オルフェイア
こうして俺が図書館の商魂に感動しつつ帰ろうとした時だった。もらった地図を見ながら歩いていた俺は、肩にどん、と衝撃を感じたかと思うとよろめいてしまう。
しまった、人通りが少ないところだからって油断していた。どさっと人が転ぶ音がして反射的に俺は謝罪の言葉を口にする。
「すみません」
謝りながら俺はぶつかった相手を見おろす。
すると足元には黒いローブに身を包み、黒いフードを目深にかぶった、見るからに怪しい少女が倒れていた。身長はあまり高くなく、フードからちらりと覗く顔立ちにはあどけなさのようなものが残っている。
が、彼女に輪をかけて怪しいのは隣に落ちている黒い革で製本された書物だった。タイトルには悪魔が使うと言われる不気味な文字が使われている。俺も悪魔の言葉は詳しく知らないが、魔法の勉強をしていたときにさわりだけ学んだことはある。
あえて訳すなら『今日から始める楽しい悪魔契約』というところだろうか。
「……」
さすがの俺もここまで露骨に怪しいタイトルに開いた口が塞がらない。普通、こんな風にぶつかってしまったら一言謝ってその後は気まずくなって立ち去りたくなってしまうものだが、さすがにこれを無視していいのかは判断がつかなかった。
魔法というのは、この世界のどこかにいる大きな魔力を持った存在と契約し、その力を分けてもらうことで発動する現象のようなものである。その対象は神であったり精霊であったり龍であったり様々である。
ちなみに人もまた魔力を持つには持っているため、何者とも契約せずに(魔法の学問的には自分自身と契約していることになる)魔法を使うことも出来る。もっとも、人の持つ魔力は一般的にはかなり少ないので大体は大した威力にならないが。
俺は最果ての地に棲むらしい七つの首を持っているという龍と契約している。会ったことがある訳ではないが、著名な存在とは一定の儀式を行えば契約を試みることが出来る。そのため魔法の入門者はまず契約対象と儀式方法を学ぶところから始める。
悪魔というのは異界に棲む(と言われている。悪魔については謎が多くあり、確証はない)生物(?)だが、狡猾で人を陥れることが多く、一般的に悪魔との契約は違法とされているし、帝国も禁じている。
力の対価に魂をとられる、というような話も昔話などにはある。上級の悪魔は恐怖や崇拝の念を込めて魔神と呼ばれることもある。
当然そのような存在に関する書物は図書館からの持ち出しも制限されてしかるべきだろうが、受付嬢は彼女から目をそらしている。彼女が特別な人物なのか、それとも書物がタイトルに反して大したことない内容なのか。いや、悪魔の言葉で書かれている時点で危険なものである可能性が高いが。
さて、しりもちをついた彼女はすぐに本を拾うとマントの下に隠す。そしてフードを被りなおすと、じろりと俺の方を見る。
「……見た?」
俺も特殊な生い立ちではあるが、一人の人間として悪魔との契約については“いけないこと”という意識がある。
殺人や強盗などの罪についてはいけないことだとは思いつつも、帝国兵士が相手であれば何をやってもいいかなという気持ちはないでもない。しかし悪魔との契約は、仮に帝国への復讐が叶うと言われても結ぶには躊躇してしまう。そんな認識があった。
逆に言えばそんな常識や倫理観を跳び越えて悪魔と契約するということは並々ならぬ業を背負っていることが予想される。それも多分彼女は俺と同じぐらいの年齢だろう。
迂闊な対応をとれば何らかの呪いを掛けられたり、殺されたりする可能性すらある。ここは見逃して後で官憲にでも通報しよう。
とはいえただ「見てない」と言っても信じてもらえないかもしれない。むしろ見えてはいたけれど理解出来ないと言う方が信ぴょう性があるのではないか。俺は考え抜いた言い訳を口にする。
「……見たけど俺悪魔の言葉なんて読めないから」
「……悪魔の言葉ってばれただけでアウトだよね?」
「あ」
こうして俺の目論見は二秒で砕け散ったのだった。ちなみに普通の人はこの文字を見て何の言葉だか分からないため、二重に墓穴を掘っていると言える。
少女は立ち上がってほこりをぽんぽんと払うと、無言で外を指さす。外に出ろということだろうか。俺は言われるがままに外に出る。ついてこいという無言の圧力を受けて図書館の裏手に連れていかれる。飾り気のない常緑樹に囲まれた人気のない空間だ。
