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第45話 母の味

 これが夢であると、俺は即座に理解した。


「母さん、またハンバーグ? いい加減、俺、子供じゃあないんだけど?」

「馬鹿言いなさいな、中学生は十分子供だよ」

「まぁまぁ、母さん。伊織も大人ぶりたい年頃なんだ。ここはひとつ、大人らしく珍味の一つでも。ほら、ここにちょうど良くチラシが」

「それは貴方の食べたい物でしょう? お父さん」

「やれ、食ったもので子供か大人を決めるなんざ、無粋だよ、孫」

「えぇ? だって、酒は二十歳にならないと飲んではいけないんだろう?」

「阿呆、それは法律の話だろう? うちの爺さんとアタシなんざね、中学の時から、酒はたしなんでいたよ」

「婆さん、なんで孫に自らの悪行をばらすんだ?」

「酒や煙草程度で、寿命なんざ大して左右されないって教えるためだよ」

「お義母さん、教育に悪いので辞めてください」

「ふん、言うようになったじゃないか、嫁。大体、アンタが嫁に来た時は、そりゃあ、頭が金ぴかでね――――」

「それ以上言うと、日々の味噌汁に少しずつ塩分を増やしますよ? お義母さん」

「やってみな? アタシが高血圧で死ぬ前に、アンタをいびって、ストレスで殺してやるよ」

「んもう! 喧嘩は止めなって、母さん、婆さん! 父さんと爺さんも止めてくれよ!」

「「女同士の戦いには、男は口を挟まない」」

「うちの家族はどうして、男性陣と女性陣でこうも気性が偏っているんだよ……」


 何故ならば、既に無くなったはずの一家団欒の光景が、俺の眼前にあったからである。

 家族。

 天野伊織が、自らの家族と共に夕食を囲んでいる光景。

 一家団欒と呼ぶには少々騒がしすぎるそれ。

 当時、天野伊織はそんな騒がしい食卓にうんざりしていたようだが、まさか、一週間後には、もう二度とこの騒がしさにうんざりしなくて済むとは思わなかっただろう。

 まさか、もう二度と家族と食卓を囲む機会が無くなるとは。


「分かった! 分かったよ! 好き嫌いせずに、なんでも食べるから! 母さんも婆さんも騒がしくしないでくれ! まったく、食事中だぜ?」

「「…………ちっ!」」

「うちの女性陣の精神年齢が心配だ……何なの? 嫁と姑って、そんなにストレートに言語で殴り合う関係なの? もっと陰湿にジメジメするかと思ってたよ、俺は」

「甘いな、息子よ。うちの嫁姑関係は、時折、武器を持ち出す」

「金属バットと薙刀の大立ち回り時は死ぬかと思ったぞ、主にワシらが」


 わいわい、がやがやと、言葉が途絶えることなく食事は続く。

 テレビの音声が掻き消されるほど、喧しい家族の食卓。

 そんな中で、うんざりした様子で天野伊織が食事を進めている。

 その様子を、俺は外から眺めていた。

 当事者ではなく、外野として、俯瞰するように眺めていた。

 何故ならば、これは俺の記憶ではなくて、『前』の天野伊織の記憶だから。


「――――別に、俺はお前なんだからさ、区別しなくてもいいのに」


 食事を進めていた『前』の天野伊織が、ふとこちらに、俺の方に視線を向ける。

 やれやれ、と箸をテーブルに置くと、ぱん、という柏手を一つ。それだけで、賑やかな食卓の記憶は消え去り、残ったのは、俺と『前』の天野伊織だけ。


「今回は残念だったな、俺。でもまぁ、なんとかなったから結果オーライってことで」


 その天野伊織はいつの間にか、真っ白な無貌の仮面を被っていた。

 もう既に、この顔はお前の物だ、とでも語るかのように。


「そりゃあ、お前さんの物だからな。中古の肉体で悪いが、上手く使ってやってくれ。もっとも、既に元々の俺の要素なんて、外見ぐらいな物だろうけどな? 何せ、俺はハードボイルドの探偵よりも、温泉宿にふらふら居座るそこそこ売れっ子の作家になりたかったんだ。いいか? そこそこ売れっ子ってのが、ポイントでな? 売れすぎると忙しくなるから、適度に売れて、尊敬されて、自尊心を満たしながらのんべんだらりと暮らしたかった」


 中々に屑な夢である。

 その癖、出版社の新人賞にはろくに応募もしていなかったのだから、傲慢極まりない夢だ。


「そう、夢だ。夢なんだよ、俺。こんな俺なんて、所詮は夢さ。残骸さ。だから、都合の良いように使い潰してくれて構わないんだぜ? 俺に、遠慮なんてしなくていい。俺なんて、所詮は運悪く死んだ、何処にでもいるような男子高校生に過ぎない。いつまでも、人格の保持なんてするもんじゃあない。死んだ子の年を数えたって、良いことなんて皆無だぜ?」


 それを決めるのは、俺だ…………お前ではない。


「お前も、俺じゃあないか。そもそも、俺があの時、怒りを生み出さなければ、お前は適切な判断が出来たんだ。俺の主観的記憶が、仇になったんだ。だったら、やるべきことは一つだろう?」


 うるさい、黙れ。


「…………やれ、俺の癖に情が深い奴め。だったら、せめて、本当に大切な時は躊躇うな。完全に制限を外す時は、躊躇うな。その時が来れば、迷わず生者を取れ」


 肩を竦める無貌の俺の態度に、俺は苛立ちが止まらなかった。

 何故、何故、こうなんだろうか? こいつは、何故、こうも潔いふりをするのだろうか? 本当であれば、悔しくて、苦しくて、『生き返りたい』のは、そっちだろうに。

 正当な天野伊織は、そっちだろうに。

 何故、そんなにあっさりと『席』を明け渡すんだ?


