おろかなものたち
水壁が解除され、毒水が大地へと広がる。中心には動かない二人が、ただ重なり横たわっている。
「ビックス様は近づかないでください、触れるとどうなるか解りません」
「しかし、あれは拙いだろう。何か出来ることは?」
「我々の獣車の中に、薬が入っています。赤い箱を持って来て下さい」
「解った、待っていろ」
ビックス様が獣車へ向かうと同時、俺は体内で魔力を巡らせる。陰術は陽術で打ち消せるとはいえ、元がフェリス様の魔術だ。格上の術を無効化するには時間がかかる。
二人は起き上がる気配が無い。
毒の除去を投げ出して駆け寄りたくなる衝動を、どうにか抑え込む。ここで焦ったら共倒れだ。酷くもどかしい時間をかけながら、二人までの最短距離を確保する。
「ふぅ――はぁ――」
意識を集中し、活性の陽術を二人に向かって打ち込む。反属性によって陰術を少しでも薄めると同時、彼らが本来持つ肉体の機能を呼び起こす。
暫く続けていると、ビックス様が薬を見つけて戻ってきた。
「これか?」
「ええ、それです。中にある小瓶を、ああ、全部種類は同じです。とにかく片っ端から振り撒いてください。そう、顔の辺りに」
ビックス様も伯爵家の子息であれば、中身に想像はついているだろう。貴族は外出時に、慣例としてその家において最も効果の高い秘薬を持ち歩く。使われないことが当たり前の、所謂お守りなのだが、有事の際にはやはり役に立つ。
術をかけ続けながら、二人の様子を窺う。蒼白だった顔色が、薬の効果で微かに赤みを帯びてきたように思える。胸も上下しているし、死んではいないようだ。
まだ油断出来る状態ではないものの、最悪は避けられたようで胸を撫で下ろす。ただ、この有り様では、二人とも回復にはかなりの時間を要するだろう。ジィト様に至っては薬以外の回復手段が無いため、領地に戻るまで苦しみが続く。
まあ……今回の件については本人が自分で招いたことだ。早期決着を嫌って遊んだ結果、フェリス様を本気にさせた。ミルカ様をして強者と言わしめた人間に対し、油断が過ぎたと言うべきだろう。
そうこうしているうちに、俺の横で薬瓶を空け続けていたビックス様が、ついに在庫を使い切った。
「これで最後だな。大丈夫そう、か?」
「ええ。……申し訳ございません、お手を煩わせてしまいました」
「構わん、良いものを見させてもらった。差支えなければ、フェリス殿は伯爵家の医者に診せようと思うが……ジィト殿はどうする?」
本来ならば治療をした上で戻るべきではあるが、あまり長く領地を空けられもしない。何より、自己回復の術を持たないジィト様を十全な状態にするには、治癒に長けた奥方様の力が不可欠だ。
「ジィト様は領地で治療いたします。それと、申し訳ございませんが、俺の力ではこの地を浄化出来ません」
どうにか細い道を作りはしたが、紫色に染まった土地はまだ疎らに広がっている。ビックス様はしゃがみ込んで状況を確認すると、顔を顰めた。
「こちらはフェリス殿の回復を待って、対応してもらうしかあるまい。しかし……魔術隊隊長の腕でも及ばぬ力量か。クロゥレン家の凡夫とは、彼にどれだけのものを望んだんだね?」
咎めるような視線に、目を逸らす。俺が何を望んだ訳でもないが、全体的に環境が狂っていたことは否定出来ない。
ただ、何が切っ掛けでここまでこじれてしまったのか、それだけが今でも解らずにいる。
「俺は、フェリス様に能力的な不足があったとは思っていません。相応の地位に就くだけの、熱意は無かったようですがね」
それも言い訳に過ぎないだろう。フェリス様が貶められる理由にはならない。
「――フェリス様のことを、何卒宜しくお願いいたします」
俺はただ頭を下げ、フェリス様の今後を祈った。
/
「ァ――、ッ!?」
猛烈な首の痛みで目を覚ます。見覚えの無い天井に混乱し、何が起きたのか記憶を探る。
ジィト兄を水の中に引き込んだ辺りからが思い出せない。ということは、また負けたのだろう。死ななかったから良いとは言え、あの男は滅茶苦茶が過ぎる。
まあ、暫く会うこともあるまい。
溜息をつく。それだけで全身が痛みを発した。『健康』に魔力を回し、感覚を誤魔化す。
「あー、しんどい」
