風呂
――予想していたより、遥かに手緩い。
確かに休憩をほぼ取らず、障害物を無視するような経路で首都へ向かっているが、嫌がらせとしてはその程度のものだった。魔獣も全てハルネリアが処理してくれるし、最低限の食事も提供されている。俺は足裏の強化と『健康』で消費される魔力を管理しているだけで、鉈を抜く必要すら無かった。
建前なのかと思いきや、急いでいるというのは本当のことだったのかもしれない。そうでなければ、自身の睡眠時間まで削ったりはしないだろう。
とはいえただ走っていれば良いだなんて、俺からすれば気楽なものだ。初心な新兵でもなし、これ以上に厳しい移動は何度も経験している。
特区から中央へと夢中で駆けた記憶を振り返っていたら、首都にはあっさりと着いてしまった。
俺達は門番の前を会釈一つで素通りし、真っ直ぐに軍の施設へと向かう。
「うむ……無事に到着したな。説明しておくと、右手側の入り口が軍の詰所に繋がっていて、左手側が宿舎になっている。上官がいるのは詰所側だが、宿舎の中に風呂があるので、まずは体を少しでも癒してくれ。その間に、服や靴をこちらで手配しておこう」
「ああ、風呂があるとはありがたいな。お言葉に甘えさせてもらうよ」
それなりに気を遣っていたつもりではあるものの、野営が続いて全体的に汚れていることは事実だ。人に会うのが失礼な状態ではあるだろう。
俺は足を綺麗に拭いてから、指差された扉を潜る。兵士達は俺が裸足であることを気にはすれど、特に何かを言ったりはしなかった。むしろハルネリアどころか、こちらにまで敬礼をしてくれる。
国境沿いとは違い、ここは教育が行き届いているらしい。
「ふうん……これが教国の、一般的な兵士という訳か」
「グァルネを当たり前だと思われては困る、あれはあくまで例外だ。君からすれば、兵士というだけで一括りかもしれんがね」
「あれが当たり前なら、国として成り立たんだろう。ただまあ、あれを野放しにしていたのはお前達の責任ではあるな」
そして、不要な殺しをしたのは俺の責任という訳だ。
ハルネリアは特に反論せず、真っ直ぐこちらへ顔を向けた。俺も口を噤んだまま、正面からその視線を受け止める。お互い、自身の失着については充分過ぎるほど理解していた。
暫しの睨み合いが続き、やがて、どちらからともなく息を抜く。
……短い付き合いとはいえ、間近で一人を『観察』し続けたのだから、ハルネリアの人となりは何となく掴めている。
この男は軍人の鑑だ。もう頭の中で切り替えは済んでおり、あの一件について怒りを引き摺ったりはしていない。むしろ、軍規に反した連中が悪いとすら思っている。
だから俺を咎める者がいるとすれば、これから会う上官の方になるのだろう。
「面会は風呂の後すぐになるのか?」
「どうだろうな。これから話をしに行く訳だが、場合によっては夜になるかもしれん。どうあれ都合がつくまでは宿舎にいてもらうことになる」
ゆっくり休めるなら、ただ部屋に籠っているというのも悪くはないか。
今後の展開がどうなるかは読めないし、難しいことは忘れてまずは風呂だな。
「取り敢えずは解った。まあ、何かあるならその都度言ってくれ」
「ああ。……さて、風呂はここだ。準備が終わったら声をかけるので、暫く好きに過ごしてくれ」
言うだけ言うと、ハルネリアは颯爽と廊下を駆けて行った。態度に微妙な気遣いを感じる――文句を言わず行軍についていったことで、多少は評価されたらしい。良くも悪くも真っ直ぐな男だ。
……折角のご厚意だし、言葉の通り好きにさせてもらおう。
俺は時間があるうちに事を済ませるべく、脱衣所の扉を開ける。そのまま泥の跳ねた服を空いている箱に脱ぎ捨て、すぐに浴室へと入った。他の兵もここを使っているのだろうが、今は中に誰もおらず、自由に使えるようになっている。
たっぷりの湯気と熱気が体を覆い、心地良さを感じる。領地を出てかなり日も経っているし、風呂なんて本当に久し振りだ。
飛び込みたくなる気持ちを抑え、床に転がっている手桶で頭から湯を被った。
「ッ、ふう……」
就寝前には水術で体を洗っていたのに、それでも余分な皮脂が流れ落ちていく気がする。あちこちを擦って一通り綺麗になったと判断してから、湯船に全身を沈めた。手足の先端が熱で痺れ、じわじわと解れていく。
控えめに言って最高だ。
汗を掻いたらお湯から出て、全身に冷水を浴びる。冷えてきたらまた浴槽に戻る。誰かが呼びに来るまで、幾らでもここにいられる気がする。
そうして、どれくらいの時間が経っただろうか?
