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第53話 ガチ説教

「――――あの人は、本物の化物だ。絶対に、気を許すな」


 久幸さんと、かつて車内で交わした言葉を思い出す。

 あの人は俺に、とても真摯に、出来る限りの警戒を促すように忠告してくれた。

 自らの母親を、紛れもない化物として語っていた。

 一瞬たりとも気を抜くな、と。

 絶対に気を許すな、と。

 虚勢を取り払って、青い顔で教えてくれた久幸さんの言葉から、充分に警戒していたつもりだった。

 だが、それでも実際に会った七尾千尋という存在は、紛れもなく化物で。

 俺は結局、己の警戒が甘かったことを反省した。

 だからこそ、想定だけはしてきたつもりだった。

 どのような言葉で揺さぶられようとも、揺るぎない信念で応えるつもりだった。勝てるとまではいかずとも、負けないように。

 せめて、俺たちの意思、覚悟、主張だけは七尾千尋へ、届けられるように、と。


「今言っても、恐らくは実感するまでは無意味だろうが、言っておこう。伊織、お前はあの余語……いや、七尾千尋を過小評価している。過大評価しているつもりで警戒しているようだが、それは違う。奴の真骨頂は、実際に体験してみなければわからん。だから、俺のアドバイスを思い出すのは、窮地に陥ってからにしろ」


 つい先日、叔父さんから聞いた言葉を思い出す。

 過小評価が過大評価。

 その言葉を受けて、俺はまるで信じなかったわけでも無いが、心のどこかに、『そんなに恐ろしいのか?』という考えがあった。それほどまでに、言葉でこちらを操ることに長けた人物なのかと、一層気を引き締めたつもりだった。

 けれど、違ったんだ。


「諦めるな、伊織。格上との戦いで大切なのはな? 負けた、と思ってからの不屈の心だ。足掻け、みっともなく足掻いて、最後まで戦え」


 まるで、違ったんだ。

 七尾千尋という化物は、俺たちの想定を軽く飛び越える怪物だったのだ。



●●●



「ええと、母さん? 一体、何を言っているのかしら? ひょっとして、実は、全然私たちの関係を許してくれなかったり? あ、伊織君のことに関して気を遣ってくれているのかしら? でもね、大丈夫。伊織君の好意を利用して弄んだ、とかじゃなくて、伊織君にはちゃんと可愛らしい彼女が――」

「楓」

「…………っ!」


 まず、俺たちにあったのは疑問だった。

 一体何故、千尋さんはこのようなことを言い出しているのだろうか? と。冗談にしては、空気が読めていないし、質が悪いじゃないか、などと、暢気な思考を巡らせる余裕すらあったのである。

