第35話 逃げるが勝ちは、割と真理
残心、という言葉がある。
それは事が終わった後でも、心を途切れさせることなく、周囲に注意を払っているという状態だ。
よくわかる使用例として、「やったか!?」という確認である。あからさまにフラグめいた言動になるかもしれないが、必ず、敵を倒したときは「やったか!?」という精神を大切にしていただきたい。
『神成る御方へ、かしこみかしこみ――』
「そぉい!」
そうすれば、ゾンビの如く足元から這い上がってきた奴の不意打ちに対して、カウンターを決めることが可能となるのだ。
皆も、敵と戦う時は残心を忘れず、きっちりととどめを刺そうね!
まぁ、流石に殺人犯になるので、殺しての無力化は難しい現状なのだけれど。
「おい! まだ動くぞ!?」
「動きますねぇ」
「相手は不死身かよ!?」
「いやいや、最初から殺していませんよ。殺していませんが…………少なくとも、体の骨はいくつか折ってやったつもりなんですがねぇ?」
悲鳴のように叫ぶ虎尾さんの言葉に、俺は周囲の様子を訝しみながら応える。
おかしい。
明らかに戦闘不能にした相手が、再び、立ち上がってくる。それも、ダメージが回復したわけでは無く、むりやり、誰かに立たされているような状態で。
その様子はさながら、背後から人糸で吊るされた人形の如く。
ただ、戦闘能力自体は俺が一度叩きのめしたおかげで、まるで問題ない。相手が無理やり動いている状態では、何度不意打ちしようが、立ち上がろうが、俺が負ける気配はまるで感じない。
だから、問題があるとすれば一つだけ。
このまま相手が動かなくなるまで倒し続けると、最悪、相手を殺してしまう可能性があるということ。そうでなくとも、物理的に動けなくなるように四肢の骨を砕けば、過剰防衛である。
人を殺すのは嫌だし、また、社会的に不利な点を作りたくはない。
相手が本物の日本刀を使っているのならばともかく、『模造刀』で斬りかかってくるような現状ならば、尚更に。
「逃げようぜ! こんな奴、相手にする義理はねぇよ!」
「……うむ、それが無難ですが」
「だったら早く!」
俺が色々と悩みながら周囲の男どもを叩きのめしていると、虎尾さんが必死の形相で入り口を指さす。
無論、逃げた方が良いのはわかってはいるが、それは恐らく、この状況を仕掛けた存在の予定通りに事が運ぶということになるだろう。俺と言う存在を知っていて、この程度の戦力で襲撃を仕掛けた理由があるとすれば、それは様子見、あるいは、観察。
ならば、逃げる前にけん制の意味も込めて、この不愉快な攻撃を止めてやることにしよう。
「行き掛けの駄賃として、躾の成っていないガキを虐めてからにしましょうか」
そして俺は、幾度も立ち上がってくるゾンビめいた猿面の男たち――――ではなく、倒れ伏す一般人の中に紛れ込んだ、一人の覚醒者へ手を伸ばす。
そう、先ほどからずっと、倒れた振りをしてこちらの言動に耳を澄ませていた、学生グループの一人。中学生ぐらいの女の子の首を掴み、持ち上げる。
「お、おい! 何を――」
「今すぐ、これを止めろ。さもなくば、お前の首を折る」
ぎしり、と力を込めると、瞼を閉じていた中学生女子は、かっ、と目を見開いて嘲るような笑みを浮かべた。
「貴方には、それが、できない」
確信を持った笑み。
こちらの素性を調べていたのだろう。俺の気質もまた、襲撃者側に知れ渡っていると考えた方が良い。
そうだ、その通り。叔父さんだったのならばともかく、この俺の精神性では易々と人殺しなんて出来ない。誰かを殺すことによって、自らの精神を逸脱させることを許さない。
そう、確かに俺は人殺しは出来ない。
「ああ、そうだな、俺に殺しは出来ない。悪かったよ、嘘を言って。でもな? こうやって、首を絞め続けて――――お前の意識を落とすことぐらいは、簡単に出来るんだ。わかるだろう?」
「…………ぐ、あ」
「他者を操作するタイプの覚醒者は、二種類に大別できる。一つは暗示。予め対象に一定の行動を実行するように、命令を刻み付けておくこと。この暗示は、暗示を施した対象が強い痛みを負った瞬間に解けるのが弱点だ。そして、もう一つは操作。対象の脳をリンクして、ある程度、自ら直接操作する対象を動かす。この場合、弱点は操作する対象の近くに居なければならないことと」
言葉の途中で、がくりと少女の体から力が抜ける。
白目を剥き、口の端からは涎が垂れ、手足がぶらぶらと揺れているので、恐らくは本当に意識が落ちたのだろう。次いで、操作を受けていた猿面の男たちも痛みを取り戻したかのように呻き声をあげて床に倒れ始めたので、能力は解けたようだ。
「このように、覚醒者が意識を途絶えさせれば、能力も解除される…………まぁ、素直に逃げても良かったんだが、これはちょっとした嫌がらせだ。ありがたく受け取っておけ」
「…………」
「ん? なんですか、虎尾さん。そんな化け物を見るような目で俺を見ないでください。というか、呆けている暇があったら、とっとと外に出ますよ」
「……へ、は?」
目を丸めている虎尾さんの背を叩き、意識に喝を入れる。一時的に疑問を停止させて、直近の問題に対応させるために、視野を狭めさせる。
「まだ、仲間が居ます。そして、恐らく増援が直ぐにやって来るでしょう。なんとか、安全な場所まで逃げます」
「はぁああああああ!!? マジかァ!?」
「マジなんですよ、残念ながら」