熱があるらしく、頭が呆けている。喉がガラガラだ。朦朧とする思考の中で、ふと依頼されていた魔核包丁のことを思い出した。厳密な納期は無いが、いつ手をつけられるか解ったものではない。
このままではいかん。
魔力をより強め、特に痛んでいる部位へと意識を集中させる。まずは動ける程度に体を作らなければ。
「あら、目が覚めましたか? ……って、何してるんですか!」
顔を向けられないのでよく解らないが、気付けば、医者らしき人が部屋に入ってきていた。患者の状況を見に来てみれば、いきなり魔力を練っているので、慌てて止めに入ったのだろう。
状況を説明すべく、どうにか声を振り絞る。
「ああ、俺、回復系の異能なんです」
「それにしたって、貴方は絶対安静なんですよ! 素人が下手に処置をすると、かえって取り返しのつかないことになります!」
「なりません、俺のは、『健康』ですから」
世間では地味だと評価される『健康』だが、体を万全な状態に戻すという効果がある。『修復』なんかは肉体以外も治せる代わりに、骨が曲がってくっついたりすることもあると聞くが、『健康』は健やかではない状況を許容しない。
魔力消費が激しい以外は、優秀な異能なのである。
『健康』のことを知っていたのか、女医は呆れたような顔で俺の額を小突いた。
「事情は解りましたが、だからといって無茶をしていいということにはなりません。そういうのは、もう少し体調を整えてからにしてください。消耗して死ぬ人もいるんですよ?」
言いつつ、彼女は俺の頭を持ち上げる。もう片方の手には、薄緑色の液体が入った器があった。薬湯だろうか?
喉を締め上げられた後なので、嚥下出来るか自信が無い。だが、角度が巧いのか、液体は意外なほど胃に落ちていった。
「おお……」
傷付いた喉に潤いが戻るのが解る。風邪を引いた時のような不快感が薄らいで心地良い。『健康』によるゴリ押しばかりで、真っ当な治療を受けた経験があまり無いので新鮮だ。
水分の不足した体に、ゆっくりと薬が沁み渡る。
「シャロット、フェリス殿の様子はどうだ?」
くつろいでいると、ビックス様の声が聞こえた。そうか、これは誰の采配かと思ったら、ビックス様か。
当たり前のことが抜けていた自分に呆れる。あの場で意識を失ったのだから、俺をここまで運び込んだのもビックス様のはずだ。お偉いさんに何をさせているのかと内心焦るが、体はどうにも動かない。
「ああ、そのままで構いません。全身の骨に罅が入っているようですから、まともに動けませんよ」
毒鎧はあくまで攻めの手段であってほぼ防御力が無いので、あちこち折れているだろうとは予想していた。罅で済んでいるなら御の字だ。
しかしこうして聞かされてみれば、『操身』は体を操りはすれど、そんなに力は入らないのかもしれない。素手で岩を砕ける人間の攻撃を受けたにしては、驚くほど軽傷だ。ジィト兄が万全であれば、受けごと潰されていただろう。
「ご対応、ありがとう、ございます。……何日、寝てました?」
「まだ一日です。あれだけの状態から、よくここまで持ち直しましたね」
あれだけの状態と言われても、どうだったのか覚えていないので何とも返しようがない。女医に目で問うと、
「運び込まれた時は、死んでてもおかしくないと思いましたけどね。首の骨も折れかかって、呼吸もたまに止まってましたし」
医者が俺を咎めるように見るが、ジィト兄の殺意が高過ぎるのが悪い。武術師の世界十位が、素人相手に張り切り過ぎなのである。
「まあ、そう責めてやるな。今回の件に関しては、フェリス殿が悪い訳ではない」
「貴方がその場にいたんなら、悪いのは貴方じゃないの? 子供がこういう怪我をしないように目を光らせるのが、責任者の仕事だと思ってたんだけど」
それは確かに責任者の仕事だが、あの局面でビックス様を責任者として良いものだったんだろうか。止めようと思って止められるようなものではなかったし、単に俺達は、あの男の圧倒的な勢いに流されただけだ。
「いや……ビックス様を、責めるのは、お門違いですね。悪いのは、うちの兄です」
周囲のことを何も考えない、近年稀に見る大はしゃぎだった。あの状況に巻き込まれた挙句、何も知らない人間に責められるのは気の毒が過ぎる。
