離脱
明けて翌日。
懸念していたよりもずっと早く、サファは前線へと旅立った。何かにつけては憎まれ口を叩いていたのに、最後は寂しそうな顔を見せて、国境沿いへと走っていった。
俺の手には、去り際に渡された謎の筒が残されている。蓋を取ると、中には粘り気のある液体が詰まっていた。
「……何だこれ?」
「それは軍部で使われている胃腸薬ですね。不慣れな食事で体を壊さないように、という配慮だと思います」
「元々俺に支給される筈の物資を、忘れていたとか?」
「いいえ。恐らく、グァルネから解放してくれたことのお礼ではないでしょうか。フェリス殿はご存じないでしょうが、あの男は本当に評判が悪くて、味方に手を上げることすら多々ありました。立場上、仲間を殺した者に頭は下げられないので、サファもああいう態度になってしまったのではないかと」
何とまあ、解り難い……。
殺されかかってもなお俺に向かってくるので、随分根性があるなと思っていたら、そんな裏があったのか。今度会った時は、もう少し優しくしてやっても良いかもしれない。
何となくサファを案じていると、それを打ち切るようにハナッサ殿が手を叩く。
「さて、ここでしんみりしている訳にもいきません。今後は私がフェリス殿の監視役を務める、と言いたいところですが……こちらにも他の任務がございます」
「というと、浄化ですか?」
「それを含め、色々ですね。私としてはフェリス殿が前線に赴かない限り、行動を縛るつもりはありません。協力も不要です」
随分と真っ正直に来たな。もう少し駆け引きがあるかと思っていたので、この展開は意外だった。
どうやらハナッサ殿には、こちらに構っていられない事情があるようだ。監視を外してくれるなら楽ではあるが、理由が気にならないと言えば嘘になる。
「そちらの意向には従いますよ、私としても悪い話ではありませんしね。とはいえ、事情くらいはお伺いしても?」
「まあ、黙っていてもいずれ解ることですからね。……町を歩いていて、やけに周りから注目されるなと思いませんでしたか?」
主に兵士からではあるが、確かに到着時点から視線は感じていた。ただそれは、俺の特殊な立場によるものだと考えていた。
「私が軍上層部から送り込まれた人間だから、という訳ではない?」
「違います。これはフェリス殿に起因する話ではありません」
ではどういう理由なのか。悩んでみても答えは浮かばず、俺はただ首を傾げる。
答えを待っていると、ハナッサ殿は国境沿いの方角を睨みながら、状況を語ってくれた。
「皆はフェリス殿というより、余所者を警戒しているのです。三か月ほど前からでしょうか、国境を越える者――特に工国側からやって来る者の中に、汚染者が混じるようになりました。私達は検問を強化するなどの対策を取っていたのですが、半月ほど前に、国内でも例の無い大事件が発生してしまいました」
聞けば、工国からやって来た商人が検問を突破した挙句、街中で文字通り爆散したのだという。男の体内は大量の穢れで満たされており、それが拡散したことによって、周辺一帯は甚大な被害を受けた。
この事態をどうにか解決するため、軍部の陽術師はほぼ全員が浄化に駆り出されているらしい。
脳裏に艶の消えた双眸が過る。何が狙いなのかはさておき、下手人の顔が鮮明に浮かぶ事件である。
「……なるほど、おかしいとは思っていました。かねてより穢れへの対処法を学んできた教国が、どうして陽術師の不足に陥っているのか。生物が多い場所では、祝福による浄化は使い勝手が悪いからですね」
「その通りです。まあこういった状況なので、言葉は悪いですが、フェリス殿に構っていられないというのが本当のところでしてね」
状況を理解すると同時、少し気になっていたことに納得がいった。
使節団は汚染地区の手前で補助をさせるという話だったのに、実際は事件のあった国境沿いの街で活動している。サファは何気無く教えてくれたが、これは当初の予定とは齟齬が生じているということだ。
――本来なら、彼等はこの町で活動している筈だったのではないか?
