表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/63

第31話 甘い罠は、噛み砕け

 かつて、これほどの窮地が存在しただろうか?

 二年前の事件。

 無貌を誇る怪人、六百六十六面相のアリバイトリックに嵌められた時も、俺はここまで焦ってはいなかった。

 一年前の事件。

 俺以上の怪力無双を誇る覚醒者、酒呑童子の再来とまで呼ばれた鬼人との戦いだって、ここまでの絶望を感じなかった。

 正直、現在の俺が誕生してから、主観が連続する限りでは、かつてないほどの窮地が、俺を襲っている。


「…………すぅー、すぅ……」

「………………お、おおおおおお……」


 不意打ちだった。

 卑劣なる不意打ちだった。

 俺は寝ぼけた頭を覚醒させつつ、必死にこの状況を打開する方法を考えようとするのだが、右半身から伝わる柔らかな感触が思考を汚染し、阻む。


「…………ラブコメの主人公よ……今まで馬鹿にしていて悪かった…………だから頼む、今、この時、俺は……全知全能の神よりも、アンタらの力を借りたい……」


 現在の状況を説明しよう。

 時刻は早朝、六時二十四分。

 場所は、自室のベッドの中。

 コンディションはオールレッド。特に、股間の硬化が解除されず、俺は社会的な死と隣り合わせの状況だ。


「…………すぅ、すぅ」


 そして、俺を社会的死へと誘う死神こそ、不意打ちにベッドへ潜り込んできた後輩、太刀川美優である。

 この状況で、こいつが目を覚まして、俺の股間に目を向けたのならば、致命傷。

 デバフの極致である硬直化が解けた状態でも、俺の理性が残っていなければ、即死。

 ヤバい、かなり追い詰められてしまっている。そもそも、どうして部屋の鍵が…………あー、ああ、はいはい、夜のストレッチの後、閉め忘れたな、クソ。凡ミスだ。その上、普段から距離を詰められて、体が太刀川の気配を覚えてしまって、警戒が薄れてしまったらしい。

 相手が殺意やら、強い敵意を持っている状況ならばともかく、『本人がほんの些細な悪戯』というつもりであれば、俺は感知できない。

 …………いや、ひょっとして、あれなのか? これはひょっとして、太刀川当人すらも意図せぬアクシデントなのか? まさか、素で間違えて俺のベッドに入り込んで来たのか? は、はははは、まさかぁ。


「んにゃっ」

「………………っ!?」


 駄目だ、考察は後にしよう。

 寝ぼけて太刀川が俺に抱き着いてきた時点で、俺の理性は熱した鉄板の上にバターが置かれたような感じになってしまっている。

 まったく、皮肉な物だ。かつて、楓と偽装交際始まる際に、倉森に対して『人間はなんのために理性があるんだ?』と大口を叩いていたというのに、当事者になればこの有様だ。

 情けないったらありゃしない。

 恋とは、人をここまで弱くする物だったのか?

 俺は、俺はここで負けるのか? 一時の快楽のために、今まで積み上げてきたプライドを台無しにするのか? そこまでして欲することなのか? ええい、どれだけ理性的に否定の言葉を脳内で重ねても、体の暴走を抑えるので精いっぱいだ。

 どうすればいい?

 どうすれば、この状況を…………この、理不尽な感情に打ち勝てる?


「――――いや、違う。そうじゃない。もはや、そういう段階を過ぎているんだ」


 小さく呟いて、俺は発想を転換させた。

 もはや、抗いようのない感情に俺の理性は飲まれつつある。ここから、恋を否定して、抗いきるのは至難の業だ。

 だからこそ、まず、認める。

 俺はゆっくりと目を見開いて、隣ですやすやと安らかな寝顔を見せている太刀川を直視し、その姿を心に刻み込む。今まで心の奥底で否定していた感情を認めて、受け入れる。

 例え、これが甘い毒入りの罠だとしても、噛み砕いて嚥下しろ。

 好きだと、本当に、とても不本意だけれども、俺はこいつを好きなのだと認めて、さらにそこからアクセルを踏め。好きという感情を加速させろ。情欲を上回るほどの青臭い恋で、己の理性を斜め上に稼働させるんだ。

