努力の結果
泉から引き上げられてもなお、アレンドラは意識を取り戻さなかった。不審に思って容態を確認すると、うっすらとした緑色の斑が、顔中に付着していることに気付いた。
鼻を寄せると、何やら奇妙な臭いがする。顔にそっと手をかけ、力を入れる――瞼が開かない。
目が焼かれている。
薬品をぶち撒けて、視覚を奪ったのだろう。相手の抵抗を防ぎたいなら、手段としては間違っていない。しかし、一族に貢献した者への仕打ちとしては、行き過ぎている感がある。
これは俺には治せない。
「ジャーク、アレンドラは……」
「……無事ではない、かァ。いや、ボクとアレンドラの二人が生きているってだけで、充分過ぎるよ。本来なら彼女は罰されるべきだったんだから、あまり多くは望めないさ」
一族が使っている毒なのだから、アレンドラはもしかして治療方法を知っているかもしれない。ただ、彼女が己の罪を悔いているのなら、その道を選ばない可能性もある。意識が戻ってどういう反応を示すか、それはまだ解らない。
むしろ今は、傷を負ったジャークの方が危ぶまれる。
「お前は大丈夫か?」
「死にはしないでしょ。それより、君はやるべきことがあるんじゃないの?」
「まあな……一応言っておくが、止めるなよ。説明は後でするから」
「止められる体じゃないから、黙って見てるよ」
苦笑しつつジャークは手を振る。アレンドラの横に座り込んだまま、只管呼吸を整えようとしていた。
あれこれ言われる前に、やるべきことをこなしてしまおう。
この泉は豊富な湧き水によって成り立っているため、外周を囲っただけでは流れを止めきれない。俺は水源から街へと繋がる経路を地術によって遮断し、真逆の方向へと溝を作った。別の方向に水が逃げていく分には構わない。更に陰術で毒を生成し、住民が利用出来ないよう水を汚染してやる。
水量が多い分、魔力を余計に使う。しかしここで手は抜けない。
「街から水を奪うのかい?」
「ああ。街が穢れで満ちる前に、全員撤退してもらう」
「なるほどねェ……河守が邪魔になる訳だ」
一瞬反応を窺ってみたものの、ジャークは体勢を全く変えていなかった。言うだけあって、本当に黙っているつもりらしい。まあ、目的を達成したら出奔するつもりだったろうし、さして拘りは無いか。
「お前以外の河守はもういないのか?」
「全員殺したよ。アレンドラを連れて逃げようにも、追手があると思ったし」
「それもそうだな」
ならばこのまま、事を進めても良さそうだ。
水源を使用不能にし終え、ジャークに向き直る。何を言われるのかと、彼は期待したような目でこちらを見ている。
「お前に頼みたい仕事が二つある」
「見逃してもらったことだし、応えるよ」
「一つはそう難しいことじゃない。なるべく早く王国の方に逃げて、この街の危機を触れ回って欲しいんだ」
カイゼン工国の人間であれば、放って置いてもこの地を調査するだろう。しかし他国の人間がこの地を調査するには、何らかの切っ掛けが必要だ。噂を広め、能力を持った人間を引き寄せる――自分で解決出来ないのなら、他人に期待するしかない。
少しでも可能性を増やす、俺に出来ることはそれだけだ。
「それくらいなら問題無いねェ。誰か伝えたい人でもいる?」
「中央にある研究塔の人間か、メリエラ・カッツェという貴族に伝われば嬉しいね。特にメリエラ様は陽術に長けた方だから、浄化が使える筈なんだ。何か打開策を持っているかもしれない。ただ、こちらについては最低限、王国に情報を流してくれるだけで良い。本題はもう一つの方だ」
気付いたのはつい先程、しかもたまたまだった。
監視者は人間を器にして、消耗を抑えることが出来る。俺が今やられていることだ。ならそれを、もっと格上の人間にやってもらったらどうだろう?
