剣聖
フェリスがサセットを下したあの時。俺には、あの勝負を認めないという選択肢は無かった。
あれほど相手を読み切った勝ち筋に、称賛以外はあり得ない。しかし、そう素直に評価してしまったことで、ミル姉が手を挙げる結果となってしまった。
あの時、どう立ち回れば、俺は自分の望みを叶えられたのだろう。あれほどまでに特定の相手と戦いたいと焦がれたことは、久しく無かった。
俺とミル姉は、単独強度が8000を超えた時点で親父からやり合うことを禁じられている。拮抗する相手は一人しかいないのに、その相手と向き合うことは出来ない。
全力を出してはいけない。本気で戦ってはいけない。
その相手もいない。
人は何故駄目と言われると、それをしたくなってしまうのだろう。理性で命に従ったものの、俺達はずっと、もう何年も欲求不満だったのだ。
「楽しみだなあ」
今日は、誰も咎める者はいない。
いつぞやは先を越されてしまったが、今度こそ俺の番だろう。
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伯爵領と子爵領の境界線。俺はビックス様と一緒に、子爵領に戻る二人の見送りに来ていた。
今日は朝から胸騒ぎがしていた。妙に意識の端々に引っかかるものがあり、その引っかかりがいつもの動作を妨げる。
そんなことは気の所為だと違和感から目を逸らし、直感に背を向けた。
だが、認めようが認めまいが、予感は現実になることがある。
「よし、じゃあ最後にやるか!」
挨拶をしてさあ別れようという段になって、ジィト兄が長剣を抜いて俺に向き直った。
「……いや、やらんよ」
つい最近死にかけたばかりなのに、また同じことを繰り返す意味が解らない。喉元に突き付けられた刃先を手でずらしながら、眉を顰めて返す。
ビックス様も展開が急過ぎて目を丸くしている。流石、行動が唐突過ぎるため当主には向かない、とされただけのことはある。
……まあ、半ば解ってはいた。長い付き合いだ、ジィト兄の性格からして、何事もなく終わらないだろうと。しかし、伯爵家の人間がいる前で、己の戦力を晒すような真似をするとは思っていなかった。
そして、引く気も無さそうだ。
「一応聞くけど、本気なんだよな?」
「そりゃあ勿論」
いつになく目が煌めいている。そんな期待に満ちた眼差しを向けられても、こちらは困る。どう断るべきなのかを迷っていると、改めて刃先が突き付けられた。
「やるぞ、フェリス。俺だって本気を出したかったんだ!」
至近距離でジィト兄が吼える。絶対に逃がさないと、その目が語っている。
溜め込んでいたのは、ミル姉ばかりではなかったか……。
そういえばと思い出す。ここしばらく、ジィト兄の対人戦は見ていない。誰がやってもまともな勝負にはならないのだし、そのことを不思議とは捉えなかった。
俺も含めて誰一人として、姉兄に追いつこうとしない。だからといって、彼らは走ることを止められない。距離は開いていくばかりだ。
彼らが不意に、後ろを走る人間を気にしてしまうことは、そんなにおかしいことだろうか?
両手で顔を覆う。応えてやりたいが、酷い目に遭うことは明らかだ。
俺は今どんな顔をしている?
「ジィト殿、貴方は実の弟と離れがたいのかもしれない。ですが、その……戯れるにしては、力量が違いすぎるのではないですか?」
「いやいやビックス様、それを確かめるのではないですか」
うん、ビックス様が止めようとしたからと言って、収まるものではない。
対策が浮かばないまま、それでも覚悟だけは出来ていく。
何故こんなことをしなければならないのか、全く理解出来ない。でもきっと、恩返しをしなければならないのだ。
「――ビックス様、グラガス隊長。……見届け人を、お願い出来ますか?」
両手を顔から離し、唇を引き攣らせながら、どうにか呟く。ビックス様は驚き、グラガス隊長は天を仰いだ。
名乗りのために、称号の設定を変える。どうせもう領内ではないのだから、好きにしたっていいのだろう。
後ろに飛び、ジィト兄との距離を少し作る。至近距離からでは相手にならない。だから、これくらいは相手も許容する。
「俺は構いませんが、本当に、よろしいのですか」
「よろしくなくても、どうしようもないだろう。俺はただみっともなく、本気で抵抗するだけだ」
「フェリス殿がその気であるなら、私も見届け人を引き受けましょう」
鉈と棒を構える。職人を目指しているのに、最近は戦ってばかりだ。
深呼吸をし、異能を起動する。武器を握る手に汗が滲む。
遠距離戦は不可能だろう。ミル姉とは全く違った展開になる。
「クロゥレン子爵家魔術隊長、グラガス・マクラル。この立ち合いの見届け人となります」
「ミズガル伯爵家守備隊長、ビックス・ミズガル。この立ち合いの見届け人となる。双方名乗りを」
体内に魔力が巡っていく。
他家の前で力を晒そうとしたのは、あちらが先だ。だから俺も、隠していたものを晒す。
「――クロゥレン子爵家守備隊長、『剣聖』ジィト・クロゥレン!」
「――魔核職人、『業魔』フェリス・クロゥレン」
称号における魔の文字は、世界に魔術の腕を認められている証である。
名乗ると同時、相手がたじろいだのが解った。そして、広がっていく満面の笑み。
「よく名乗ってくれた! 行、くぞォ!」
輪郭がぼやけるほどの踏み込みで、ジィト兄が迫る。『観察』と『集中』で剣筋を見切り、どうにか鉈で一撃を流した。
「チィ!」
解ってはいたが速過ぎる!
