逃走
龍の背に乗って、国境沿いを高みから見下ろす。
騒ぎになっているだけあって、街はうっすらとした穢れに覆われていた。場所によって濃淡があるのは、恐らく目の前のことに精一杯で、全体の状況が解っていないからだろう。俯瞰だと作業の粗がよく解った。
すぐさま人体に影響を及ぼすほどではないにしろ、破綻はかなり近そうだ。
「角度が悪いな……もうちょっと下がってもらえる?」
「グルッ」
俺は龍の首を何度か叩き、射撃の位置を調整する。そして丁度良い高度になったところで穢れ祓いを乱射し、穢れの大半を消し飛ばしてやった。
流石は祭壇の恩恵なだけあって、非常に便利で強力だ。
さて、これくらい場が整理されれば、下手人の位置も解りそうなものだが……、
「ん、あそこか」
あまりに濃縮された、純粋さすら感じる穢れ。清浄な空気の中で、コアンドロ氏の気配はあまりに目立っていた。
ところで、指名手配犯が内部に入り込んでいるのだが、兵は一体何をしているのだろう?
俺は街から離れたところに着陸し、龍に隠れているよう指示を出す。そのまま門を潜って街へ入り、目的地へと真っ直ぐ進んで、屋台で休憩中のコアンドロ氏に声を掛けた。
「どうも、ご無沙汰しております」
「おお、久し振りだな! まさか、工国側から教国に入ったのかね? 遠回りだったろうに」
「いやいや、王国側からですよ。首都を経由してこっちに来ました」
再会を大袈裟に喜ぶと、コアンドロ氏は俺に飲み物を奢ってくれた。渡された椀を一息に飲み干せば、よく冷えた果汁が喉に心地良い。コアンドロ氏は追加を注文しつつ、濁った眼をこちらへ向けた。
「早速だが……首尾は?」
「上々ですね、技術は身に付けました。街中の気配が消えたのは解ったでしょう?」
「先程のは君だったか! なるほど、こいつは期待出来そうだ。追加は必要無いようだね」
「結構です。気を遣っていただいたようで申し訳無い」
何となく予想はしていたが、街を人間爆弾で汚染したのは、穢れ祓いが使われる機会を増やすためだったらしい。騒ぎが起きて魔術師が配置されれば、秘術が使われることは想像出来る。そこで俺が術式を解析出来れば、目的は達成されるという訳だ。
ただ、俺がこの街を訪れるとも限らないのに、強硬策を選んだ点には疑問が残った。
「因みに、私が来なかったらどうしていたんです?」
「来るまで続けるつもりだったよ。一年くらい同じことを繰り返せば、噂を聞きつけてここを目指すと思っていたしな。儂が不在でも作業が止まらないよう、手配も済ませてある」
とんでもないことを、随分あっさりと言う爺さんだ。
確かに俺は、コアンドロ氏がいると確信したからこそこの街を訪れた。そう考えれば、まんまと彼の策に嵌っている。
この男だけは絶対に敵に回してはいけないと、改めて思い知る。すぐにでも街から引き離して、この場の安全を確保すべきだろう。俺と合流した以上、もう用事は無い筈だ。
「抜かりがありませんね。……コアンドロ様は、これからどうされるおつもりで? 私はこの街の状況を確認したら、そちらのお宅に向かうつもりだったのですが」
「おお、それは嬉しいね。正直なところ、儂もそろそろ限界を感じていてな。事を急いだのはその所為もあったのだ」
「限界って……軽く言わないでください。大事になりますよ」
邪精である俺と並ぶくらい、コアンドロ氏の体内には穢れが詰まっている。彼が死んだ場合、被害の規模は街ではなく国単位のものとなるだろう。
これは本気で急がないと拙いな。
「獣車よりも速い移動手段を確保してあります。すぐにでも動きましょう」
「そんなものがあるのかね?」
「ええ。……少し前に、龍を味方につけまして。折角ですし、空の旅なんてどうです?」
「素晴らしい! この年でそんな体験が出来るとは思わなんだ」
想定外だったらしく、コアンドロ氏は目を剥いて感嘆の吐息を漏らした。この人にも驚くという感情があるのか、と場違いな感想を抱く。
ともあれ、相手が乗り気になっている今が好機だ。兵達に見つかる前に、この街を離脱してしまいたい。
俺はコアンドロ氏の手を引いて、足早に門の外を目指す。しかし――そこに、ワイナを伴ったハナッサ殿が立ち塞がった。
……間に合わなかったか。
彼女は腰にぶら下げた短剣に手をかけており、明らかにこちらを捕らえようとしている。
「……フェリス殿、何故ここにいるのです?」
「どうしても外せない用事がありましてね。そちらとの約束もありますし、今出て行こうとしていたところです」
「そうですか。そちらの男性との関係は?」
こちらを睨む視線が厳しい。この感じだと、流石にハナッサ殿はコアンドロ氏の正体に気付いているようだ。
まあ、そうと解っていても、俺としては白を切り続けるしかない。
「以前カイゼンの首都で知り合った方です。これから帰国されるということでしたので、ご一緒しております。それがどうかしましたか?」