「アレンドラには、祭壇に住まう監視者――水精の器となってもらう」
ジャークの目に剣呑なものが宿る。俺はそれを手で制し、話を続ける。
「祭壇の機能が破壊された所為で、監視者は存在の格を維持出来なくなっている。だが、王国にも一つ、俺が知っている祭壇があるんだよ。ここが駄目なら、そっちに移ってもらいたいんだ」
「……それをしたら、アレンドラはどうなる?」
「どうなるかはお前次第だな。今監視者は俺の中にいるが……正直、かなり魔力を持って行かれる。時間をかければ、アレンドラは魔力を奪い尽くされて死ぬし、精霊も喪われるだろう。ただ、間に合えば別に何も起こらない。目の見えない女を一人担いで、お前がどれだけ動けるかだ」
「……責任を取る必要はある、か……。祭壇に辿り着けば、精霊様はアレンドラから離れてくれるんだよねェ?」
何処までもアレンドラを主軸に考える……いや、行動に保証を求めるのは当たり前か。折角助けた命を、迂闊な返事で失う訳にはいくまい。この辺はしっかり補足すべきだな。
「人間の体内は、精霊にとって良い環境ではないからな。理由が無ければわざわざ留まることはしないよ」
むしろ人からは離れて過ごす生態なのだと言うと、内容を受け入れてくれたのか、ジャークは表情を引き締めた。投げ出すことはせず、最善を尽くすと決めたらしい。
最初から最後まで、職務に忠実な男だ。ジャークにはやってくれそうな期待感がある。
しかし水を差すように、体内に潜む監視者が、俺だけに聞こえる声で問うた。
「足手纏いを抱えて……間に合うと思うのですか?」
問いかけに対し、俺はあくまでジャークに対する説明を装って返答する。
「祭壇があるのは、ザヌバ特区という地域だ。河を越えて対岸に抜けられるなら、そこまで距離は離れていない。全力で走り続ければ、十日くらいで行ける筈だ」
地面に地図を描いて、大体の位置関係を説明する。ジャークは俺より足が速いし、迷わなければもう少し日程は縮まるだろう。後はもう、二人が回復薬をぶち込みながら走り続けるだけだ。
絶えず消耗を強いられる旅程は厳しいものがあるだろうが、元々は自分達で招いた事態だ。アレンドラも死んで責任を取るくらいなら、少しは仕事をこなしてからにして欲しい。
――自分だけ楽になろうなどとは。
青白い顔を見下ろしていると、監視者は渋々といった感じで納得を示す。
「……なるほど、彼女次第とはいえ、ここに残るよりは可能性がありますか」
ついでに言えば、アレンドラが駄目になっても、あの少女が監視者を救おうとするだろう。そこまで分の悪い賭けではない。
さっきから、遠くでこちらを窺っている少女に目配せをする。少女は僅かに頬を紅潮させると、両の拳を握って掲げた。ひとまずお慶びのようだし、監視者絡みはこれで進めよう。
頑張るのはあくまで本人達であって、俺に出来ることなど限られている。
何の手立てもなかったあの状況からここまで引っ張ったのだ、むしろ良くやった方だろう。後は細かい処理をやっつけて、頃合いを見計らうだけだ。
「全員が納得したのなら、俺は監視者と祭壇の繋がりを切り離しに戻るが……お前等はどうする? 一日くらい俺が請け負って、少し休んでおくか?」
「そうだね……いや、時間を貰えるなら、軍の物資を取って来るよ。祭壇は倉庫に繋がってるし」
「ああ、そうか。薬や食料は持てるだけ持った方が良いな。補給する時間があるとは思えん」
今後の展開を考えれば、休むより準備に充てた方が建設的か。
なら、アレンドラはまだ眠っていた方が都合が良い。俺は『昏睡』を彼女に打ち込み、少しばかりの時間を稼ぐ。眉間に寄っていた皺が消え、心做しか表情が緩んだ。
「何をしたんだい?」
「対象を眠らせる魔術だな。出発までは寝てもらった方が、お互いにとって楽だろう」
「……いざという時は、担いで行くさ。アレンドラには、整理する時間が必要だろうしね」
恐らく道中は消耗するばかりで、悩む暇は無いと思われる。ただ、下手に抵抗されるよりは、強引でも運んでしまった方が話は早い。
敢えて口にしていないだけで、ジャークも想定はしているのだろう。それでも――想い人のためなら、苦労を厭わないか。
「……お前も大変だな」
「なァに、これくらいは請け負うさ。邪魔者がいないだけ、今までよりはずっとマシだよ。待つことには慣れてるからねェ」
苦笑を浮かべてはいるが、目の奥は酷く静かだ。
ジャークには報われて欲しいが……男女の間のことだ、そんなものは理屈じゃない。最低限、苦労に見合うだけの幸運を願うばかりだ。
「いざという時は、特区に辿り着くまで彼女の意識を封じましょう」
監視者が小声で呟く。
それくらいが良いのかもしれない。魔力の枯渇を長時間強いられれば、いずれ正気を保てなくなる。それに、彼女が現実を受け止められるだけ、心が強いかも疑わしい。
過保護にしてやる理由も無いが――河守がどうなったのか、周囲がどれだけ骨を折ったのか、顛末など知らない方がきっと彼女は幸せだ。
深呼吸をする。
……何人もの人間を、自分の都合だけで殺した。大を救うため小に手をかけた。それでも、アレンドラを生かしたことに意味はある。少なくとも、精霊の存在を守ることは出来るのだ、俺はそれで満足しよう。
疲労感で目が眩む。一瞬、自分の立ち位置を見失った。瞼を揉んで取り繕う。
「大丈夫かい?」
「流石に俺も疲れたし、一度戻ろう。アレンドラを運んでくれ」
「勿論。……巻き込んで、悪かったよ」
「ちょっと前にも聞いたよ、そんなこと」
連れ立って歩き出す。
内側で監視者が、居心地悪そうに身じろぎをした。
今回はここまで。
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