八年前
八年前、俺は王子から孤児になった。当時まだ八歳だった俺はそのときのことを断片的にしか覚えていない。そもそも当時の俺は詳しいことはよく分かっていなかった。
ただ、俺たちの祖国、エルロンド王国にアガスティア帝国が攻めてきていて、こちらが圧倒的に不利だったということは子供の俺でも察していた。
その日は朝から王城内があわただしかった。帝国が攻めてきて以来慌ただしくない日はなかったものの、その日はそれまでの比ではなかった。
王である父の執務室に続く道はひっきりなしに誰かが走ってきていて、執務室の前には常に長い列が出来ていた。父はもう一本、急を要する用件の者が並ぶ列を作ったがそれもすぐにいっぱいになってしまった。
そんな中、俺は慌ただしい城内を避けるように城の最上層に登っていた。周囲を見渡すと、王城の周りには城下町が広がり、その外には田園が広がる。さらにその外には森や平野があり、南側は荒れ地へ、北側には今や帝国のものとなってしまった都市が遠くに見える。
こうして見ると慌ただしいのは王城と一部だけで街のほとんどは人々がいつも通り活動しているだけだ。
俺がぼおっと景色を眺めていると、突然平野の端から黒い雲が湧き出てくるように帝国の大軍が現れた。それが見えた瞬間、カンカンと耳障りな音を立てて城の早鐘が連打された。
そこからの展開はめまぐるしい。あっという間に王国の軍勢が城壁の守備に就き、そこに帝国の軍勢が攻めかかる。帝国軍は数が多いだけでなく、破城槌や大櫓などを備えていた。そのため城壁の一角が破れて帝国兵が入ってくるのもあっという間だった。
幼いころからずっと暮らしていて、無敵だと思っていた王城の城壁が一瞬で破られるという光景にはなかなか現実感が湧かなかった。
「殿下、こんなところにいらっしゃいましたか」
父の家臣の一人が息を切らせて屋上に登ってくる。
「どうした」
「陛下がお呼びでございます」
「そうか」
俺はもう少しその光景を眺めていたかったが、辺りを矢や魔法が飛び交い始めたこともあっておとなしく家臣についていく。
城中は兵士や伝令が行ったり来たりで混雑しており、俺の移動は困難を極めた。平時なら一応王子である俺の行く手を遮ることは無礼な行為なのだろうが、そんな者がひっきりなしに来るのだからどうしようもない。結局、俺が父の元に通されたのは一時間ほど経った後だった。
執務室の父の顔は久しぶりに見ると随分と痩せこけており、表情は険しいものとなっていた。
「アレンよ、やっと来たか」
「父上、戦況はかなり悪いようですが」
「そのようだな。当初は安全なところに居させるつもりだったが気が変わった」
「もしかして俺も戦場に立つのですか?」
俺はごくりと唾を飲み込む。剣や魔法の手ほどきは受けていたものの、八歳だった俺は当然戦場に立ったことはない。俺の中に緊張と期待が交錯する。
ちなみに俺は生意気ながら当時から多少の自信はあった。だからこの危機に何らかの役に立てるのではないかということに期待はあった。
が、俺の想像に反して父は首を横に振った。
「違う。お前は逃げろ」
「そ、そんな! まだ戦いは始まったばかりじゃないですか!」
そのときの感情は鮮明には覚えていないが、子供ながらに父や国を見捨てて逃げることは卑怯なことと思っていたのだろう。
が、そんな俺に父は重々しい声で無情な現実を告げる。
「残念だが、始まったばかりだが終わりまでそう長くはない」
「な……」
さすがに俺も言葉に窮した。さっき敵が攻めてきたばかりだというのにそんなことがあるのか。
「父上、そんなのおかしいです!」
今のは俺の台詞ではない。見ると隣で王国将軍とその娘が同じやりとりをしていた。確か名前はリアと言ったか。何度かあいさつぐらいはしたものの、あまり親しいという訳ではない。
しかし今はそんな彼女が俺とまったく同じ立場に置かれている。
リアは身の丈を超えるほどの長剣を抱きながら父をにらみつけていた。その表情からは相手が誰であろうと一歩も退かないという覚悟が見える。
俺は同年代の娘が大人顔負けな覚悟を決めていることに驚く。リアの凄まじい剣幕にいつもは厳格な人柄で知られる将軍も困惑していたことを覚えている。
「しかしな、お前はまだ幼い。戦うにはまだ早い」
「そんな! 私はそこらの兵士よりは強いです!」
リアは抱いている長剣の柄に手をかける。その手を慌てて将軍が抑える。普段は常に兵士たちをいかつい表情で怒鳴りつけている将軍も今ばかりは頑ななリアの態度に動揺を隠せなかった。
「そういうことではない。お前にはそこらの兵士としての活躍をして欲しいわけではないのだ」
「どういうこと? 父上の言ってること全然分からない!」
そう言ってリアはそっぽを向く。
最初は困惑していた将軍もついにさじを投げたらしい。困惑していた表情を一変させ、険しい面持ちになる。
「ええーい、もういい、何でもいいからお前は逃げるのだ。これは将軍命令だ!」
「父上の馬鹿! わからずや!」
「うるさい、分からず屋はお前だ! 者ども、連れていけ!」
将軍が叫ぶと沈痛な面持ちをした家臣が数人やってきて、じたばたするリアの体を無理やり押さえつける。
そうなると所詮は少女。リアはわめきながらも無理やり連れていかれる。
「リア様、こちらへ」
「あほ! あんぽんたん!」
リアは罵倒の言葉を投げつけながら家臣に手を引かれていく。残された将軍は「最後に娘に言われた言葉はあんぽんたんか」と嘆息する。さて、リアの姿が消えると王は俺を見て諭すように言う。
「……という訳だ、分かるな」
「……分かりました」
元々俺は彼女ほど戦いたいという意識が強かった訳ではない。漠然とそういうものと思っていただけである。自分より冷静じゃない者がいると不思議と冷静になることがある。そんな訳で俺は父の命令を受け入れ、数人の供の者と城を後にした。最後に振り替えると、城下町に火が掛けられたのか、城は炎に包まれて見えた。