第41話 結ばれぬ恋でも、恋
恋のきっかけは、中学時代の失敗からだと、八畑は語る。
「昔はさ、信じていたんだよ。一番辛い練習をすれば、誰よりも練習を重ねれば、自分よりも練習していない奴には絶対に負けないって。そんな風に、自分を過信していた」
八畑九郎という少年は、幼い頃から野球を続けてきた、生粋の球児らしい。
物心つかない頃からボールに触り始めて、地元では誰よりも上手かった。走るにも、投げるのも、打つのも、守るのも、全て後から野球を始めた奴には負けなかったと、八畑はどこか自嘲交じりに語ってくれた。
「でも、それは間違いだった。俺が子供の頃から愛読していた野球漫画には、努力が才能を凌駕するシーンはあったけれど、あれはフィクションだった。いや、努力が無意味ってわけでは無いぜ? うん、そもそも、野球の天才って野球ばっかりやっている人が多いし。あー、つまりは、あれだ。ケースバイケース。才能も努力も大事だけれど、やっぱり、越えられない壁と言うのも存在するわけで…………幼い俺は、それを認められなかったんだよ」
小学校高学年ぐらいだったらしい。
段々と、周囲に少しずつ得意分野が奪われていったのは。
最初に奪われたのは、走ること。八畑よりも足が速い奴が、頭角を現してきたこと。
次に奪われたのは、打つこと。前者はまだ、陸上を趣味でやっている走る専門みたいな奴だったから納得できた八畑だったが、ボールを打つという野球に関する得意分野が奪われたのは、自分の体の一部が引きちぎられるほどの苦しみがあったらしい。
そして、最後に残った投げること。
エース。
野球の花形の一つ。
それだけは絶対に奪われたくないと、八畑は呪いのような執着心に憑りつかれた。
「馬鹿だよな、もっと早く気付くべきだった。俺に、野球の才能が無いってことをさ。才能が無ければ、無いなりに上手くやればいいだけの話だったのに…………俺が憧れた野球漫画の主人公は、才能が無い癖に甲子園とかに行ってさぁ。だから、耳触りの良い言葉に縋った。努力は絶対に裏切らない、なんて、滑稽な言葉に…………もっと、もっと早く教えて欲しかった。確かに、努力は自分を裏切らないけれど――――それは、目標設定と現状把握が間違っていない時に限る、ってさぁ」
とにかく、数を投げたらしい。
教本やら、ジュニアスポーツのコーチからのアドバイスを無視して、日が昇ってから、日が沈むまで投げ続けたらしい。時には、日が沈んでからも、電灯に照らされながら、何度も、何度も、壁に向かって。
「天野。努力ってさ、魔法じゃねぇんだよ。努力をすればなんでもできるってのは、間違いなんだ。傲慢なんだ。中学生の時の俺はそれが分かってなくて…………だから、壊れた。中学二年生の春。まだ東北の桜は蕾すらついていない頃だったよ」
違和感は前々からあったらしい。
それでも、誤魔化し続けて、投げて、投げて、投げて。
そんなある日、特に全力でもなく、肩慣らしのキャッチボールの最中の出来事だったと、八畑は苦々しい笑みを浮かべた。
「気づくと、腕が上がらなくなっていたんだ。別に、最初は痛みがあったわけじゃないんだよ。ただ、何かがふっと無くなってしまったような違和感が右肩にあって、段々と、嫌な感触が悪寒になって肩から背筋を這って…………いつの間にか、俺はしゃがみ込んでいた。心配するチームメイトの声も段々と遠くなって、そこからの記憶はあんまりない。ただ、覚えているのは、医者から伝えられた言葉だけ。『中学生の間はもう、ボールを投げてはいけません』という死刑宣告だけで」
八畑はそこからの出来事をあまり語りたがらなかった。
ただ、淡々と、荒れに荒れた、と笑みを消して、自らを嫌悪するような顔で呟いた。幸いなことに、暴力沙汰やらは起こさなかったが、今までやらなかった酒や、たばこを喜んで摂取して、役立たずの体を虐め抜こうと、慣れない不良を気取ろうとしたらしい。