そして、未だ戸惑う虎尾さんの手を掴み、夕暮れの大通りへと駆け出した。
逃げなければならない。
少なくとも、周囲から感じる謎の視線が届かない場所まで逃げきれなければ、俺たちに安息は訪れないだろう。
…………問題は、何処まで逃げればこの視線を振り切れるのか、今のところ、検討もつかないことだ。
●●●
走る。
走る、走る。
次第に薄暗くなって、視界が限定されていくような環境でも、走る。
田舎町とは言え、夕暮れ時の大通りはまずい。人が多い。下校中の学生や、買い物帰りの主婦、会社帰りのサラリーマンたちが溢れている。
それが、まずい。
「お、おいっ! どこまで、にげっ――」
「ちぃっ!」
視線の中に嫌な感じが混ざった。同時に、俺の直感がほとんど無意識に体を動かして、虎尾さんの手を強く引き、転んでしまうほどの勢いでこちらへ寄せる。
「いきなり何するんだ、テメェ!?」
抗議の声を上げる虎尾さんであるが、俺はそれどころではない。
先ほどの瞬間、通りすがりのサラリーマンを装った何者かが、虎尾さんに対してスタンガンを押し付けようとしていたのだ。それを直前に感じ取って、なんとか迎撃したわけだが、俺の一撃がいなされた。手加減した一撃だったにせよ、奇襲を防がれた後に放たれた俺の一撃を、するりと何らかの武術のうごきでいなしたのだ。
それでいて、すれ違えば、何事も無かったかのように立ち去っていく後ろ姿はくたびれたサラリーマンそのもの。既に、凶器であるスタンガンも営業鞄の中に隠されている。
ううむ、これはまずい。
先ほどの猿面の男たちとは練度が違う。
操り人形のお遊びではない。
相応の専門家が動いている。
その上、あれほどの騒ぎがあったファーストフード店に、誰も注目しない。周囲の人たちの目を意図的に逸らす、人除けの技術が使われているようだ。
明らかに、個人や少人数グループからの襲撃ではなく、一定規模以上の組織からの襲撃。
…………まずいな。協会へ連絡しなければいけないのに、虎尾さんが隣に居ると、虎尾さんを守ることに集中しなければならない。油断すれば、いつ、虎尾さんが攫われてもおかしく無いし、俺に対する人質に使われるかもしれない。
それに、人ごみから混じる嫌な感じの視線が段々と増えていっている。
やれ、仕方がない、か。
「うぉおおおお!? はなせぇ! この年で、しかも年下の野郎にお姫様抱っことか! 死にたくなりすぎる!」
「俺だって嫌すぎますが、仕方ないでしょう、まったく」
俺は虎尾さんをお姫様抱っこしながら、全力で大通りを駆け抜けた。
もちろん、目立つ。
あまりにもシュールな映像に、通行人の足も止まる。
そして、周囲の人の目も集まる。
人の目が集まるということは、一般人の中から奇襲を受ける確率を減らせる、ということだ。
奇行に加えて、尋常ならざる速度での敵地からの脱出。これ以上、合理的な判断は中々ないだろう。もっとも、俺たちの精神ががりがりと音を立てて削れていくので、あまり長くこの状態はもたないのだけれど。
「一体何なんだよ、マジで…………お前あれなの? 実は、放課後に世界の平和とかを守ったりする系のラノベ主人公なの?」
「いえいえ、ごく普通の男子高校生ですよ?」
「普通の男子高校生は、成人男性を抱えたまま陸上選手みたいな速さで走らない」
「それは個人差にも――――っと、んん?」
嫌な視線が少ない方へ駆けて行くと、何やら、遠目にスーツ姿の男性が見える。
一瞬、新たな刺客かと思ったが、そうではない。
見覚えのある顔の人が、大きく手を振って俺を呼んでいる。
「――おい! こっちだ、こっちに来い!」
俺を呼ぶ男性の後ろには、黒塗りの高級車が止まっていて、俺たちとその男の人を含めた三人が乗っても有り余るほどのスペースがあることは予想できた。
一瞬、罠かと疑うが、けれど、俺自身の直感が即座に否定する。
違う、と。あれは善意からの行動であると、直感が告げる。
「分かりました! よろしくお願いします!!」
「…………大丈夫なのか?」
「多分!」
「多分って…………ああ、もう、選択肢はねぇよな、くそっ」
俺たちは「さっさと乗れ」という男性の言葉に従い、黒塗りの高級車へと搭乗。ふかふかの座席で一息つく暇もなく、高級車は急発進でこの場から遠ざかっていった。
同時に、ファーストフード店からずっとへばりついていた『一等嫌な視線』が、ようやく剥がれた感触を得て、俺は窮地から脱したことを理解した。
「…………ふぅ。いやぁ、助かりました、ありがとうございます」
「ふん。恐らくはこちら側の不手際だ、礼を言うな、損をするぞ?」
「でもまぁ、助かったのは事実なので」
「…………ちっ。これだから、暢気な庶民は」
そして、改めて俺は助け舟を出してくれたスーツ姿の男性へ礼を言ったのだが、生憎、悪態で返されてしまう。
「少しは、我々の所為で被らなくていい火の粉被ったという自覚を持ったらどうだ? そんなことだから、楓の奴の無茶ぶりに応えようとしてしまうんだよ、まったく」
スーツ姿の男性は、これ見よがしにため息を吐くが、その実、言葉の内容自体は普通にこちらを心配してくれたり、罪悪感があることを伺わせる内容だった。
その言葉を聞いて、俺は納得した。
ああ、やっぱり、兄妹なのだと。
スーツ姿の男性――――七尾楓の兄、七尾久幸さんの横顔を眺めて、ついつい笑ってしまったのだった。




