第30話 油断
ホイ、チャマ。
ラブコメでは王道とも言っていい展開、気になるあの子と同居イベント! その目玉と言ってもいいのが、物理的に距離が縮まることによって、相手の思わぬ面を生活の中に見てしまうことだと思う。
ああ、分かっている。
そんな綺麗ごとを言ってないで、もっと本音で話せって言うんだろ? ああ、分かっているさ、ちくしょう。
同居モノ、いいや、少年漫画に乗っているようなラブコメで欠かせない物。
それはやはり、お色気イベント――いわゆるラッキースケベだ。
人間だからな。やはり、人気を呼ぶには色気が一番。無論、下品すぎたり、主人公が屑すぎたりすると読者から嫌われるので、あくまでも、偶然、そう、偶然にスケベなイベントが起きることが必要だ。
女の子に誠実な主人公を貶めることなく、上手く、健全なお色気を入れたい。そういう諸々の都合が込められたイベントこそ、ラッキースケベなのである。
まぁもっとも、少年漫画よりも少女漫画。あるいは、青年誌に乗ったりするラブコメだったりすると、サラッと性交渉のシーンが描写をぼやかして含まれていることもあったり。もしくは、シリアスな恋愛漫画だと、そういう色気は省かれていたりするのだが、それはさておき。
うん、話題を元に戻すことにしよう。
ラッキースケベ。
偶然、女の子の着替えのシーンに出くわしてしまったり、不意に無防備な姿を、意図せずに目撃してしまう。
そんな出来事を太刀川との同居生活で、僅かなりとも期待しなかったと言えば、嘘になる。当然、そのようなことが起きないよう、風呂の時間やら、服の区別などはしっかりと行っていたし、人の気配がある時は、きちんとノックを欠かさなかった。ここら辺は、草本さんが居候しているので、ほぼ習慣化していたので問題なかったのである。
だから、俺と太刀川の間に、ラッキースケベのような事は今まで起こっていない。
起こっていない、のだが。
「先輩、どうかしましたか? さっさと手伝ってください」
「…………いや、あのさ?」
「おかしいですね? 先輩は私のストレッチを手伝ってくれると、先ほど言ってくださったのに。ああ、ひょっとして私に触るのは嫌ですか? 嫌ですよね、前に襲撃した不届き者ですし。ああ、都合よく仲直りのきっかけになるかな、と気安く接したこと自体が間違いだと――」
「大丈夫だ、ちょっと驚いただけだから、安心して任せてくれ」
「はい。それでは、よろしくお願いします、先輩」
現在、薄着で太刀川が俺の部屋に入り込み、ストレッチの補助をして欲しいと頼み込んでくるイベントが発生している。
どうした、一体! どうしたんだ、お前!?
いや、いやいや、薄着と言っても、Tシャツにハーフパンツという格好は別に、そろそろ本格的な夏になってくるこの時期では、別に不自然ではない。
そう、不自然なことは二つ。昨日までこちらに直接的な害を与えずとも、減らず口を叩いていた太刀川が、殊勝なことを言いながら俺に頼みごとをしてくること。そして、よりにもよって、頼みごとの内容がストレッチの補助と言うことだ。
前者はまだいい。
何か心変わりがあって、こちらに歩み寄ってくれることもあるのだろう。
でも、後者は無い。なんで? なんでストレッチの補助? 別に、俺たち部活の先輩後輩って仲じゃないよな? 仮にそうだったとしても、男女別だよな? やるとしても。一緒にストレッチするのは、小学生、どう控えめに見積もっても中学生までだぜ? というか、何で、歩み寄りの手段がストレッチ?
「では、最初は前屈からお願いします」
「あ、ああ……」
頭に疑問符を浮かべながらも、ぐいぐいと太刀川に押し切られてしまう俺である。
仕方がない。俺は悪意に対しては強い方であるという自負はあるのだが、こうして、好意を装った策略には疎いのだ。確実に、見せかけの好意の裏には、何かしらの罠があったとしても、とりあえず、罠にかかってしまいそうになってしまう。
なお、女の子限定の弱点であるので、野郎の場合はとりあえず、怪しい奴には蹴りを入れていくスタイルだ。皆も、自分の武力と相談しながら、各々のスタイルを確立していこう!
