第52話 母の想い、子の挑戦
叔父さんに教えられたことであるが、本当の交渉上手とは、交渉相手を論破することは無いうのだという。
そもそも、相手を論破してしまった時点で印象は最悪。相手を言いくるめた時は、優越感を覚えたとしても、後から考えればマイナスの面の方が多い。
故に、相手を論破するのが得意という人物は、実は交渉上手ではない。ただ単に、口喧嘩が上手いだけだ。それだけならば、探せばいくらでも居るし、何より、口喧嘩が強いと思い込んでいる人間など、それこそごまんと居るだろう。その大半が、周囲から呆れられて相手にされなくなったという情けない事実にも気づかずに。
だから、本当の交渉上手とは、相手に納得を与える存在らしい。
言い負かすのではなく、その通りだと納得させて、相手の協力を得るための話術に秀でた存在こそが、本当の交渉上手だと、叔父さんは語っていた。
そして、その先が存在するということも。
有り余る言葉を尽くして、相手を見事に操って見せる恐るべき一族。
余語の字を持つ覚醒者。
「さぁ、楽しいお話をしましょう? そのために、貴方たちは来たのよね?」
七尾千尋。
旧姓、余語千尋。
有り余る言葉を尽くして、千の問いを操る者。
叔父さんをして、交渉事では分が悪いと言わしめる程の怪物と、これから、俺たちは言葉を交わさなければならない。
●●●
交渉の段取りは、思った以上にスムーズに進んだ。
楓が直接、母である千尋さんへと『大切な話がある』と伝えると、待っていましたとばかりに千尋さんは予定を作ってくれたらしい。
時間帯は、放課後の夕暮れ時。
場所は、段々と見慣れてきた七尾家の客間。
俺たち四人と、千尋さんは、一つのテーブルを挟んで向かい合うようにして、ソファーに座っていた。
テーブルの上には、使用人の方々が淹れてくれた紅茶と、お茶菓子があるが、この場に居る誰もそれに手を付けていない。無論、今更一服盛られるなどとは思っていないが、単純に、俺たちはお茶を楽しむ心の余裕が無いのだ。
「あらあら、折角のお茶が冷めてちゃうわよ? ささ、遠慮しないで」
にこにこと、割烹着の婦人、千尋さんが微笑ましい物を見るように、穏やかな視線を俺たちに向けてくる。
だが、俺たちは知っているのだ。
その柔和な笑みの下には、その笑み通りの柔らかな感情があるのでは無く、もっと得体のしれない何かを隠しているのだと。
油断は不要。
元より、千尋さん相手に油断する余裕など俺たちは無く、こうして数の優位を保っていても、欠片も気が休まらない。いいや、欠片でも気を抜くと、『強制的に骨抜きにされてしまいそうな雰囲気』を千尋さんが纏っているが故に、意図的に緊張していなければならないという状態なのだ。
「ふふふ、嬉しいわぁ。楓がこんなにお友達を連れてきてくれるなんて。この子はいつも、何処か友達相手でも一線を引くところがあってね? 中々、うちに連れて来てくれなかったの。だから、高校では気の置けない友達が出来て、母さんとっても嬉しいのよ?」
しかし、だからこそ、緊張しているからこそ相手の言葉を変に勘繰ってしまう。他愛ない雑談でも、本心からの言葉だとしても、その裏を探ってしまいそうになる。
疑心暗鬼。
相手の能力を知っていてなお、いいや、知っているからこそ、最初の言葉を躊躇ってしまう。少なくとも、千尋さん相手にはそういう予感があった。
世間話に乗って、安易な一言でも発してしまえば、その時は既に、喉元に言葉の刃を突き付けられているような予感が。
「――――母さん」
けれど、いつまでも躊躇ってなど居られない。
例え無様に終わるとしても、同じ土俵に上がらない限りは戦いにならないし、認めてもらうなどとは、夢のまた夢だろう。
そのため、楓は意を決して行動を起こした。
まず、生温くなった紅茶を飲み干し、ことん、とテーブルに置く。その後、千尋さんを睨みつけるように視線を向けたまま、右隣に居る倉森の肩を、がっと抱き寄せる。
「え、ちょ――」
「私たち、付き合っています!!」
一気呵成の一言だった。
作戦会議で立てた段取りガン無視の一言だった。
思わず、抱き寄せられた倉森でさえも、『何言ってんの、こいつ?』とドン引きしている。そう、完全アドリブをやらかしたのだ、こいつは。
…………まぁ、千尋さん相手の場合、返ってそれの方が良いかもしれないけれど。
「あらあら、まぁまぁ」
一方、実の娘が百合カップルを構成していたという告白を受けた母親といえば、随分とのんびりとした反応だった。
口元を片手で抑えて、如何にも『驚いたわ』というリアクションをして見せて。
「――――男の子と女の子、両方と付き合うなんて、うちの子は見境が無いのねぇ、うふふ」
「「違います」」
予想よりも斜め上の応答で、言葉を返して来た。
うん、そう来たか。というか、素の反応なのだろうか? それとも、心を読んだ上で惚けているのだろうか? ええい、どちらにしても楽しんで発言していそうだから質が悪い。
「母さん、聞いてちょうだい。私はね、実は……」
惚けた態度の母親に対して、楓は真剣な表情で説明を始める。
倉森と楓の関係について。
俺と楓の偽装関係について。
そして、これからのことについて、震えそうになる声を抑えて、言葉を切り出した。
「というわけで、騙していてごめんなさい、母さん。けれど、家族を騙そうとしたことは謝っても、この人と、鈴音と付き合っていることを謝るつもりはないわ。例え、七尾家の事情があったとしても、よ」
千尋さん相手に、毅然とした態度だったと思う。
少なくとも、俺が千尋さんと対峙した時よりも、よっぽど立派だ。この後、何が起こるか分からない恐怖に怯えながらも、己の言葉を最後まで紡いだのだから。
「ふんふん、なるほどね」
ただ、やはり千尋さんのリアクションが判別しにくかった。
一見すれば、娘の告白を真摯に聞いているような、何処にでも居る……いや、滅多に居ない若い母親なのだが、如何せん、このままでは終わらないと俺の直感が告げている。
さて、楓の告白に対して、どういう言葉で切り返してくる?
