第32話 語る真実、語らぬ内心
説明は淡々と。
世間話でもするかのように、気軽な苦笑を挟んでから。
時折、冷たい麦茶で喉を潤しながら行われた。
「依頼だったんだよ、全て。俺は七尾楓というクライアントから、望まれていたことを演じていただけの仕事人だ。恋人関係じゃない。キスの一つもしていない。それどころか、楓とは別に好きな奴がいる。だから、俺と楓がこのまま付き合うことは無い。予定では、今から一か月後ぐらいを目途に別れる予定になっている。ここまでは良いか?」
「…………は、へ?」
駄目そうだ。
太刀川が被っていた無表情の仮面はすっかり砕けてしまい、その下から年相応の少女の素顔を晒してしまっている。
そう、突然の告白に訳もなく怯え、戸惑い、混乱する少女の顔を。
けれども、ここで止まっていても仕方ない。先に進もう。
「よし、良いな。それでだな、依頼内容は詳しく明かすことは出来ない。どうして、偽装交際が必要なのか? その答えが知りたければ、楓本人に訊いてくれ。俺は契約上、それに答えることは出来ない。いや、本来であれば、この偽装交際をしているということも極力、誰にも言わないようにしなければいけないんだが…………今回はちょっと特例ということで、楓から許可は貰ってある。その理由は、わかるよな?」
「り、ゆう? え、ええと、それは、あの……」
「わかるよな?」
「…………私の所為、ですか?」
「残念ながら、そうだよ、太刀川美優。お前の浅慮と狂信が、こういう事態を招いてしまった。お前の主の意向に沿わぬことを、しなければいけなくなった」
ここまで言って、ようやく理解が及んできたらしい。
太刀川の白い肌がさらに真っ白に、死人のような顔になるほど、血の気が引いていく。
「わ、わたっ、私が、え? なん……そんなの……聞いて、ません」
「そりゃあ、そうだろう。言ってないんだから」
「…………何故? 私は、私はあの方の影で――――」
「これは俺の友達の言葉なんだがな? 恋人同士だろうが、友達同士だろうが、秘密はあっていいそうだ。なんでも教え合う関係も悪くはないが、俺としては、互いに秘密を持つことを認め合える関係も悪くないと思うんだよ…………お前は、違うのか?」
「わた、わたし、は…………私はっ!」
思わず立ち上がり、声を荒げる太刀川だったが、その言葉の後が続かない。
ぱくぱくと口は動かしても、言葉が出ない。言葉を奪われた人魚姫のように、悲痛な表情で口を動かすだけ。舌までは回らない。
「楓の態度が気に入らないんだったら、言えばよかった。友達付き合いしている相手が気に入らないなら、言えばよかった。下手に頷いてから、影で動くなんて真似をせずに、『私は気に入らない』って言えばよかったんだ。俺の時だってそうだ。相応しくないと思うのならば、言えばよかった。姿を隠さず、直接。俺にも、楓にも」
だが、俺は追撃の言葉を緩めない。
悲痛に歪む太刀川の姿を見ていると、何故だかとても胸が苦しいが――ここで止めれば、誰のためにもならない。
だからこそ、言葉を重ねよう。
「太刀川美優――――お前は傲慢だ。影の癖に、主が己の思うがまま動かないのが気に食わないのだから」
「――――違うっ! 私は! 私は!」
「『私は』……その後は何なんだよ? お前は一体、何なんだよ? 何がしたかったんだよ? 泣いてないで、答えてみろよ、太刀川美優」
「…………う、あっ……私は、ただ、楓様のために、なればと……」
「その結果がこれか? その浅慮の結果が、俺への襲撃か? まったく、ご立派な理想だ。そんな素晴らしい従者が居て、楓が羨ましい限りだぜ」
「………………う、うううう」
「言っておくが、俺が密告するまでもなく楓は全てを知っていたぞ。お前が、勝手な考えで俺を襲撃したことも、とっくの昔に把握していた。だから、お前が俺に対してやろうとしていた何かは全て、無意味だ。ただ、お前自身の首を絞めるだけの愚かな行いだった」
「うあ、あああああっ…………あああうあっ」
最悪な気分である。
恋した少女を、自らの言葉で泣かせる気分は最低最悪だ。
やはり、俺にはその手の性癖は無いらしい。安心した。血反吐を吐きそうなぐらい安心した。だから、ここからだ。ここからが肝心だ。
「わ、わたしは、もう、不必要、なのでしょうか? 楓様に、嫌われて、しまったからこそ、私は、貴方の下に? もう、近くに置きたくない、と? せめて、贖罪せよ、と?」
ボロボロと涙を零して。
触れれば壊れそうなほどに、脆く、弱っている太刀川の姿。
その姿を見るだけで、心の内から様々な感情が湧き出てくるが、この場では全て噛み殺して表に出さない。