贅沢な時間を堪能していると、不意に浴室の扉が勢い良く開いた。大きな音が室内に反響して、俺は思わず振り返る。
「……ん、あ、あれ?」
鋭い目をした女が、裸身を隠しもせず、無言でこちらを睨んでいる。引き締まった手足や腹のあちこちに、古い傷痕が幾つも刻まれている――異性としての性的な魅力よりも、無駄を極限まで削いだ刃物のような肉体美が目を惹いた。
……はて、俺は女湯に入ってしまったのだろうか? ハルネリアに案内された場所だから、間違ってはいない筈なのだが。
「失礼、覗きをするつもりはありません。すぐに出ます」
「構わんよ。君がハルネリアの言っていた、王国からの客人だな?」
「そうです」
襲われるとは思わないのだろうか? 男がいると解っていて全裸で入って来るとは、随分肝が据わっている。
ただまあ彼女であれば、過ちはそうそう起こらないのかもしれない。何せ無手であるにも拘らず、相手からはハルネリアに近い圧力が放たれていた。
「貴女がハルネリア殿の上官、ということで間違いありませんか?」
「一応はそうなっている。まあ、名目だけで実権としてはアイツもほぼ同じだ。畏まることはない」
そう言うと、彼女は掛け湯をして風呂に滑り込んだ。洗い場から浴槽に移ったというのに、水面に波が立っていない。
ハルネリアと動きの雰囲気が似ている。
「……同じ流派?」
「ほう、気付くか。いやそうか、道中でハルネリアの戦闘を見たなら、当たり前の答えだな」
「力感が無い分、貴女の方が厄介だがね」
正直な感想を述べると、彼女は初めて笑みを覗かせた。
「君こそアイツの全力の行軍に、当たり前の顔でついてきたらしいじゃないか。しかも夜の見張りまでこなすとなれば、並の体力ではない。若手に見習わせたいところだよ」
「過分な評価だな。戦闘は全てお任せだったし、丁重に扱ってもらってありがたい限りだ」
肚の内を探るように称賛を交わす。視線を絡め、どちらからともなくお湯の熱気に溜息を吐いた。
状況が状況がとはいえ、これでは互いの警戒心を煽るだけだ。今後の付き合いを考えれば、得のある遣り取りではない。
まどろっこしいことは止めにしよう。
「沙汰については決まったのか?」
「ハルネリアから大体のことは聞いた。どちらにも悪いところはあるし、敢えて大袈裟にするだけの話ではない、と私は考えている。……ただ決定の前に一つ確認したいのだが、王国から近々やって来る使節団と、君は何か関係があるのか?」
使節団となると、恐らくワイナ達のことだな。あちらさんは俺と違って国策で動いているから、流石に通達があったのだろう。
「まるで無関係という訳ではないが、基本的には別口だよ。参加者に顔見知りがいて、同行しないか誘われたことがある、という程度だ」
何か他の情報でも持っていたのか、相手は素直に頷き納得を示した。
「なるほど。……うん、ならこれで君の処遇は決まった。君はこれから暫く、私の部隊と行動を共にしたまえ。実地で穢れ祓いについて学んでもらおう」
「うん? まさか教えてくれるのか?」
処断もされず、こちらの希望だけが叶うなんてあまりに出来過ぎている。俺が眉を跳ね上げると、相手は僅かに唇を緩めた。
「ふふ、無邪気なものだな。お咎め無しでは周囲に示しがつかんので、このような決定に至ったのだ。穢れと向き合い対処を誤れば、死ぬこともあると解っているか?」
……ああ、そうか。
既に汚染されているため意識していなかったが、普通ならこれは刑罰になるのか。とはいえ邪精になった俺からすれば、穢れは身近なものでしかない。
だとすると、悪い展開ではないな。
教国は処罰感情を満たすことが出来、俺は穢れ祓いの実態を知ることが出来るというのなら、帳尻は合っているだろう。
「その辺は重々承知しているんで、存分にこき使ってくれ。しかしその言い方だと、使節団はどうするつもりだ? 俺はさておき、彼等を危険には晒せない、という話になるんじゃないか」
「そこは私としても頭の痛いところでな。国賓を死なせる訳にもいかんし、かといって甘やかしても本質が伝わらない。断ろうにも国からの指示ではそれも叶わん。ああそうだ、使節団の力量はどれくらいのものなんだ?」
訊かれたところでどうこう言えるほど、連中のことは把握していない。ただ、カッツェ邸に強者特有の圧を持った人間はいなかった。
「国内でも優秀な者を集めたとは聞くし、低い訳ではないだろう。ううん、ただ……メリエラ・カッツェという魔術師がいてな」
「王国の天才陽術師か。彼女がどうした?」
「あの人は、連中では不足している、と判断していた。後は察してくれ」
告げた瞬間、上官殿は露骨に顔を顰めた。面倒なお客様相手でも、巧いことやってくれとしか俺には言えない。
彼女の気分が見る見るうちに沈んでいく様が、正面からだとよく解った。
「そうか……大変参考になる情報だったよ。今後は外交担当との付き合いを考える必要があるな」
「まあ今は実力不足でも、これから伸びる可能性は充分にあるさ。全員が不適格とまでは思わないし、そう悲観することは無い」
「気休めをどうも。はあ、お守りをさせられるこちらの身にもなってほしいものだね」
上官殿は小さく嘆くと、目を閉じて湯船に沈んでしまった。
使節団の成長が望み薄だということは、俺がどう濁してもいずれはっきりする。現場が他部署の人間に振り回されるというのは、何処の世でも同じであるようだ。
「面倒なのは事実でも、どうせ連中を前線に引っ張ってはいけないんだろう? 悩んだところでやることは同じじゃないか?」
「……ぷふぁっ。そう考えるしかないんだろうな。その分、君には手加減無しで厳しくいかせてもらうよ」
そう言うと、顔に張り付いた髪を払いながら、上官殿はだらしなく四肢を広げた。
隠そうという気はまるで無いらしい。
「なあ……貴族相手の特殊な接待を任されてる、って訳ではないんだよな? 俺も一応男なんだが」
「こんな傷だらけの女に、そんな役割を回す筈が無い。風呂というものは何者にも気兼ねせず、ゆっくりとくつろぐものだろう」
忠告したとて気にも留めない、か。
残念ながら、彼女の意識を変えることは叶わなかった。見た目が悪い訳ではないから、こちらとしても困っているというのに。
なかなかの変人に当たったと思いつつ、俺は諦めて天井に目を遣った。
今回はここまで。
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