百薬の長
「さ、着いたよ。中へどうぞ」
ヴィドの案内で通された応接室からは、微かな酒精の香りが漂っていた。柔らかそうな革張りの椅子に、壮年……を通り越して中年の男が座っている。彼は木匙で琥珀色の液体を掬い、手に持った飲み物へと慎重に注いでいる。まだ朝だと言うのに、茶に果実酒を落として楽しんでいるらしい。
楽し気ではあるが、目は真剣そのものだ。体は小刻みに震え、音程の外れた微かな鼻歌が耳に届く。
俺が言葉を失っていると、ヴィドが伯爵の傍へ近づき肩を叩いた。
「父上、父上」
「……ん、おお。なんだぁもう来たのかぁ。すまんなあ」
口元が緩み、伯爵は垂らしかけた涎を袖で拭った。体の端々に力が入っていないように見える。依存症か中毒か、いずれにせよ尋常な仕上がりではない。
ああ……これで統制が取れていない理由ははっきりした。もうこの人には、統制など取れないのだ。
そして、こういう人間に対してまともな対応を期待してはいけない。何が引き金になって暴発するか解ったものではない。
俺は伯爵の足元に膝をつき、目線を合わせてなるべく穏やかな口調でゆっくりと語り掛ける。
「お招きに与りまして光栄です。フェリス・クロゥレンです」
「おお、よぉ来たよぉ来た。ジェストと仲良くしてくれたらしいなぁ、話は聞いとるよ。おい、フェリス君にも器を出してくれ。酒はいけるか? ん?」
「……あまり強くはありませんが、ご相伴に与ります」
「おお、若いうちは遠慮するもんじゃあない。ほれ、飲め飲め」
伯爵は嬉しそうにスミ石の酒杯に酒を注ぐと、俺に手渡す。酒杯を打ち合わせて乾杯し、まず一口を含んだ。角の取れた、丸みを感じさせる味わいは酒として質の高さを感じさせる。
ただ、飲み始めてすぐに違和感が身を包んだ。舌先に広がっていく微かな痺れがある。酒精によるものではない、むしろ調合をしくじった薬剤を思わせるものだ。毒と言うにはあまりに微量――原材料の所為か? 俺は『健康』があるから問題無いが、少なくとも、体内に取り入れ続けるべきものではない。これは……ゆっくりと時間をかけて、伯爵を毒殺しようとしている?
ヴィドを横目で見ても、相変わらずの微笑を湛えたままで表情は崩れない。
「この酒は?」
「これはうちの料理長の自家製でなぁ。季節によって違う果物を漬けてくれよるんだ」
取り敢えず、その料理長は怪しい。怪しいが……こちらで口を出すべきことなのか。俺は伯爵家内部の陰謀に巻き込まれようとしている?
疑問ばかりが増える。
ひとまず伯爵の話に相槌を打っていると、着替えを終えたラジィが合流した。
「すまない、遅れた。……父上、また酒を飲んでいるのですか」
「ああ、そうだよぉ。酒は良い。気分を楽しくさせてくれる……」
「仕事に影響が出ますよ。程々にすべきです」
「相変わらずお前は堅い。まあ、良い……口も潤ったところで、本題に入ろう」
伯爵は酒杯を放すと、手近に置かれていた包みへと手を伸ばした。布を外すと、よく見知った未研磨の包丁が現れる。治療が済んだ後すぐさまレイドルク領を出発したため、回収せずに放置していた品だ。
正直、すっかり忘れていた。
「それは……」
「君が作った包丁だ、ううッ、ふぅ……。裁きで使用された後、ジェストがこちらへ届けてくれた」
そうか……なるほど。
アヴェイラの一件が大きくなる可能性を考えて、レイドルク家に証拠品として押収される前に確保したのか。今更アキムさんの前に顔を出すことは出来ないし、もうこれはどうしようもない代物だというのに。
アイツは本当に律儀な男だ。
「それを私にお戻しになるために?」
「それもある。あるんだが、うちの料理長にも一本作ってやって欲しくてなぁ。大物を解体するためのヤツを一本……金はあるんだ、金は……」
目線がかなり虚ろになりつつある。呂律も回らなくなっている。
これは間もなく寝るな。
何故だか伯爵が懸命に起きていようとするため、俺はすぐさま要件をまとめにかかる。
「畏まりました。後程、料理長とお話をさせていただきます。本人の手に合わせる必要がありますので」
「そうだなあ、うん、そうだなあ」
「……父上、お疲れであれば寝所に……」
「疲れてはねぇ、そうじゃねえんだよぉ」
酒杯に腕がぶつかり、飲み物が零れる。慌てて液体を止めようとして伯爵は椅子から転げ落ち、そのまま動きを止めた。やがて鼾が響き始める。
戸惑って二人を見れば、黙って首を横に振る。已む無く伯爵を寝所に運び、そのまま三人で別室へと移動した。
俺達の間に、何とも言えない微妙な沈黙が流れる。