「…………んっ、ふぅー。はぁー、んんっ」
などと、俺の思考が斜め上の方にぶっ飛んでいるのには、もちろん理由がある。
はっきりと言ってしまえば、現実逃避だ。
「…………体柔らかいな、お前」
「柔軟な体を、作ることが、武術に於いて……んっ、有利な……」
「無理に応えなくていいんですけど?」
ぐい、と太刀川の方を掴んで、ゆっくりと押すと、ぐにゃりと太刀川の体が倒れて、それに合わせて、吐息も漏れる。なんか、こう、妙な感じの吐息だが、指摘できない。もしも、わざとやっているだろ? と指摘して、真顔で「いや、知りませんが? 自意識過剰では?」と返されたら、羞恥のあまり呼吸困難に陥るからだ。
「次は、体を横に倒す奴をお願いします」
「…………あ、ああ。えっと、ここ、触っても大丈夫、なのか?」
「ひゃっ」
「あ、いや、ごめん、自害するわ」
「ふ、ふふふ、くすぐったかっただけですので、お気になさらず」
「あ、ああ……笑っている時ぐらい、無表情を崩したら?」
「これが私のスタイルですので」
集中しろ、集中するんだ、天野伊織。
お前は今、プロのインストラクター。後輩のストレッチを補助するだけの生物。それだけの機能を持った、人間未満の機械人間だ。そうであると、己に刻み込め。
断じて、ハーフパンツから伸びる足の白さとか、Tシャツのちょっと緩んだ首元から見えるブラとか。手のひらの先から伝わる、太刀川の体温とか。さっきまで風呂に入っていたのか、ボディーソープやシャンプーの匂いと混ざった、太刀川の匂いとか、そういうのは全部意識するな! 無理だ! だって、男だもの!
「――――南無阿弥陀仏!」
故に、俺が取った行動は物理的衝撃による、煩悩退散だった。
具体的に言えば、自らの横っ面をグーパン。
「ひゃい!? ど、どうしました、いきなり叫んで? 後、鈍い衝撃音が!」
「気にしないでくれ、物理的に自戒しただけだから」
「……は、はぁ」
怪訝そうな顔をする太刀川であったが、おかげで、俺の煩悩は一時的に吹き飛んだ。
なぁに、頼りない理性に喝を入れるためならば、この程度のダメージ全然構わないさ。控えめに言っても、太刀川の一撃よりも六倍ぐらいの威力だけど。
先輩としての尊厳と、楓や倉森との契約関係を守るためならば、この程度の自傷、なんてことはない。
むしろ、一時的にでもこの難局を凌げるのならば、俺にとってはコスパ最強だぜ。
「さぁ、ストレッチの続きをやるぞ。紳士的に!」
「はい。よろしくお願いします、今後とも」
………………え? 今後とも?
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油断していなかったと言えば、嘘になる。
だが、少なくとも、寝首を掻かれないような準備は整えていた。どれだけ気配を殺していたとしても、太刀川の早まった行動を抑えるために、感知能力の制限は外していたし。何か、問題を起こす前に、きちんと太刀川を諫めて、楓と結んだ契約関係を教えられるまで、信頼関係を築こうという意識はあった。
けれど、だからこそ、気を抜いてしまったのかもしれない。
思った以上にすんなりと、太刀川が俺に対して態度を軟化させたから。てっきり、頭に血が上ってなければ、きちんと話し合えば、分かり合える人なのだと思い込んでしまったのだ。
いいや、信じたかったのだろう、そうであると。
これが男子……他の女子でも、俺はまともな判断が出来ていたと思う。
そう、恋という特大のデバフの掛かった状態でなければ、こんなことにはならなかったのだ。
「料理の基本は出来ていますね。では、応用編から行きましょう」
思い出すのは、こちらが頼み込まずとも親切に、料理を教えてくれた太刀川の姿。
ああ、エプロン姿がとても可憐で、やけに親身に教えてくれた。
「強くなりたいのです、楓様をお守りするために。そのために、どうか」
思い出すのは、ほぼ毎日行われた組手の日々。
ああ、毎日限界寸前まで動く物だから、組手が終わったら、いつも俺が太刀川を背負っていた。うん、荷物みたいに運ばないでください、と言われたのでそうなってしまった。
「たくさん運動した後は、きちんとストレッチをしなければいけません。ええ、それだけです。他意はありません。もちろん、手伝ってくれますよね? 先輩」
そして、毎日行われる、夜のストレッチ。一応言っておくが、そのままの意味である。そのままの意味であるが、でも、毎日毎日、こう、少し無防備な姿を晒しながらストレッチの補助を行うのは、年頃の男子の理性をやすり掛けするような効果を発揮してしまう。
いかに鉄の理性を持つ俺であったとしても、何度も回数が重ねられれば、危うい。
それでも、折角後輩である太刀川が歩み寄ってくれるのだ。きちんと、こちらも誠意をもって対応しなければ…………そう、俺は心に決めて、太刀川とのコミュニケーションを取り続けた。取り続けて、やがて、常に頭の中に太刀川の姿が思い浮かぶぐらいに色々と重症化した頃、俺はようやく気付いたのだった。
「さぁ、先輩。もっと相互理解を深めましょう。もっと、もっと、ね?」
これ、ハニートラップ仕掛けられているんじゃね? と。




