逃避行
さて、そうと決まれば俺たちが何をするのかは分かり切っている。持っていくほどのものは何もないので、身支度に大して時間はかからない。
俺たちは宿を出るとひたすら帝都を歩いていく。歩いて出ていくのは悠長な気もするが、お互い昨日までは普通に帝都で生きてきた身だ。歩いている分には誰も咎めない。それに下手に魔法を使って目立ってしまっても困る。
俺の中にはオルフェイアに対する特別な感情が芽生えつつあった。秘密を打ち明け合い、行動を共にすると決めたからだろう。そしてそんな特別な感情がまた別の特別な感情に変わるのも時間の問題かもしれなかった。
「しかしこうしてみると今日も帝都は普通だな」
「そりゃそうよ。変わったのは私たちの心境だけだわ」
帝都は姫の輿入れ、そしてそれと同時期に重なる祭に備えて人々は陽気に騒いでいた。また、祭目当ての出店や露店も増えている。ついこの間まではそういう人たちを見るとリアが不機嫌になるのでは、とか王国はこのまま帝国の属国になるべきなのかとか色々考えてしまっていたが今は何も思わなかった。
むしろオルフェイアという仲間を得て肩を並べて歩いている今が幸せと言っても過言ではない。お互い、もう何にも囚われなくてすむと思いながら陽気な街を歩くと、こちらも楽しくなってくるようだった。
「そういえばオルフェイアはお別れとかはいいのか? 俺と違って帝都に知り合いとかいるだろう?」
「そうね、でも帝国関係の人にお別れを告げる訳にはいかないし、これといった友達もいないし」
それを聞くと俺まで悲しくなる。
「……そうか。でもこの前のシラちゃんとかは?」
「いいのよ。夜の街の常連はしばしばある日突然来なくなるから。欠けていたものが手に入った人はもうあそこにはいかない」
そうか、俺はオルフェイアの欠けていたものを埋める存在になれたのか。そのことが俺には嬉しかった。俺は柄にもなく赤面してしまう。
「な、なるほど、確かに一生夜の街に通い続けるという人はそうそういないからな」
でも、オルフェイアにとってここの人々はただの客と得意先の関係だったのだろうか。俺もよくは知らないがそうだとしたら少し寂しい。
そんなことを考えているうちに俺たちは帝都を抜けた。帝都を抜けるとこの前ヤコン草を採りにいったときに通った草原が広がっている。この前は草を採って終わったが今度は森を抜けてその向こうにあると言われる別の国に向かう。
この地域でもはや歯向かう者のない帝国でさえも、この森の向こうに勢力を伸ばす気はないらしい。そのくらい、この森は広大で危険なところだという。もっとも、森の深いところまで行って戻ってくる者は少ないので詳しくは分からないが。
「そういえば最近ここら辺の狼の動きがおかしいらしいが」
「らしいわね」
ここで会話が途切れる。だめだ、会話が続かない。お互い余計な荷物を背負って人生を生きてきたせいで内向的になってしまっている。そのため何とはない会話というもののやり方が分からない。
しかも無言で一緒に歩いているとどうしても意識してしまう。これまで会ったときは一緒に遊ぶぐらいの気持ちだったが、今回の逃避行は外から見ればどう考えても駆け落ちである。しかもそこに思い至ると今朝方一緒の部屋に泊まっていたことがフラッシュバックする。
「どうしたの?」
「いや、何でも」
俺は考えていたことを頭から振り払う。そして誤魔化すように先を急いだ。
森に入ると、俺はかすかな違和感を覚えた。この前リアと一緒に来てから数日しか経っていない。しかしそのときに比べて生命の息吹をあまり感じないのだ。前に来たときは隙あらば俺たちを捕って食おうとする大蛇や虹色の体毛を持つ鹿など珍しい生き物をいくつか見かけた。
が、今はあまり見かけない。時々木の魔物が俺たちに襲い掛かってくるぐらいだ。だが、前のときも生物自体は少なかった。俺は森が危険な環境だからと思っていたがそうではないらしい。どうも森では生き物が減っているようだ。
「なんか危険な森って聞いてたけど全然大したことないわね」
そんな状況を知ってか知らずか、オルフェイアは能天気に言う。
「何か森の様子がおかしいようだが」
「そうかしら。結局、噂が独り歩きしただけで森に大した生き物なんて……」
オルフェイアの言葉が終わるかどうかの時だった。突然、ぐおおおおおおおという幾つもの重なった咆哮が聞こえてくる。声の方を見るとそちらには少し開けた地が広がっており、目を血走らせた狼が数匹いた。
俺は本能的に、奴らの尋常ならざる気配を感じる。次の瞬間、狼たちは俺たちに向かって飢えた獣のように押し寄せてくる。いや、この場合奴らは本当に飢えた獣だから“ように”は余計か。
「いるじゃない、大した生き物!」
見事なセルフツッコミだった。緊迫した状況なのに思わず笑ってしまいそうになる。
「違う、多分あいつらが森の生き物全部食ったんだ」
「何で急に?」
最近平野に出没する狼。ヤコン草の乱獲。森で飢餓状態になっている狼。ヤコン草を使う祭。もう少し考えれば何かが推測出来そうな気がしたが、俺たちは追いかけてくる狼の群れから逃げるのに必死だった。
森の中は木がうっそうと茂っており、暗くて足場が悪い。狼が暴食したおかげで森の生き物が減っていなかったら大変なことになっていたかもしれない。俺たちは必死に走るものの、この森は狼たちにとって庭のようなものなのだろう、障害物など何もないかのように追いかけてくる。