アーウェイ殿が嘘を吐いたとは考え難い。何故なら、使節団を前線に送り込めと提言したのは俺だからだ。そう決めたならそう言えば済む。
断片化された情報が頭の中で組みあがっていく。
俺を国境から遠ざけたいのは、足手纏いだから、というだけではないな。
ハナッサ殿は恐らく人手不足を理由に、使節団を独断で前線に送り出したのだ。拙い陽術師であってもそれなりの強度はある訳だから、緊急時には役に立つ。ただ、それを本人達に悟られる訳にはいかないため、俺と接触する可能性を潰そうとしている。
全ては想像に過ぎない。ただ、答え合わせをする必要も無い。
ハナッサ殿をそうさせたのは、国が危機に陥っているというだけではなく、連中のこれまでの振る舞いもあるだろうから。
「……大変な時期に、お手を煩わせる気はありません。仕事が無いのなら、私は一度引き上げましょう」
「いや、そこまでは――」
「上層部には、先の事件で現場は手一杯だった、とだけお伝えしますよ。ご心配無く」
いちいち口止めしなくても、余計なことを言ったりはしない。俺は手を振ってその場を辞す。
そして、ハナッサ殿に付着している微かな穢れを、気付かれないよう吸い取った。
どうにか状況を打破しようとして、彼女は足掻いているだけだ。自身の汚染に気付かないほど頑張っている人間の背中を撃つような真似はしたくない。それが軍人として正しくない行為だとしても、民を助けようという気持ちは本物だろう。
そこは素直に乗り切ってほしいと思う。
むしろ問題なのは、指名手配されているにも拘らず、再び教国に手を出し始めたコアンドロ氏の存在だ。限界が近づいて切羽詰まっているのか、ただでさえ攻撃的だった行動がより危ういものに変じている。
人形を幾ら始末したところで、あの人は手を緩めまい。
俺が直接交渉をすれば、すぐに退いてくれそうではあるが……コアンドロ氏との繋がりが明るみに出ると、今度は別の問題が発生する。国境沿いの街に行くのは、教国を離脱する時になるだろう。邪精となった俺が定住出来る場所は、クロゥレン領かカイゼンの首都に限られているため、彼を官憲に突き出すのは避けねばならない。
……何か事情があるのだとしても、もう少し大人しくしていてほしかった。
まあ、これも巡り合わせか。祭壇へ後押しされている気さえするな。
俺は宿の部屋に戻り、荷物を全て回収する。そのまま門の外へ向かおうとすると、ハナッサ殿が慌てて俺を追いかけてきた。
「フェリス殿、少々お待ちください」
「どうしました? 見送りなら結構ですよ」
「いえ、一つ確認しておきたいことがありまして。差し出がましいお話ですが、このまま依頼を放棄されますと、フェリス殿は改めて罪を問われるのではありませんか?」
あれだけ言っておいて、俺を引き止める?
なるほど、流石にあんな発言では安心出来ません、と。それもまた道理だな。
「私が兵を殺めたことは事実ですからね。処罰をされることも、当然に有り得るでしょう。……それに何か問題でも?」
死ぬことはもう怖くない。自由を失うことこそ口惜しい。
ただ実際のところ、あの一件については双方に非があるということで、話は既に済んでいる。死罪のような重い刑にはならないだろう。
あっさりとした俺の態度に、ハナッサ殿は目に見えて怯んだ。
「自分は助かるという確信があるのですね。軍人を三人も殺しておいて……上層部と、どんな密約を交わしたのです?」
「別に何も? 私を軍部に連れて行くと決めたのはハルネリアだ。そんな融通の利く男ではないことは、貴女だってご存じでしょう」
引き締めようとした唇が歪んでいる――顔に出過ぎだな。
どうやらハナッサ殿は現場一辺倒で、こうした遣り取りはあまり得意ではないらしい。不慣れな人間が無理をするから、もう反論に困っている。
ここに俺を留めたかったなら、自身の警戒心や嫌悪感を押し殺して、適当な仕事を与えておけば良かったのだ。精神的に余裕が無かったのかもしれないが、こちらを陽術の使えない邪魔者と見縊ったのが最大の失着だった。
……いや、違うな。
どうせ俺は町を抜け出して、祭壇へ向かうつもりだった。ハナッサ殿の狙った展開など、最初から叶わなかった、という方が正解か。
これ以上は時間が無駄になるだけだ。お互いの仕事のためにも、もうこの辺で終わりにしよう。
「どう言葉を重ねたところで、ハナッサ殿は私を信じることなど出来ないでしょう。こちらも説得をする気はありませんしね。どうにもならないことを気にしても、何も解決しません。民を守りたいのなら、貴女は私のことなど忘れて仕事に集中すべきです」
「……ッ、部外者だからといって、勝手なことを仰いますね!」
「勝手なのはお互い様でしょう。性格が合わないなら、猶更一緒にいるべきではないんですよ。それでは」
ハナッサ殿に倣って言うのなら、貴女に構っていられない。本格的な喧嘩になる前に、俺はさっさと町を出た。
別にあの人を嫌っている訳ではないが、まともに会話の出来ない状態の人間と話すと、とにかく疲れる。やがて状況が落ち着いて、彼女が首都に戻る頃には、俺の発言に嘘は無かったと解ってくれるだろう。
そう願いたい。
大体にして、長年軍部で真面目に勤めていた人間と、味方殺しの他国人なら、前者を信じるのが普通の流れだ。俺が告げ口をしたところで、どれだけ意味があるというのか。自分は最善の道を選んだと、胸を張って生きていけば良いのだ。俺を巻き込まないでくれ。
……何だか愚痴っぽくなってしまった。
不器用な奴ばかりだと嘆息してから、地面に魔力を流す。足裏に跳ね返る感触で大体の方向を探り、祭壇を目指して走り出した。
今回はここまで。
来週は休日出勤のためお休みです。次回は7/14を予定しております。
ご覧いただきありがとうございました。