 しかし、千尋さんが次の言葉を口にした瞬間、俺たちの考えがどれだけ甘かったのかを思い知らされた。


「現実的に考えて、貴方たち二人が安全に幸せになる方法はこれぐらいしか無いのよ。少なくとも、私にはこれぐらいしか思いつかなかったわ」


 直感は告げる。

 これは紛れもなく、本心からの言葉であると。

 つまり、千尋さんは本心で二人の幸せを願っており――――そのためには、楓が俺の子を産まなければならないと、考えているようなのだ。


「まず、一般的な現実のお話をしましょう。鈴音ちゃん、楓。二人とも、今後の進路はどうするつもりなの? 進学? 就職?」

「…………その、私と楓は、東京の大学に進学して、二人でルームシェアをしながら、通おうかな、と考えていて……」

「楓、そのための費用はどうするの? 七尾家としては、相応のランクの大学に進学するのであれば、全面的に資金面を援助できるけれど?」

「馬鹿にしないで、母さん。私たちはね? 互いにバイトをしたり、生活費を稼ぎながら、一緒に苦楽を――」

「駄目ね」


 楓の言葉を、千尋さんが首を横に振って切り捨てた。

 論外、とでも言うかのように。


「楓、貴方は自分を基準に他者へ期待しすぎ。特に、身内に対する評価が甘すぎるわ、真面目に考えなさい。この子、鈴音ちゃんは貴方が通うような大学に合格できる学力があるの? よしんば、入学できたとしても、学費はどうするの? 奨学金制度を利用するのなら、返せる見込みを考えてからにしなさい。そして、学費をどうにか出来たとしても、生活費をバイトで折半しながら一緒に暮らす? 出来るの? 見たところ、鈴音ちゃんはあまり社交的ではないタイプなのでしょう? 何か、東京に出て生活費を稼げるだけの一芸があるの? あるならいいけれど、無いなら出来る職種は限られるわよ? 接客業はどこでも求人を出しているけれど、それはつまり『辞める人が多い』ということ。一か月以上、きちんとお仕事を続けられる? そもそも、鈴音ちゃんはまだ学生だし、まだ本格的なアルバイトを経験したことは無いんじゃないかしら? 大丈夫? 大学の講義を受けながら、きちんと生活出来る自信がある?」


 千尋さんの口から紡がれるのは、冷たい否定ではなく、ガチの説教だった。

 母親として、本気で子供の進路を憂うからこそ、紡がれる言葉だった。

 そして、正論かつ、かなりまともな説教だった。

 だって、俺でもわかる…………倉森、楓、その未来予想図は流石に無理があるぞ。


「進学も、ルームシェアも否定しません。ですが、貴方たちもそろそろ高校二年生でしょう? 真面目に進路を考えなさい。少なくとも、色ボケした頭ではなく、きちんと相談し合って、お互いが無理なく過ごせるようにしなさい。貴方たちのプランだと、鈴音ちゃんがヒモになるか、三年も経たずに破局するかの二つの末路があるぐらいよ?」

「「…………はい、ごめんなさい」」


 ガチ説教されて、楓と倉森の二人は露骨に肩を落とす。

 その様子を見て、俺は迂闊だったと己の至らなさを嘆いた。

 俺たちは作戦会議中、終始、『どうやったら楓と倉森の関係を認めて貰えるか?』という議題について話し合っていたのだが、認めて貰った後の話など、考えていなかった。

 いや、そもそも楓と倉森の将来については、二人が話し合って決める物だと考えていたのだから、口出しするつもりも無かった。

 それがまさか、交際許可を貰ってからのガチ説教の流れになるとは。


「さて、考え足らずの二人だけれども、大学を卒業した後のこともきちんと考えているかしら? ああ、どこに就職するとか、そういうのではないわ。もっと漠然とした未来の話でいいの、そう、例えば――――子供のこと、とか」

「…………あの、母さん。子供に関してはまだ、その、実感が湧かないのよ。だって、私たちまだ学生だし。それに、その、女の子同士だし……養子を取ることがあるかもしれないけれど、私たちが産むことはあまり、ね?」

「楓、軽々しく養子を取るなんて言わないの。犬猫を買うのでさえ、最低限の責任が必要なのよ? 人間一人、きちんと育てる自信なんて、子供を産んだ母親ですら無いの。まして、血の通わない人間が、軽々しく、自分たちの未来のために、誰かの命を利用するような発言は慎みなさい」

「…………すみませんでした」


 辛い。

 友達が隣で母親から、ガチ説教を受けている時、俺はどんな顔をして座っていればいいのだろうか? もう、紅茶を飲む動作をするのすら、気まずいんですが?

 しかも、千尋さんの言葉はとても真っ当なので、口出ししづらい。

 その言葉が、二人に必要だと俺自身が思っていれば、尚更だ。

 …………例え、この流れが全て千尋さんの術中であったとしても。


「無論、子供を産む、産まないは当事者の判断よ。だから、鈴音ちゃんに関して、私は何も言わないし、言えない。貴方の将来に関して、貴方のお母さんとちゃんと話し合って欲しいと思う、それだけ」

「お母さん、と話し合う、か…………うーん」

「付き合う人が女の子じゃなくとも、親ってのは子供がどんな人を愛するのか、ちゃんと知っておきたいものよ。気恥ずかしい想いや、どこか気乗りしない想いがあったとしても、ちゃんと話し合って欲しいわ。それが、楓の母親である私から、鈴音ちゃんへのお願い」