 好きで、エロを凌駕しろ。


「…………おい、馬鹿後輩」

「むにゃ? ………………え? あ?」

「さっさと起きろ、この馬鹿」

「みぎゃんっ!?」


 かちん、と頭の中で何かが切り替わったような感覚。

 先ほどまで体を襲っていた情欲が一気に冷めて、代わりに、どうしようもなく決定的な何かが胸に打ち込まれたという実感。

 それらを全て表に出さず、俺は鬱陶しそうに装って、太刀川の頭を引っ叩く。

 すると、太刀川は最初、状況を理解できずに目を白黒させていたのだが、やがて、かぁ、と顔を赤くして、くしゃりと、無表情には程遠い引きつった笑みを見せる。


「よ、夜這いですか!? ついに正体を現しましたね、この変態っ!!」

「ここは俺の部屋で、俺のベッドだ、馬鹿後輩っ!」


 真っ赤な顔で騒ぎ立てる太刀川の頭を再度叩き、俺はベッドから蹴り出した。

 太刀川がその後、ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるが、全然気にしない素振りを見せながら、余裕ぶった対応を取る俺。

 やれやれ、まったく。

 ついに本気で恋に落とされてしまったんだから、アンタのハニートラップは実に有効だったぜ、ちくしょうが。



●●●



 改めて思う。

 そもそも、俺は太刀川美優という少女のどこが好きなのか?

 外見? 確かに好みであるが。ばっちりとストライクの好みであるが、それだけで果たして、あれだけの一目惚れになるだろうか?

 性格? 俺に対して敵意を持って、一度は襲撃を仕掛けてきた奴だぞ? どうして、そんな奴を好きになるんだ? いや、でも、うん…………嫌いになれないところも多い。特に、誰かのために狂いかけてしまうほど、献身を尽くすところなどは、俺には足りない部分なのだから。

 料理? ああ、確かに太刀川が作る料理は好きだ。とても好きだ。かつてないほど好きかもしれない。うっかり結婚して、と言いそうになるぐらいには好きだ。

 けれども、これがきっかけで恋をした、と自分で納得できる要素ではないと思う。俺は正直、まだ、自分自身の恋については納得できていない。

 納得できては居ないが、好感度が吹っ切れてしまったのだから、仕方がない。


『そうね、仕方ないわ。好きが溢れてしまったんだもの』

「…………いいのか? 楓」

『いいのよ、だって、仕方ないじゃない。いいえ、むしろ誇らしくあるわ。私の影人が、誰かをそこまで恋に落とすことが出来たなんて』

「言っておくけど、まだ全然、自分の恋の理由も分かってないんだぞ? …………いつ、冷めるか分からない感情に身を任せるのは、怖すぎるんだ」

『ふ、ふふふふ、わかるわ、それ、とってもわかるわー。でも、このままじっとしてられるほど、その感情は安くない、でしょう?』

「流石、恋の先人は貫禄が違うな」

『当然よ、だって、たくさんの勇気が必要な恋だったもの。だから、何か困ったことがあったら、これからいつでも頼ってくれていいのよ? だってほら、私たちは共犯者なのだし』

「これから、自供することになるけどな」

『でも、貴方がどうにかしてくれるのでしょう?』

「…………信じてくれるのか?」

『もちろん、信じているわ。貴方と、私の影人を』

「そうか…………悪い」

『そこは、ありがとうと言いなさいな、伊織君』

「ああ、ありがとう、楓」

『ふふふっ、どうしたしまして』


 依頼人には連絡を済ませた。

 許可はもう、貰ってある。

 後は、覚悟を決めるしかない。

 仕事人である自分と、恋に落ちてしまった自分。

 その二つをギリギリ両立させるラインを、成立させるための覚悟を。


「伝えたいことがあるとは、一体、何でしょう? ああ、日ごろの料理への感謝だったらならば、もっとどんどん遠慮なく伝えてもいいのですよ? 先輩」


 場所は自室。

 時間帯は、夜。

 幸いなことに、叔父さんと草本さんは仕事で居ないので、今日は太刀川と二人きりだ。静かに、ちゃんと話し合うことが出来る。

 俺は、今朝にあれだけのやらかしをしておいてなお、平然とした無表情で対応してくる太刀川の図太さに舌を巻きつつも、意を決して言葉を紡ぐことした。


「…………太刀川。これから、お前にとってはとてもショックなことを言う。だが、どうか、最後まで席を立つことなく聞いて欲しい。そして、早まった真似はするな? いいか?」

「はぁ、構いませんが、何を――」

「違うんだ」

「……はい?」

「俺は、楓の彼氏じゃないんだ」

「…………えっ?」


 きょとん、と目を丸める太刀川に対して、俺は息を整えた後、はっきりした言葉で告げた。


「俺と楓は最初から付き合ってないんだ。俺たちの交際は、とある事情で周囲を騙す必要があったから演じていただけの、偽装交際だったんだよ」


 さぁ、綱渡りを始めよう。

 出来る限りの幸福と、未来を掴み取るために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