「さてね? お前も俺だから、その内わかる日が来るさ。もっとも、こんな夢なんか、起きたら直ぐに忘れてしまうんだがな? さて、そろそろ時間だ。いい加減、立ち直って目を覚ませ」


 ぱぁん、と清涼なる柏手が一つ。

 この音はまるで、この夢そのものが弾けるような音で。


「天野伊織。お前はいい加減、死者を踏み越えて、先に行け」


 覚醒の瞬間、いつものように俺はこの夢を全て忘却した。



●●●



「起きなさい、伊織君。ご飯の時間よ?」


 揺り籠の中で揺さぶられるような、幸福な微睡みから引き上げられる。

 ふわふわとした夢と覚醒の狭間から、聞き覚えのある友達の声で、天秤は覚醒の方へ傾いていく。


「今日のご飯は私が作ったのよ? ほら、さっさと起きなさいってば」

「ん…………わかったよ、楓。起きる、起きるから、あんまり揺らさない、で、え?」


 聞き覚えのある声だった。

 声色も、言葉から発せられる感情も、俺の肩を揺さぶる動作も、まさしく七尾楓その物だった。事実、俺の体はまるで警戒しておらず、完全なる安心感と共に目を開いたはずだったというのに。


「うふふふ、ごめんね? おばさんったら、年甲斐もなく悪戯してみたくなったの。あ、楓には内緒にしてね? こういうことをやると、嫌われちゃうから」


 目を開いた先に居たのは、楓ではなかった。

 ゆるふわとした、美しい茶色の髪。

 大学生の子供がいるとは思わぬ、若々しく、幼ささえ残る容姿。

 古風な、割烹着姿。

 どれだけこちらが警戒していても、その警戒を軽々とこじ開けて、いつの間にか隣に座っているような、奇怪な気配。

 七尾家の婦人にして、楓の母親。

 七尾千尋という人外が、俺の目の前に居た。


「でも、ちょっと嬉しかったりするの。なんだかんだ言いつつ、女性はいつでも若く見られたい物だから。ふふふ、娘の真似をして、娘の彼氏を騙せちゃうんだから、私の若作りもちょっとしたものだと誇ってもいいかしら? いえ、駄目ね。息子と娘たちに真顔で怒られてしまうわ、うん」


 朗らかな表情で。

 どこまでも人畜無害を装って。

 意識しなければ、緩やかに脱力して、警戒できなくなってしまうような、そんな、抗いがたい眠気のような、謎の気配が、七尾千尋という存在にはあった。

 そう、これほど特徴的な気配だったというのに、俺は、気付けなかったのである。

 天啓染みた直感と直観がある俺が、寝ぼけている最中とはいえ、完全に騙されていたという事実に、俺は心胆が冷える感触を得た。


「…………あー、その時は、僭越ながら俺が弁護させていただきます。思ったよりも、似ていたと証言しましょう」

「あらあら♪ そう言ってくれると有り難いけれど、娘には余計に怒られてしまう奴ね。あ、そうそう、彼氏君。七尾家特性のおじやを作ってきましたけど、いかがです?」

「ええ、有難く頂かせてもらいます。寝起きではしたないのですが、どうにも腹が減ってしまって、仕方ないのです」

「ふふふ、そう言ってくれると思って土鍋たっぷりに作ってきたから、遠慮せずに召し上がれ」


 けれど、背筋が凍えるからといって、驚いたからと言って、他者の善意は易々と跳ね除けることは出来ない。

 善意と誠意を持つ行動を、強く拒絶することは悪だからだ。

 例え、得体のしれないと感じている相手だとしても。

 …………大丈夫だ、落ち着け、何もされていない。多少、混乱していても、五感はクリア。眼前の婦人がどのように動こうが、俺へ致命的なダメージを与えることは出来ない。性能が違う。だから、そう、大丈夫だ。

 怖がらなくて、いいんだ、俺。

 怯えるな、俺。


「うちのおじやは私専用料理なのよ? ふふふ、子供たちが風邪をひいた時は、決まって私が作ってあげてね? ポイントはお米からきちんと丁寧に土鍋で煮ること。卵は新鮮な物を使うこと。薬味はたっぷり入れる事。後、愛情もね?」

「やれ、ご婦人の愛情が籠ったおじやをいただけるとは。これは、御主人に悪いですね?」

「あらあら♪ こんなおばさん相手に口がお上手ね? でも、そうかもしれないわ。誠司さんってばあれで嫉妬深いから、うふふ…………だけど、これはお礼も兼ねているのよ? だから、遠慮なく食べてくれると嬉しいわ」

「お礼、ですか?」

「ええ、そう。私、彼氏君に感謝しないといけないの」


 違和感に惑うな。

 眼前に差し出された、かぐわしき美食を前にしても、ピクリとも食欲が湧かないという違和感の、その意味を探れ。

 何故、こうも、朗らかな笑みを、楓と似通った、血の通った母親であるという安心感を与える笑みを向けてくれているというのに、こうも俺の心胆は冷めきっているのだろうか?


「ありがとう、天野伊織君。貴方の尽力のおかげで、私が狂わせたあの子の影人を、調律し直す手間が省けたわ」


 その答えは、婦人からの答えで明白となった。

 なんてことはない。

 俺、天野伊織は、現時点で――――――七尾千尋という、如何にも人畜無害のご婦人が、鬼畜外道の化外の類であると、直感してしまっていただけの話だったのだから。


 ちなみに、おじやは普通においしゅうございました。

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