「…………はい」


 既に、倉森はガチ説教によって、借りてきた猫みたいな精神状態になっている。

 説教の内容がほとんど、倉森と楓に対しての真摯な言葉だったが故に、ろくに言葉を挟むこともできず、心が折られかけていた。

 ええい、励ましてやりたいが、今はその時じゃない。後できっちりフォローするとして、問題は楓の方だ。


「さて、それじゃあ、楓。そのことも踏まえて、貴方が伊織君の子供を産んだ方が良い理由を教えてあげましょうか」

「母さん。さっきまでの話はきちんと分かったわ、私の考えが甘かったってわかる」


 でもね、と言葉を次いで、語りだす楓の目には意志の光が消えていない。

 まだ折れていない楓は、パートナーの分もとばかりに言葉を並べる。


「私が伊織君の子供を産むのは、まだ別の話。というか、母さんが言ったのでしょう? 命よ? 子供よ? しかも、恋人じゃなくて、友達の伊織君に頼むのよ? 仮に、私が良しとしたとしても、伊織君が、好きな人と想い合っている人が、快く受けてくれるわけがないじゃない! 私は、私の友達が苦しむような真似は絶対にしたくないわ!」

「楓……」

「楓姉さん……」


 母親に対する怒りを含んだ、強固なる意思の主張。

 その横顔に、俺たちが外野二人はつい感動した。まず、俺たちのことを考えて、言葉を発してくれる楓の姿が尊くて仕方がない。

 だが、それでも千尋さんの表情は崩れなかった。

 一切笑みを浮かべない真顔のまま、千尋さんは楓の言葉に答える。


「そうね、私もそう思うわ。恋人でもなく、友達にそんなことを頼むなんて、道理として間違っていると思うわ」

「だったら――」

「でも、貴方たちが始めてしまったのが、原因なのよ?」

「…………えっ?」


 えっ?

 視線を向けられた俺と楓は、一度顔を見合わせた後、再度視線を千尋さんへ戻す。

 千尋さんは頬に手をやり、ふぅ、とこの状況を嘆くような吐息を漏らした後、語り始めた。


「貴方たちの偽装交際にね、騙された人と騙されなかった人が居るの。学校の生徒さんたちは騙されていたかもしれないけど、楓のことをよく知る、私たち七尾家は貴方たちの関係が偽装であるとすぐに気づいていたわ。だって、楓、貴方は大切な関係の人ほど、私たちから隠そうとするものね? まったく、私たちの誰よりも優れた性能を持っているのに、この子はどうしてそういう面で自信が無いのやら……」

「う、うう…………な、なによ! 私たちの偽装交際がお粗末で、見え見えの茶番だったからいけないとでも言うの?」

「違うわ。むしろ、逆なのよ」


 千尋さんはどこか遠い目をして、俺たちへとある事実を告げた。


「その茶番が余りにも、彼らの望んでいた未来に近しいものだったから、ついつい縋りつくように騙されてしまったの。そう、それが、貴方たちを巡る状況がややこしくなった始まり。正直、楓一人ぐらいだったのならば、私との伝手でどうにでも出来たのだけど。貴方たちが、今みたいに、ちゃんと私に伝えてくれるのなら、どうとでもしてあげたのだけれど」

「…………えっ?」


 呆けたような声を出す楓。

 俺もまた、半口を開けて、思い至った結論に唖然する。

 いや、まさか、そんな。


「全ての始まりは、貴方たちの嘘を信じてしまった組織が居たことだった。よしんば、信じてなくとも、そうすることに意義を見出してしまったことが問題だったの」


 足元から、冷たい水が徐々に体を浸食してくるような嫌な予感。

 それは、いつもの如く、やはり俺の予想通りに的中してしまった。


「七尾楓と、天野伊織。二人の血が混じり合い、『救世主』の誕生を願ってしまった組織(委員会)が居た。それが、貴方たちを取り巻く、ややこしい事情の根底よ」


 俺たちの偽りこそが、何より、俺たちを苦しめることになった始まりであると。

 まるで、俺たちの根底を否定するような事実に、気づいてしまったのだ。

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