け薬をいただければ助かります」
「儂のことは気にするな。必要な物は何でも用意するから、待っていてくれ」
応じるコアンドロ氏の息は完全に上がっている。ただ、老人をこき使っているという感はあれど、こちらとしても余裕が無かった。
程無くして届けられた薬瓶を呷り、簡単に補給を済ませる。ついでに気付け薬を嚙み砕けば、口中にきつい苦みが広がった。
良し、これで少しは気が紛れる。
しかし……必要な仕事とはいえ、血液中から毒だけを選り分ける作業が苦痛になってきた。目に入る汗が鬱陶しく、何度も額を拭う。休憩を挟もうにも、『集中』を切らした瞬間に失敗しそうで、なかなか区切りがつけられない。
残魔力、魔術行使、彼女の体調の変化――管理すべき項目が本当に多過ぎる。いつまで続ければ結果が出る?
いや、俺が終わりまで保つか?
不安を残したまま作業を進める。そうして丁寧に丁寧に血液から毒素だけを絞り、体内からほぼ蛇の気配を感じなくなった頃、ようやく女性の体が微かに動いた。
――ついに来たか?
首に指先を当てると、本当に僅かながら脈を感じる。騒ぐな、慌てるな、これを途絶えさせる訳にはいかない。
終わりが見えたことで、急にやる気が漲ってくる。逸る気持ちを抑え、深呼吸を一つ。折角の治療の効果が無為にならぬよう、細心の注意を払って仕上げにかかった。
体表に溜まった穢れを少しずつ吸収し、状態を確認する。体が腐っていたり、血が止まっていたりといった異常は見られない。念押しで浄化と穢れ祓いを併用し、懸念の全てを払拭した。
……もう見落としは無いよな?
毒と穢れについてはもう残っていない筈だ。問題は無いと思うが、結果がどうなるかは待ってみるしかない。
異能を酷使した所為もあって、全身が強烈な疲労感に包まれている。俺は石で出来た床に腰を下ろし、火照った体から熱を逃がした。
「……終わった、のかね?」
「ええ。少なくとも、呼吸は戻っていますよ。ご自身でも確かめられては如何です?」
俺がそう答えると、コアンドロ氏は徐に彼女の口元へ手を翳し、僅かな空気の揺れに身を震わせていた。目の端に涙が滲み、ついには耐え切れなくなって膝を屈する。
「おお、おお……! 止まっていた時が、再び動いている……!」
「コアンドロ様、応接室の椅子をお借りします。少し休ませていただきますので、何かありましたらお呼びください」
まずはお疲れ様でした。どうぞごゆっくり。
返事は聞かずに地下を出る。万事解決とは言わないまでも、一定の成果は挙げられただろう。あんなにも焦がれていた再会の場面に、他人がいては興醒めだ。野暮な真似はすまい。
俺は口にした通り上に戻り、記憶を頼りに応接室を探り当てる。部屋に入るや否や、気が抜けて視界がふらついた。倒れないよう椅子に背中を預けると、瞼が勝手に降りていく。
龍の制御に続き、全力の魔術行使と穢れの吸収を長時間……あまりに力を使い過ぎた。『健康』があるとはいえ、頑張れば頑張っただけ消耗はする。やり遂げられたのは、単なる運だろう。
まあ色々あったが、とにかくこれでコアンドロ氏の依頼は達成した。穢れを広げる人物を抑えた以上、教国も工国も少しは落ち着く筈だ。
――我ながら、良い仕事をしたよな?
今回の成果については、胸を張っても良い気がする。大袈裟でも何でもなく、本当に国を救ったのだ。個人でやる仕事ではない。
でも、やってやった。
誰に命じられるでもなく、自分の意思で決めて、自分の力で結果を出した。やれる範囲のことは全て解決した。後の問題は彼女がいつ目を醒ますか、ということだけだ。
だから逆に……彼女の目が醒めるまで、どうしても不安は残り続ける。
そのまま死ぬことはないと思う。ただ、俺がどれだけ最善を尽くしても、復帰出来るかどうかは当人の生命力次第だ。もしかしたらすぐに起きるかもしれないし、何日もかかるかもしれない。それでもきっと、コアンドロ氏は彼女の傍らで待ち続けるのだろう。
頼むから、穏便に事態が収束してほしいと願う。国を敵に回し、穢れに塗れてまで頑張ったのだ。コアンドロ氏には報われてほしい。
そうじゃないと、俺も報われない。
人を救うとはなんと難しいのだろう。そんなことを悩んでいるうちに、俺はいつしか眠りに落ちていた。
今回はここまで。
ご覧いただきありがとうございました。