俺は周囲にぬかるみを作り、武器を陰で覆う。相手を自由にさせないことが、俺の基本戦略になる。格上を思い通りにさせていたら、流れに飲まれてそのまま終わりだ。
次は石壁で経路を狭めて――ッ、
「まどろっこしいぞ!」
慌てて膝を曲げる。先程まで頭のあった位置を、横薙ぎの一閃が走る。軌道の先まで切り裂くような、猛烈な一撃。ミル姉もそうだったが、何故躊躇いもせず身内を殺しにかかるのだ。
鉈を振るってどうにか追撃を弾き、途中になっていた石壁を生み出す。それなりに魔力は込めておくものの、盾にならないことは把握済み。
ただ、ジィト兄の性格的に、壁ごと俺を斬りに来る。
「読み、通り!」
石壁に潜ませた陰術が撒き散らされる。付与したものは麻痺と腐食。
腐食が剣を劣化させ、麻痺で相手の四肢を強張らせる。これで少しは状況がマシになるか。
「いいねェ!」
しかし、ジィト兄はそれを無視するかのように、右脚を振り上げた。予想より遥かに鋭い中段蹴りが、脇腹に突き刺さる。
「うぐぇッ」
出がけに飲んだ水が胃から戻る。肋骨が一本いかれた。姿勢が崩れたところに拳による直突き。額で受けるが地面に押しつけられ、それでも、怯んでいられない。
相手の力を奪っていなければ、首が折れていたか? 涙が滲んでも、痛いだけなら『健康』でどうにかなる。
倒れている俺に、追い打ちの爪先蹴りが迫る。首を傾げて避け、きれない。掠った耳たぶが千切れて飛んでいく。
しゃんとしろ、起きろ、膝に力を入れろ!
「ガアアッ!」
地面を掌で叩き、反動で身を起こす。ついでに肌が爛れる毒を撒き散らし、相手を強引に退かせる。
ああ、視界が溶ける。脳震盪が魔術の維持を妨げている。
ムラがあると解っていながら、毒霧を生成。己の身にそれを纏わせ、鎧の代わりにする。
意識から余分なものが抜けていく。
ただ、真っ直ぐにジィト兄を見据える。ジィト兄はそれを受け止め、涼やかに口を開く。
「頭が良いのも考え物だな。余計なことを考え過ぎる」
「……頭が悪いから、余計なことを考えるんだよ。本当に頭が良いんなら、この状況で迷ったりはしない」
「迷う?」
ああ、今回の俺の目的はなんなんだろうか。
勝つことか? 殺すことか?
何も定めていないから、何をすべきか解らない。俺が第一に間違っているのはそこだ。
「そう。俺は何で戦ってるんだろうな?」
「ああ……なるほどな。そりゃ確かに、頭が良いんじゃなくて、馬鹿だな」
ジィト兄の姿が霞む。それはさっき見た。
鉈を掲げて振り下ろしを受け流す。棒を振り回し、相手を牽制する。思わず見惚れるほど、相手の足取りは軽やかだ。
多少とはいえ、毒を浴びせたはずなのだが。
「一度勝負を受けたんだ、そんなこと今更だろうよ。終わってから考えろ」
「そうなんだよなあ……っ!」
また姿が消える。
三度目は流石に無い。動作の予兆に合わせ、棒を突き入れる。毒を帯びた一撃が、ジィト兄の肩を掠めた。
「そうそう、お前はお前の長所を活かすべきだ。よーく『集中』しろよ」
その発言で、ジィト兄の動きが鈍らない理由に気付く。
ジィト兄の異能は『操身』と『鼓舞』と『大声』。毒で動かない体を、『操身』で動かしているのか。
「『操身』は完全に動かない体でも動かせるんだな」
「ああ、お前と戦うなら必要だと思ってな。久々だよ、こんな真面目に練習したのは」
あれで強くなるなどと、迷惑な話だ。俺みたいに半端な強さの人間が、どれだけ苦労していると思っている。
「ふざけやがって」
歯を食い縛る。
本気を出したかった? 俺だって出したくても出せなかったさ。
相手のことも、環境のことも考えずに、劇毒混じりの土砂流で全てを流し去ってやりたい。触れただけで死ぬような、濃密な毒を撒き散らしてやりたい。
だが、ジィト兄は魔術の影響を打ち消す術を持っていない。
だとすれば全力を出した後に、俺の周りには何も残っていないだろう。やり尽くした後に己を保っていられるかが解らず、俺はずっと足踏みを続けている。
そこまでやったって、勝てるかなんて解らないのに。
別に俺は、思慮深い訳じゃない。
単に、取り返しがつかなくなりそうなことが怖いのだ。
「迷ってると死ぬぞ?」
「迷いを捨てたら、別の意味で死ぬんだよ」
研鑽を積めば積むほど、陰術師の業は深まっていく。それに耐える精神力はどうすれば得られるのか?
無難な道筋を考える、そのこと自体が純度の低さを物語る。俺が選べる術はなんだ。
「……どうにもなんねえんだよなあ」
陰術の鎧をより色濃く。相手から見れば、俺は闇に覆われているように見えるはずだ。それに隠れて、鉈と棒を組み合わせる。
出来上がるのは薙刀のような何か。
武術強度が高い訳でもないのに、武術勝負に挑む――人はそれを、愚行と呼ぶだろう。
「これから、意味の無いことを、する」
「ふむ?」
敢えて宣言するのは、自分に自信が無いからだ。
「がっかりするなよ」
震える脚に力を込める。
それでも行くのは、相手がジィト兄だからなのだろう。
本日はここまで。
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