「倉森鈴音さん、でよろしかったわよね?」
「あ、ひゃ……はいっ!」
「うふふふ、何度か挨拶を交わしたことはあるのだけれど、まさか、こんなに可愛らしい女の子付き合っているなんて、この子も隅に置けないわねぇ」
柔和な笑みを浮かべたまま、千尋さんは視線を楓の隣へ、倉森へと移す。
楓は即座に、自分が何かを応えようと思ったが、それは倉森が背後から背中を軽く叩いて制した。
そう、その判断は正解である。
ここで倉森が口を開かず、応答を楓に任せるようでは、後々に響く。少なくとも、互いに対等な恋人同士には見られなくなる可能性もあるのだ。
だからこそ、倉森は逃げることなく千尋さんの言葉を受けて立つ。
「鈴音ちゃん、無粋かもしれないけれど、おばさんから貴方に質問をしてもいいかしら? うん、たった一つだけ、真剣に応えてくれればいいの」
「はい、なんでしょうか?」
「貴方は、この子を、七尾楓を愛している?」
「――――はい、愛しています」
千尋さんの問いへ、即座に答えて、倉森は言葉を続けた。
「今までの人生の中で、家族以外で、ちゃんと愛しているって思ったのは、こいつ……楓が初めて、そして、うん、楓が最後になればいいな、って思います」
黒縁眼鏡の奥から覗かせる、確かな意思を伴った視線は、まっすぐ千尋さんへ向けられていて。言葉には偽りも迷いも無い。
未来は分からないけれど、現在と、続く未来がそうであればいいという願いが籠った真摯な言葉だった。
躊躇うことなくその言葉を紡ぎ、揺らぐことなく言い放った倉森の姿は、楓に負けず劣らずに美しい。
「……鈴音ぇ」
「ちょっ、こら、抱き着くな! 気を抜くな、馬鹿!」
「だってぇ! あの鈴音がこんな……うう、嬉しすぎて吐きそう」
「絶対にやめろ、即座に私の愛が冷めるぞ」
その美しさと来たら、隣に居た馬鹿が思わず抱き着いてしまうほどである。
おう、仲が良いのはよろしいが、状況を考えような?
「………………ふむ」
そして、俺たちは千尋さんの言葉を待つ。
柔和な笑みを消して、真顔で俺たちを観察する姿はさながら、死後の沙汰を言い渡す閻魔も如くさながらだが、それもまた数秒のみ。
「うん、わかったわ」
千尋さんは今までの雰囲気を払い、静かな笑みを浮かべた。
今までのわざとらしいほどの柔和な笑みではなく、大人として子供たちの幸福を願うような、そんな本物の笑みだった。
「そこまで愛し合っている二人を引き裂くなんて無粋よね、うん……好きにしなさい」
故に、俺たちの心は思わず浮足立ってしまった。
本物の笑み。
二人の交際を認める言葉。
これを本心から言っているのだから、俺たちが思わず、心の中でガッツポーズを取るのも仕方なかった。
――――未だ、俺の直感が『終わっていない』と告げているというのに、思わず、安堵してしまった。
「ただし、おばさんから一つだけ二人の交際を『七尾家として』認めるにあたって、条件があります」
思わず笑みを浮かべた楓の表情が固まった。
俺と同じく、安堵の息を吐いた倉森は、虚を突かれたように目を丸くしている。同じく、外野に徹していた俺と太刀川も、完全に不意を突かれたような形になって。
「楓。自由を手に入れたいのならば、貴方は彼の――伊織君の子供を産みなさい」
『えっ?』
余りにも唐突で、理解が及ばない問いかけに、俺たちは揃って疑問の声を上げた。
「それが、私が貴方たちに提示する最善策です」
千尋さんの顔には、もう笑みは無い。けれど、その冷たく超然とした表情も、紛れもなく千尋さんの本心からの物だと、俺は直観した。
浮かべた笑みも、紡いだ言葉も、紛れもなく本物であると、確信してしまった。