ずっと坊主頭だった髪も、肩までかかるぐらいに伸ばして。似合わない金髪に染め上げて。完全に野球から遠ざかって、荒れ果てていたのだとか。
「周りに随分と迷惑をかけたよ。それこそ、幼馴染を何度泣かせてしまったのかわからない。まぁ、泣かせてしまった後はいつもサンドバックになっていたから、トータルの被害では俺の方が大きいんだけど、それは置いといて。そんな、荒れていた中学三年生の夏のことだったな。あれは、信じられないぐらい暑い日の出来事だった」
そして、八畑はようやく恋の話を始める。
随分とシリアスな前振りで俺は思わず真顔になってしまったが、ここからが八畑の恋の始まりだ。心して聞かなければいけない。
「俺は、自動販売機の前で、倉森にぼっこぼこにされた」
心して、聞かなければよかった。
俺が思わず聞き返すと、八畑は、はにかみながら照れ臭そうに説明を始める。
いや、そこは照れるところではない。
「徹頭徹尾、俺が悪いんだけどさ。学校近くの自動販売機の前で、俺は一人で煙草をふかして、たそがれていたんだ。煙草を知り合いの先輩から融通してもらった所為で、所持金がピンチで自動販売機を使えなかったんだよ。だからまぁ、イラついていて。あ、違うぞ? カツアゲをしようとしたわけじゃない。ただ、他の奴らがあっさりと自動販売機を使って行くのが癪だったから、その周囲で煙草を吸って嫌がらせに近寄らせないようにしていて…………そんな時だったな、額から汗を流して、不機嫌そうな倉森が俺の前に現れたのは」
とても尊い記憶を回想するように語る八畑。
だが、その口から語られているのは、俺の主観からすれば交通事故染みた、余りにも唐突な理不尽だった。
「倉森は俺には目もくれず、あっさりと自動販売機で一番安い天然水のペットボトルを買って、その場でごくごくと飲み始めたんだ。俺のことなんか余りにも眼中にないから、俺はついつい、意地悪したくなって、倉森が飲んでいる最中に「わっ!」と軽く驚かして、倉森もちょっと驚いたのか、若干咽てペットボトルの水を路面に零してさぁ…………そこからは電光石火だったね。凄まじい勢いの蹴りが俺の股間を打ち抜いて、さらに、そこから蹲った俺の横顔を容赦ないローが襲って。気づけば、俺は焼けるような路面に倒れて気絶していたんだ」
確かに、きっかけは八畑かもしれないが、これは酷い。人が物を飲んでいる最中にそのような真似をすれば、多少殴られても仕方ないかもしれないが、流石、倉森。容赦が微塵も無い。
あいつ、男嫌いの癖に、男への暴行をまるで躊躇わないところがあるからな。多分、本人は絶対否定すると思うが、兄譲りだと思うわ、あの暴力性。
「いやぁ、あの時は死を覚悟したね。炎天下の自動販売機の近くで、馬鹿な意地を張っていたから元々熱中症気味で、そこからさらに路面での気絶だろ? ああ、死んだわ、これ、とか思っていたんだけど、目を覚ましたのはその自動販売機から少し離れた公園のベンチだった。木陰のベンチに寝かされていて、額には水で濡らされたハンカチがあってさ。体を起こすと、離れた場所で不機嫌そうな倉森が、こちらに向かって新品のスポーツドリンクのペットボトルを差し出してきて」
どうやら、そのまま放置して殺人の危険性を冒してしまうほど倉森は愚かでは無いらしい。
きちんと気絶した八畑を、通りすがったまったく無関係の男子に背負わせて、公園のベンチに横たわらせてから一応、看護を開始したのだとか。
流石に、金的から気絶するまで攻撃するのはやり過ぎと感じていたようで、その後、不機嫌な顔をしながらも、スポーツドリンクをお詫びに差し出して来たと、八畑は楽しそうに状況を説明した。