そこで彼女はフードをとる。長い黒髪につぶらな瞳が印象的だ。背は意外と低く、人形のように端整な顔立ちをしている。おそらく年齢はまだ若い。俺とそんなに変わらないのではないだろうか・
「あーあ、ばれちゃったわ。まさか図書館で何かあるとは思わなかったから油断してた」
「全く、そういう知られたくない秘密を抱えているならもっと緊張しながら生きてくれよ」
無警戒な癖にばれたら気にするのはやめて欲しい。
元々自分の人生に愛着がなかったこともあって、俺は投げやりになっていた。
「うるさいわね。とりあえず名前は?」
「カイン」
色んな意味で本名は名乗りたくなかったので俺は偽名を即答する。
すると少女は一枚の上質そうに紙をとりだし、『カイン』と書き込む。
瞬間、紙はぼうっと燃え上がった。それを見て彼女はまなじりを吊り上げる。
「ちょっと、真の名を教えてくれないと呪いをかけられないんだけど!」
どうやら何らかの魔法で俺が偽名を使ったことが分かったらしい。この紙は目の前の相手の名前が本当か嘘か分かる魔法道具か何かだろうか。別に呪い避けのために変名を名乗った訳じゃないんだが。
ちなみに魔法は対象を明確にすることで効果が強くなる傾向があり、当然偽名だと対象が明確になったことにはならない。“カイン死ね”と思われるより“目の前のこいつ死ね”と思われて魔法を使われる方が俺が死ぬ確率は高い。
「いや、そう言われて言うやつがいるか?」
「名乗らないとあなたでこの本の内容実験する」
露骨な脅迫を受けた。困ったな。こいつの実力がいかほどかは知らないが、こんなところで悪魔契約者とバトルはしたくない。もちろん呪いをかけてきそうな相手に名乗るのも嫌だが。
「俺は呪いとか関係なくあんまり本名名乗りたくないんだが」
「とにかく、秘密を知られた以上呪いをかけないとあなたを野放しに出来ないわ。別に、位置を特定出来るようにするだけだから実害はない」
そんなことは言われても信用出来ない。
「危ないやつに位置を特定されるのが実害なんだが」
「仕方ない。実害を与えないと納得してもらえないようね」
そう言って彼女は拷問の呪いか苦痛の呪い、とぶつぶつつぶやきながら本をめくり始める。彼女の実力は今のところ謎だが、それなら名乗ってしまうか。
俺は確かに王国の第五王子だが悪魔契約に比べれば悪くない自信がある。もしこいつが俺を帝国に突き出そうとすれば、その前に自分が捕まるだけだろう。
「アレン」
しかしまあ、こんな明らかに呪いをかけてきそうな女に本名を名乗るなんて俺も大概適当に人生生きてるな。
「……名乗りたくないって言うから有名な指名手配犯とかかと思ったら違うのね。知らない名だわ」
彼女はがっかりしている。知られてないのは嬉しかったが、落胆されるとそれはそれで腹が立つ。
「知らないならいい」
「今度調べてみよう」
「おい、それは許さねえぞ」
俺はぐいっと彼女に迫る。
すると彼女はぷっと噴き出した。笑うと年より少し幼く見えて可愛らしい。
「面白い人ね。呪いをかけられるのは良くて自分の名前調べられるのはだめなんだ」
言われてみればその通りだ。よく分からない呪いはこの際どうでもいいが、俺が王子だとばれて帝国やら王国やらが弾圧したり利用したりしにくるのは御免だ。そう考えると俺は帝国よりも悪魔の方がましなのだろうか。投げ槍だな、俺は。
「そうだ。とりあえずお前のことを黙っておけばいいんだろう? それはいいからもう行っていいか?」
「不思議な人ね。私はオルフェイア。私のことをばらしたら地の果てまで追っていくから」
「じゃあ名乗るなよ」
呪いをかけてくる相手に名乗る俺も俺だが、こいつも相当不思議な人だと思うが。
「う……でも、相手に名乗らせて自分だけ名乗らないのも気持ち悪いし」
そしてよく分からないところで律儀だった。悪魔と契約している凶悪犯のはずなのに、根はいい人なのかもしれない、と思ってしまう。
「いやいいよ。出来るだけ関わりたくないから」
「そこまで避けられると傷つくわ」
こうして俺は置いていくようにオルフェイアと別れた。いや、今のは事故だと思ってさっさと忘れよう。関わらなければ相手も気にしないだろう。もう日も傾いてきてるしさっさと宿に帰ろう。こうして俺はオルフェイアのことは意識しないようにして逃げるようにその場を離れたのであった。