「出て行く……? 時間的に、首都へ戻った訳ではありませんよね。任務はどうしたのです」
もう今更そんなことはどうでも良いのだが、立場上、ハナッサ殿はそうもいくまい。お互いのためにも説得が必要だと判断する。
「コアンドロ様。なるべく穏便に済ませたいので、ちょっと失礼します」
「構わん、私はここで待っているよ」
俺はワイナが動かぬよう牽制しつつ、ハナッサ殿との距離を詰める。ハナッサ殿は短剣の柄を握り締めたまま、こちらの誘いに乗った。
内緒話を持ち掛けた瞬間、耳元で抑えた怒声が飛ぶ。
「貴方は、彼が何者なのか解っているのですか!? この国で要人の誘拐を企んだ犯罪者ですよ!」
そうして、ハナッサ殿は俺を逃がさないよう、脇腹へ短剣を当てがった。教国にとって、それだけコアンドロ氏は危険視される存在なのだろう。俺は敢えて刃先を避けず、平静を保つ。
「解っていますよ。教国では指名手配されているんでしょう? だから騒ぎにならぬよう、ご退場いただこうとしているんです」
「解っていながら、逃亡を許すつもりだと?」
刃先が皮膚を傷付け、血が滲み出してくる。それでも俺は抵抗せず、とにかく相手を宥める。
「いや、街中で汚染者を破裂させたのは彼ですよ? ハナッサ殿が気付いていないだけで、住人はもう人質に取られてるようなものなんですよ。国境を滅ぼす訳にはいかないでしょう?」
どうしてもコアンドロ氏を許せず、被害を惜しまないのであれば、やってみると良いだろう。少なくとも河守の時と違って、俺に街を犠牲にするつもりは無い。
元々あの一件だって、住人を守るためだったのだから。
ハナッサ殿は身を引くと、泣きそうなほど顔を歪めて歯軋りをした。
「穢れに屈しろと、そう言うのですか……ッ!」
「そこまでは言いませんが、そもそもあの人が侵入出来ていること自体おかしいんです。多分内通者がいるので、先にそちらをどうにかするべきでは?」
共犯者が処分されて、かつ俺の仕事が巧くいけば、コアンドロ氏は教国に手出ししなくなる。今の最善はそれくらいだろう。
感情を持て余したハナッサ殿の手から、血のついた短剣が転げ落ちる。その瞬間、ワイナが俺の背後を取って首に腕を回した。
「ハナッサ様に何を言ったのです」
「お前に関係があるのか?」
白状しないなら、ここで締め落とす――意図は充分伝わったものの、悲しいかな、何ら脅威ではない。
俺は膝を曲げて彼女を投げ飛ばし、すかさず肩を踏み砕く。そして、祝福された短剣を耳元に突き刺し、慌てるハナッサ殿を手で止めた。
「クッ、王国貴族ともあろう者が、使節団の邪魔をするつもりですか!」
「戯言をぬかすな。次に顔を見たら容赦しない、そう伝えただろう? 使節団じゃなくて、対象はあくまでお前個人なんだよ」
そう告げて首に手をかけ、わざとらしく殺気を出せば、ワイナはあっさりと失神した。
弱い癖に増長している。貴族としても武人としても、本当に不適格だ。
……カッツェ家に他の後継者がいたら、ここで処断していたものを。
ハナッサ殿は気絶したワイナを恐る恐る覗き込み、安堵の溜息を漏らした。
「殺しては……いないようですね。彼女と何か因縁が?」
「この女が領地を放棄したところに、以前たまたま居合わせましてね。一人の貴族として、どうしても認めることが出来ないのです。まあ、コイツのことはさておき……お預かりしていた武器はこの通りお返ししますので、後のことはよろしくお願いします」
「……甚だ不本意ではありますが、承りましょう。取り敢えず、街の穢れを消してくれたことだけは感謝します」
不満を述べつつも、ハナッサ殿は俺がコアンドロ氏を引き受けると認めてくれたらしい。まあ、住民が汚染される事態は避けられるため、嫌でも認めざるを得ないのだろう。
損な役回りを押し付けてしまい、本当に申し訳無い。
「全部は消しきれていませんので、そこだけはご注意を。お世話になりました」
「構いません、早く行きなさい!」
羽虫でも追い返すかのように、ハナッサ殿は手を振って俺を退ける。教国と敵対する意図は無いが、彼女が怒るのも仕方無い話だ。それでも、状況的に納得してもらうしかない。
会釈をしてコアンドロ氏の元へと戻ると、彼は何故だか満面の笑みを浮かべて俺を迎える。
「強さを見せつけた上で、彼女を言いくるめるとは見事なお点前だ。相手の気が変わらぬうちに、急ごうではないか」
「ええ、ええ、そうしましょう。ああ、そっちじゃないです。この通りは右に曲がってください」
コアンドロ氏は燥いだ様子で駆け出す――年齢の割に元気である。
まあ多少注目を浴びてしまったが、穏便に済んだということにして良いだろうか。
被害を抑えたいだけで、犯罪者に与する意図は無いのになあと、俺は内心で頭を抱えた。
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