「オルフェイア、どこかで迎え撃とう」
「そうね。やるしかないわ」
俺たちはすぐ近くの少しだけ木が生えてないところに出る。ちょうど数人程度入れそうな広さで、数匹の狼を迎え撃つにはうってつけの場所だ。
俺は広場に入るとオルフェイアをかばうように立つ。そこへ前方を走っていた狼が二匹同時に俺に突っ込んでくる。その動きは素早く、呪文を唱える間もない。俺は剣を抜いて二匹相手に振り払う。
一匹は俺の剣を避けて後ろに跳びさすったが、もう一匹はまともに俺の剣を受けた。俺の腕に衝撃が走り、狼はそのまま吹っ飛ばされていく。が、さらに後続の狼が俺の懐に飛び込もうとする。
「ディフレクション」
オルフェイアの呪文とともに狼と俺の間に壁が出来、狼は勢いよく壁にぶつかって弾かれ、その場に落ちる。さらに残りの狼が押し寄せてくるが、目の前で倒れている仲間にさえぎられて進んでこれない。
「ショックブラスト」
オルフェイアの手から黒い塊のようなものが発射されて狼に命中し、狼は甲高い声を上げて跳び上がる。そして傷口から血を流しながらこちらに跳びかかってくる。
「最果ての地に住まう七つ首の龍よ、我に鱗を貸したまえ」
オルフェイアの魔法で生まれた隙をついて俺はようやく呪文を唱えることが出来た。狼は俺に跳びかかってくるが、俺の皮膚は硬質化し、狼の一撃を耐える。そして懐に入ってきた狼を俺は剣で貫いた。
ぎゃおおおおん、と悲鳴を上げてさすがの狼も倒れる。
が、そこで俺はふと違和感を覚えた。今オルフェイアが使っている魔法は初歩的なもので、おそらく悪魔契約の魔法ではない。悪魔契約の魔法にしては弱すぎるし、前に見せてもらった時のような禍々しさがない。
もしや……と思ったときだった。最初に吹っ飛ばした狼が俺の後ろにいるオルフェイアに襲い掛かるのが見える。それを見たオルフェイアの表情が変わる。
「ほどけよ」
オルフェイアが唱えると一瞬、俺の体をよく分からない感覚が駆け抜けたような気がした。そして狼がさらさらと粒子のように消えてなくなっていく。
「オルフェイア……」
危機が迫るまでオルフェイアが悪魔契約魔法を使わなかったということは、やはり悪魔契約魔法には危険があるだろう。近くにいるだけの俺ですら違和感があるのだ、オルフェイアは使うことでそれを直感的に感じているのかもしれない。
だが、感傷に浸っている暇はないし、襲い掛かってくる狼を前に手加減する余裕はない。
「ぐおおおおおおおおおお!」
さらに狼が俺に跳びかかってくるが、俺の剣にはじかれて吹っ飛ばされる。が、狼はそれでも目を血走らせて襲い掛かってくる。この狼たちは空腹のあまり本能をむき出しにして襲い掛かってくる。まるで痛みなど感じないかのように。
だが、吹っ飛ばされてから戻ってくるまでの間のわずかな時間は詠唱に十分だった。
「最果ての地に住まう七つ首の龍よ、その業炎で飢えた獣を焼き尽くせ」
襲い掛かってくる狼を虚空から現れた七つの炎が包み込む。炎は狼を核に膨れ上がる。狼は天高く断末魔の悲鳴を轟かせた。炎が消えた後、わずかに塵が残るばかりだった。
一方、さらにオルフェイアに向かっていった狼は一瞬のうちに消滅させられていた。戦闘に必死で今までのような違和感が俺の体に走ったのかはもはやよく分からない。こうして俺たちは襲ってきた狼を何とか全滅させることに成功した。
「大丈夫か!?」
俺は思わずオルフェイアに駆け寄る。オルフェイアは額に汗を光らせていたが傷はないようだった。
「大丈夫よ」
ただ、そう言うオルフェイアの声は少し震えていた。
「やっぱり悪魔契約の魔法は使うと害があるものなのか」
「分からないわ。でも、使うと言葉にしがたい違和感を覚えた。それに、本によると悪魔との契約で代償がなかった例はない。例えば、こんなお話があるわ。あるとき一人の戦士が敵国の軍勢に大切な人を殺された。我を忘れた兵士は復讐のための力を欲した。そんな彼の前に悪魔が現れた。兵士は悪魔が与えてくれる力を欲し、禁忌と知りつつも力におぼれた。悪魔の力を手に入れた兵士は力を振るい、敵国に復讐を果たした。敵国の王の首を手土産に大切な人の墓前に訪れた兵士はそこで悪魔の『では対価を回収しよう』という声を聞いた。突然墓の下に眠る彼女は起き上がった……悪魔の眷属として。そして悪魔は兵士に言った。『彼女は俺のものだ。肉体も魂も。一緒にいたければ俺のものになれ』と。それ以来兵士は恋人ともども悪魔の眷属となり、悪魔から受け取った力を使って大いに人間を苦しめたらしいわ。何かは分からないけど……私は何か大切なものを失うかもしれない」
その言葉を聞いて俺の背筋にぞくりと悪寒が走る。オルフェイアはようやく見つけた俺の安息の居場所だ。俺の苦悩を肯定し、運命とは無理に戦わなくてもいい、逃げることも出来るということを教えてくれた人だ。そんなオルフェイアと一緒に逃げるのにオルフェイアだけ何かを失うというのは嫌だ。
「そうなのか。なあ、もうその力を使うのはやめよう」
「そうね。ちょっと油断していたわ。これからはもっと魔物と出会わないよう、気を付けて歩きましょう」
「ああ。そして約束してくれ、どうしても悪魔契約の魔法は使わないと」
俺は真剣な瞳でオルフェイアを見つめる。オルフェイアは少し驚いたようだったが。俺の真剣さに打たれたのか、やがてこくりとうなずいた。