どんな身分を持っていようが、どうしようもないことはあるのだ。
「私、この子がどういう人間か何も聞かされてないんだけど……この子のお兄さんって?」
「お隣の子爵領の長男だな」
頭を支えてくれていた手が強張る。何か奇妙なものを目にしたかのように、女医が俺の顔を見つめる。
「んん? 子爵領の長男って……国内でもかなり有名な武闘派じゃないっけ? 実の兄が弟をここまで痛めつけたってこと? 何それ、意味が解らない」
戦うだけの理由はそれなりにあったのだが、ここまでやられる必要性については俺も解らない。
俺とビックス様は難しい表情で黙り込む。
「どう説明すべきなんだろうか」
「そういう、空気でしたし、そういう、人だからと、しか」
余人にどう思われようと、そういう場だったのだ。
言い訳を耳にして、女医は心底呆れたように、俺達を睨みつける。
「さてはアンタ等全員バカでしょ」
否定しかねる。反論する元気も無い。
溜息をついて、女医は俺の頭を枕へと戻した。
「取り敢えず、過ぎてしまったことはもうどうしようもないとして、暫くは絶対安静だからね。私が良いと判断するまで、外には出しません」
「そ、そうか。……フェリス殿、色々予定はあるかもしれませんが、ひとまず体を休めてください。滞在費用についてはこちらで持ちますし、何か要望があれば出来る限り対応しますので」
ありがたい話だが、随分気前が良いな? 何に貢献出来るでもない小僧に対して、破格の待遇だ。負けっぷりがあまりに無様で、同情されているのだろうか。
「どう、して」
疑問に包まれていると、ビックス様は朗らかに笑った。
「理由は幾つかあります。まず第一に、フェリス殿の陰術の影響があの一帯に残ったままなので、どうにかしてほしいのです」
ああ……結構気合入れて術式を組んだので、グラガス隊長もすぐには対処出来なかったのだろう。それは確かに俺がどうにかする必要がある。あまり悪影響が残らないようにしなければ。
「次に、私がフェリス殿のお力になりたいから、ですな。最後どうなったか覚えていますか?」
「いい、え」
ぼろ雑巾に変身したらしい、ということしか理解出来ていない。
「身内相手で遊びがあったとはいえ、あのジィト・クロゥレン相手に引き分けですよ。私は貴方に、武を志す者達の希望を見た」
一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。
引き分け? 俺が? ジィト兄相手に? そんな馬鹿な。
「最後、針はジィト殿の腕に刺さりました。それで力が入れられなくなったのでしょう、フェリス殿を先に絞め落とすことが出来なかった。ジィト殿が毒で気絶するのと、フェリス殿が窒息で気絶するのはほぼ同時だったのですよ」
がむしゃらに動いた結果がそれか。単なる偶然とはいえ、恐ろしい。まるで実感が湧かない。
ああ、だがしかし。
「――嬉しい、もんですね。はは」
姉兄とやってみて解った。かつては勝てるかもしれないと考えたこともあるが、それは単なる自惚れだった。俺では彼らに到底至らないし、今回はたまたま運が味方しただけだ。単に敵として相対したら、俺はあっさり殺されてしまうだろう。
でも――そんな相手であっても、全く通用しないなんてことは、なかった。指先がかかったくらいであっても、俺は彼らに届いたのだ。
「は、はは、ッ、アァ」
笑いで全身が痛む。それでも止められない。どうしてもにやけてしまう。
女医は気味悪そうにこちらを見ていたが、やがて諦めたのか、肩を竦めて出て行った。ビックス様は気を利かせてくれたらしく、
「ここに呼び鈴を置いておきますので、何かあったら鳴らしてください。右手は動くはずです。では、ごゆっくりお休みください」
と言い置いて、女医の後を追った。
「くく、ゥッ、あ、ははは」
ああ、我ながら快挙だ。信じられない。こんなことがあり得るのか。
寝ている間に、感覚を忘れてしまいそうなことが残念だ。
駄目だ、胸が躍る。
久しく無かった類の喜びに、自分を抑えきれない。俺は一人残された部屋で、痛みに涙を滲ませながら、暫くにやついていた。
今回はここまで。
ご覧いただきありがとうございます。