今、太刀川に必要なのは、俺の感情なんかじゃない。
「甘えるな、太刀川美優」
鉄のように硬く、冷たい言葉こそ、今の彼女を奮い立たせるのには必要なのだ。
例え、その硬さに打ちひしがれて、血のような涙を流すとしても。
例え、その冷たさに凍えて、心が折れる可能性が当たったとしても。
――――これ以上、茶番を演じさせて、愚かさを重ねるよりは各段にマシだろう。
「お前はまだ、何もしていない。お前はまだ何もしていないじゃないか。それなのに、何かを為す前に、諦めるのか?」
「…………あ」
「俺の言葉が確かなのかと、楓に確かめる前に。楓と言葉を交わす前に。己の愚行を雪ぐ前に、諦めるのかと、訊いている」
「…………私は、私はっ!」
俺の問いに、冷たい問いに、太刀川は応える。
涙をぐいと、袖で拭って。
赤い目で、俺を強く睨みつけるようにして。
「私は何もかもを、諦めたくありません。例え、もうすでに手遅れだったとしても、それでも、諦めるのならば、直接、楓様の拒絶を受けて、心折れたい」
俺に『ピント』を合わせて、挑むような言葉で応えた。
この瞬間、俺はなんとなく悟ってしまう。この目を。盲が晴れた後に見える、この澄んだ美しい目を見るために、俺は恋をしていたのだと。
だが、この場で語るのはそれじゃない。
俺の恋心ではなくて、仕事人としての応答が、太刀川には必要なのだ。
「なら、手を貸そう。この俺、天野伊織がお前の再起を手伝おう。例え、その果てが心折れる物だったとしても。せめて、その終わりまでは手を貸してやる」
だから、この差し伸べた手は王子様の手ではない。
女の子を救うための手ではなく、太刀川が立ち上がるために、ほんの少しだけ手助けするだけの、杖代わりだ。それが、仕事人としての俺の矜持。
未熟ではあるが、公私を分ける境界線だ。
「…………一つ、質問があります、先輩」
「いいだろう。疑問があるのなら、立ち上がる前に言っておけ。何せ、俺が手を貸すんだからな。立ち上がってからは忙しくなるぞ」
無表情の仮面を外し、凛々しい表情の太刀川とは相反するように、俺は仕事人としての仮面を被り、ハードボイルドを気取る。
そう、ハードボイルドとはつまり、やせ我慢だ。
「貴方は何故、私にここまでしてくれるのですか? だって、貴方に取って、私は、その、ただの頭のおかしい、酷く最悪最低な人間ではありませんか?」
「さて、そうだな。色々と理由はあるが、強いて挙げるのなら」
ぎちぎちと、心臓よりも体の内側にある何かが軋むような音を立てるが、所詮は幻聴だ。気にしない。
なんでもない風に装って、さらりと答えてやろう。
「多分、お前の作った飯が美味かったからだよ、後輩」
真実と虚構を織り交ぜた、俺なりのハードボイルドな言葉で。
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「本当にすみませんでした」
「いや、だからいいって。謝罪は全部終わってからにしな?」
「いえ、これだけは、これだけは本当にどうか、謝らせてください。先輩が、先輩に想い人が居るとも知らず。この身の程知らずの愚か者が、貴方の良心を惑わすような言動をしたこと、心から反省させてください。願わくば、全てが終わった後、貴方の恋が成就するように、どうかお手伝いを」
「…………あー、そういうのは良いから」
「そうですよね。この愚か者である私が、先輩の手伝いなんて……」
「違う、そうじゃない。勝手に卑屈になるな…………ただ、この恋愛は自分の手で成し遂げなければ、意味はない。誰かに手伝ってもらってもあまり、意味はない。ただ、それだけのことだ。気にするな」
「…………貴方は、強いのですね、先輩」
後輩からの尊敬の眼差しを受けて、俺は微苦笑を浮かべて言葉を返した。
「そうでもないさ」
うん、マジでそうでもない。
ぶっちゃけ泣きそうである。泣きたい。なんなら、ちょっと目が潤んでいるまであるぜ。
ただ、それでも弱みとか罪悪感に付け込むとか、最悪だし、その果てに俺の恋が成就しても全然嬉しくないので、うん。
とりあえず、自分の恋に専念するのは偽装交際が終わってからにしよう。
「なんたる謙虚……やはり、そういう姿勢が強さの秘密なのですね!? あ、いや、すみません、近付きすぎました! 申し訳ございません! 想い人がいらっしゃる先輩に対して、私は距離感が今まで近すぎました! もっと敬意を持って接しますね!」
「…………あぁ、それで頼む」
ちなみに、この後、俺はトイレに閉じこもって、少しだけ泣いた。
やれ、ハードボイルドを気取るのも大変だぜ。