「そうしたら、俺は何故か泣いてしまってなぁ。その当時は、自分でもなんで泣いていたのかわからなかったけど、今ならわかる。情けなかったんだ。野球から逃げて、悪ぶって不良をやっていた癖に、たった一人の小柄な少女にぼこぼこにされて、おまけに情けをかけられる始末。そんな情けない自分が嫌で、俺は泣いてしまったんだよ」
すると、慌てたのは倉森だ。
無理もない。不良だと思っていた奴が、起きたらいきなり泣き始めたのだ。おいおい、マジかよ? と俺でも焦るだろう。
結局、倉森はとても嫌そうな顔をしながら渋々と、八畑に泣く理由を尋ねて…………そこから、色々と自分の過去について、随分と八畑は語ったらしい。差し出されたペットボトルが、いつの間にか空になってしまうぐらいの時間、語ってしまったらしい。
「語ってしまった後、俺は凄まじい自己嫌悪に襲われた。何をしているんだ、俺は、と。なんで、女子に絡んでぼこぼこにされた挙句、泣き喚いて己の過去を語ってしまっているんだ、と。脳みそが茹っているのか、と。実際、語り終わった後の倉森はドン引きだった。なにこいつ、いきなり重い話をしているの? という冷たい視線を浴びて、俺はさらに落ち込んだ。あのままだったら、一生引きずるトラウマになっていたかもしれない」
だけど、と言葉を次いで、八畑は言った。
「聞いてくれたんだ、こんな情けない男の独白を、最後まで。そして、言ってくれたんだ、『結局さ、お前は野球が好きなの?』って。うん、言ってしまえば、ただ、それだけ。周囲の仲間とか、幼馴染からも、たくさん似たような言葉は言われていたけど、でも、彼女が初めてだったんだ。俺自身に心底興味が無くて、本当の意味で俺が野球を好きかどうか、訊いてくれたのは、彼女が初めてだったんだ」
恐らく、八畑を昔から知る者ほど、言葉の裏には八畑を案じる気持ちがあったのかもしれない。八畑はそれを知っていたからこそ、後ろめたさで思考が回らなかったのかもしれない。
だかこそ、全くの他人である倉森の問いかけが響いたのだろう。
「まるで、自信満々で投げた球が、思いっきりホームランで返された気分だった。あの、痛恨の極みみたいな失敗の中にある、快音の清々しさが脳内で響いて、ようやく俺は思い出したんだ。俺は、勝つのが楽しかったんじゃなくて、野球が楽しかったんだって。まぁ、もちろん負けたら悔しいし、勝つために勝負はするべきだと思うけど、うん、まず、野球は楽しい物だって思い出せたんだ」
清々しい笑みだった。
八畑が語る思い出は結局のところ、勝手に落ち込んで勝手に立ち直っただけという話であるが、けれど、八畑はそれすらも織り込み済みで笑っているのかもしれない。
「それが、俺が倉森と過ごした唯一の思い出。一応、なんどか見かけたら声をかけたていたんだけど、露骨に嫌がられて無視されたりと、うん、脈は正直、笑っちゃうほど皆無だけどさ、分かり切っているんだけどさ」
その笑みは思わず目を背けたくなるほど格好良くて、そして、痛々しかった。
「でも、自己満足だけど、気持ち悪いほどの自分勝手だけど、出来れば、チャレンジしたいんだ。せめて、試合を始めないと、ボールを投げようとしないと、何も始まらないから。例え、痛烈な終わりが待っているとしても、俺は、戦って終わりたい…………もっとも、そういう風に思えたのも、天野があの七尾相手に、ウルトラミラクルを決めたことに勇気づけられてだから、全然格好良く無いんだけどな」
だが、痛々しく、本人の言う通り、全く脈の無い徒花の如き恋だったとしても。
「もう何もせずに後悔するのは止めることにしたんだ。だから、頼む、天野。俺に、あいつへ、倉森へ告白するチャンスを作ってくれ」
八畑九郎は紛れもなく、俺よりもよほど真剣に、己自身の恋と向き合っていた。