小さな会議室のような部屋で、今度は酒ではなく茶をいただく。舌先を洗いながら意を決して質問しようとすると、それより先にヴィドが語り出す。
「驚かせてしまったね。父上は前々から酒を飲む人ではあったが……どうにも時間を選ばなくなってきているんだ」
「それは、いつ頃から?」
「いつ、というほど明確ではないかな。少しずつ酒量は増えていたんだろうが、気付いた時にはああだったとしか言えない」
細められた目が俺を射抜いている。これは解っていて情報を伏せているな。敢えてこの場で伏せるということは、アヴェイラが死んだ辺りからということだろう。心做しかラジィの視線も鋭い。
しかし話してみた限り、アヴェイラが死んだからといって、伯爵本人は俺に隔意がある訳でもないようだ。ならば酒量が増えた原因は、アヴェイラの一件というか侯爵家の醜聞の所為で、何らかの害を被ったという辺りだろうか。まあ、身内かつ上位の貴族がやらかせば、派閥に皺寄せが行ったであろうことは簡単に想像出来る。
とはいえ、医者でもない俺に出来ることも無い。
「可能なら酒を減らした方が良いかと思いますが」
「誰もがそう思っているさ。あまりに度が過ぎるようであれば、領地に戻って暫く療養してもらうことも考えている」
「それがよろしいでしょうね。伯爵ともなれば職務に重責を伴います。酒量が増えるのは不安や緊張、苛立ちがあるからでしょう。本人が気楽に過ごせる環境が何よりの薬です」
無難な回答で場を流す。
現状を額面通りに受け取るのならば――飲酒を咎めるラジィは伯爵を守ろうとする立場、翻ってヴィドは伯爵を廃して状況を改善しようとする立場、というところか? 親子関係としてはラジィの方が健全な気はするが、生憎と俺への敵意が強いのもラジィだ。どちらの味方をする気にもならない。
ジェストが伯爵に世話になっていた以上、依頼そのものは引き受けるとして、俺はなるべく穏便な立ち回りを考える必要があるな。
毒が偶発的なのか意図的なのかはっきりしない所為で、今はどちらにも踏み切れない。
「何か策はあるかい?」
「さて、飲酒の後は水を飲むと良いと聞いたことはありますね。食べ物であれば、ヴァーヴの実を食すのも良いそうですよ。ミズガル領の名産ですが、あれは宿酔を防ぐそうです」
「へえ、なるほどね。覚えておこう」
もう言えることはこれくらいだろう。話を切り替える。
「伯爵の体調は医者にお任せするとして、包丁の制作についてはお受けいたします。料理長のご都合は?」
「今なら大丈夫だろう。早速行くかい?」
「そうしましょう」
直接話が出来るなら、料理長に酒の話を訊きたいところではあるものの、この兄弟が席を外してくれるだろうか。
ひとまず会ってみるしかないな。
/
「早速だが情報を整理したい」
帰って来るなりミケラに何かの瓶を渡して用事を申し付けると、フェリスは私の前に胡坐をかいて座った。帰宅に伴い、外に不審な気配が二つほど増えているが……何故監視がついたのかは、話を聞けば解るのだろう。
私は果物を切りながら、先を促す。
「どうだったの?」
「取り敢えず、先方の用事は魔核加工の依頼だった。ミル姉が行ったら別の話があったかもしれんが、俺に対しての用事はそうだった」
「ふうん? 駆け出しとまでは言わないけど、単なる中堅職人のアンタに?」
「ああ。アヴェイラの裁きで証拠品になった包丁あるだろ? アレが伯爵の元に届けられていた」
そうして伯爵家での一部始終を聞き、想定とはまるで違った面倒が起きていることを知る。
顔を顰めつつ果実を口に含む。
話を聞く限り、私に言えることはそう多くはない。
「伯爵の進退については、首を突っ込まない方が良いと思う……というか、突っ込むべきではない、が正しいかしら」
「それについては俺も同意する。ただ、毒がなあ。ジェストに良くしてくれていたようだし、死なせたくないというのが正直な所だ」
避けられる人死なら避けたいのは当たり前だ。ただ、今回の場合は状況が不透明過ぎる。
「死なせたくないと思うのは良しとして、誰が敵か味方かも解らないのに、どうするの?」
「まず打てる手を打つしかない。制作期間については長めにもらったんで、調整を名目に何度か出入りをする。それで切っ掛けが掴めない時は退くしかないな」
まあ、無難なところだろう。諍いを起こさずに調査したいのなら、それくらいしか手が無い。
どういう展開にすべきか考えていると、フェリスは鞄から先程ミケラに渡した物と同じ、陶器の瓶を取り出した。微かに甘い匂いが漏れている。
「何それ」
「噂の毒」
果物に伸ばしかけた手を止める。
まさか盗んで来たのか?
「奪った訳でも盗んだ訳でもないからな? 恐ろしいことに、欲しいって言ったらくれたんだ。当の料理長が。ヴィドもラジィも止めなかった。正直混乱している」
「で……中身は?」
「やっぱり舌が痺れるから、伯爵が飲んでいるのと同じ酒だと思う。少なくとも味は変わりなかった」
まさか、毒であるという認識が誰にも無い?
そんなことが有り得るのか?
いや、そんな筈が無い。
「ウィジャさんに解析を依頼したんで、いずれ結果は出るだろう。……で、ミル姉はどう思った?」
「伯爵の舌が酒の飲み過ぎでおかしくなってる、というのはまあ想像出来るけど、ヴィド・ヴァーチェは気付いてないとおかしい気がする……」
「アイツのことを知ってたのか?」
「いや、アンタがいない間に、多少伯爵家を調べてみただけ。そしたら、ヴィドは中央で薬草の研究をしているって話だった。そんな人間なら、口に含む物の毒性くらいは察しがつきそうなものじゃない?」
「俺もヴィドは黒じゃないかと疑っている。んだが……じゃあ何故、俺に証拠となる酒をそのまま手渡した?」
そう、そこだ。それが状況を無駄にややこしくしている。
……いや、冷静に現状を考えれば、毒を仕込んだのは酒を造った料理長にしかならないのか。嫌疑はかかれど、ヴィドを犯人とするには弱い。単に料理長が処断されて、フェリスの仕事が無為になるだけだ。それに、立場が圧倒的に下であるフェリスが事を暴いたとしても、あまり影響は無い気もする。
うーん……ただそれでも、事実が判明すれば伯爵の服毒は止まってしまう……。
「毒が本命ではない可能性は? 或いは毒が露呈することで、次の策が動き出すとか」
「もうそこまで来たら解らないよなあ」
「そこまで行かなくても解ってないでしょ」
全ては想像に過ぎない。
しかし足を止めないためにも、毒を特定しておくことに意味はある。
ジェスト君のことが無ければ包丁を一本作って終わりだったろうに、難儀な話だ。加えて、ラジィの対処もある。反撃で殺すのは簡単でも、その後始末が面倒になる。
「ラジィはどうするつもり?」
「アイツもなあ。少し落ち着いて遣り取りをしたいんだが、二人きりだと襲って来そうなんだよな」
「一般兵なら強度は大したことないんでしょうけど、生かしたまま対処出来そう?」
「特殊な異能を持ってない限りは。向かい合って脅威は感じなかったし、『集中』を切らさなければ大丈夫だろう。そもそも、何で俺が敵視されなきゃならんのかねえ……」
インファム・レイドルクと戦って、アヴェイラがかなり大事にされてきたということは感じ取れた。伯爵家でもそれは同じだったのかもしれない。年齢の近いヴィドとラジィは、猶更距離も近かっただろう。
その敵意が的外れなものだったとしても、上位貴族は己を捻じ曲げる必要も無く暮らしているのだ。自省を知らぬ者に道理を説いて、どうなるものやら。嘆いたところで現状が変わる筈も無い。
これは、私もそろそろ本腰を入れて傷を治す必要があるな。いつでも動けるよう、状態を戻さなくては。
後でウィジャさんに薬を処方してもらおうと決めた。
今回はここまで。
ご覧いただきありがとうございました。




