第29話 上半身的幸福と、下半身的試練
魚料理に於いて、気を遣わざるを得ないのは、魚特有の『生臭さ』である。
新鮮であれば、それらの匂いはある程度抑えられるのだが、ここは海に面していない県南の田舎町。町内でも、漁港から直で仕入れているという贔屓にしている魚屋の物を使ったとしても、人によってはやはり、生臭さを感じてしまうことがあるのだ。
けれども、無理に香辛料や調味料で塗りつぶすようにすると、魚本来が持っていた長所を潰し、どうしても凡庸の域を出ない料理にしかならない。下手をすれば、ただの塩気のあるだけのおかずになってしまう。
魚料理。
それは、日本古来、様々な方法で継がれてきた伝統的な料理。いいや、日本だけではなく、世界各地で魚料理という物は、研究に研究を重ねられている。
どうしたら、一層美味しく食べられるのか、と。
そう、時には毒を持つ魚でさえも、数多の犠牲を経て、美味なる料理へと変貌させてしまうように、魚料理とは人の生活、欲望に密着した文化である。
ならば、魚料理を制すれば、人の生活の一部を制したということに繋がるのではないだろうか?
「ふふん、どうでしょうか? これが本物の料理です」
そんなことを、俺は太刀川が作り上げた魚料理を口にしてから数秒で思い描いた。
なにこれ、うめぇ。とても、美味い。凄い。俺の隣で、太刀川が無表情ながらも、背後に『どやっ!』みたいな擬音を背負わんばかりに胸を張っているのも納得の味だ。
…………いや、本当に美味いな。下手な料亭で出てくる料理よりも、各段に上だ。少なくとも、俺の家庭料理などとは比べ物にならない。
「我が太刀川家は、代々、七尾家の皆様方に満足していただけるため、幼少の頃から様々な教育を施されます。それは武術だけではなく、時に、使用人の代わりに主の食事を用意することも考えられているのです。影人は、あらゆる不測の事態に備える存在。仮に、私と楓様が無人島に漂流したとしても、私は救助が来るまで無事にお守りする自信があります」
どや! どややや! と無表情の癖に、感情豊かに語り続ける太刀川。
だが、悔しいが俺の完敗である。
主菜である、アジを使った焼き魚は、醤油とみりん、ゴマ、それと紫蘇を使ったシンプルな味付けの料理。けれど、嫌な生臭さを完全に抑え、紫蘇とゴマの香りと、魚特有の香ばしさが食欲をそそり、また、味付けも朝食に相応しく、はっきりとした味付けだ。
加えて、白米、味噌汁、漬物というごく普通の料理も美味い。俺と同じ食材、調味料、料理道具を使っているというのに、明らかに一段階上の美味を作り上げている。
格が違う。
こと、料理に関して、太刀川は俺の遥か高みを行く存在だった。
「どうしました? 感想をどうぞ? 何でしたっけ? 『そんなに人の料理を批評出来るんだから、お前の料理はさぞかし美味いんだろうな?』でしたっけ? ええ、ご覧の通りですが? それとも、何も言えませんか? せ・ん・ぱ・い?」
既に勝利を確信した太刀川が、俺の横で無表情に煽ってくる。
こいつはもう、どうして無表情の癖に、体の動きはそんな感情溢れているんだ、全く。ええい、エプロン姿が可愛いとか、余計な雑念が生まれてしまう。
落ち着け、落ち着け、俺。
ここは大人しく敗北を認めて、大人の度量を見せつけてやるところだ。
俺は、「ふっ」と静かに笑みを浮かべて、後輩である太刀川を先輩らしく称えてやることにした。
「とっても美味しかった!」
「…………え?」
「すごいなぁ、太刀川! とっても美味しかったよ、お前の料理! 毎日作ってもらいたいぐらいだよ!」
「あ、はい。ま、あ、時間があれば?」
「わぁい! ほんとぉ!? 嬉しいなぁ!」
「そ、そうですか……」
おや? おかしい、俺の脳内では余裕ある大人の笑みを浮かべて、太刀川を褒めたたえたというのに、何故か、ドン引きされている。
おかしいな。
なんかこう、口に出た言葉が脳内で考えていた言葉を違うんですが、え? なにこれ、脳の不具合? 病院行った方がいい?
「…………あの、お茶も淹れられますが、飲みますか?」
「飲むー!」
まぁ、ご飯が美味しいから別にいいか。
俺は深く物事を考えるのを止めて、目の前の美食に集中するのだった。
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人間とは慣れる生物である。
もしくは、適応する生物であると言い換えても構わない。
当初、明らかに無理があるだろうと思っていた楓との偽装関係であるが、交際開始から一か月も経てば、おおよそ周囲から俺たちの組み合わせは日常の一つとなっていた。
嫉妬の声や、俺の身分違いを嗤う声、そういう反感は探せば聞こえてくるかもしれないが、表立ってはおらず、今のところ、大きな被害は二件ほど襲撃を受けたぐらいだ。
…………いや、二件の襲撃ってよく考えると酷くないか? しかも、両方とも女子だったし。いや、いやいや、割と物騒なことになったかもしれないが、それでも、俺には怪我一つもなく、結果的に順調に物事が進んでいるのだから、大丈夫だ。上手くやれている。
だから、当面の問題は一つ。
「先輩、手合わせをお願いします」
「…………えぇ」
太刀川美優という、現状、俺へのヘイトが一番高い少女との交流だ。
「あのさ、俺ね? 戦うの嫌なんだけど。具体的に言うなら、女の子を殴りたくないのだけれど?」
「何を情けないことを。あの時。楓様の前で誓ったのでしょう? 争うことがあったら、無傷で制圧して見せると。私を殴らず制圧できなければ、そんなことは到底叶いません」
「一緒に暮らすようになってから、妙に小賢しいことを言うようになったよな、お前?」
「頭に上っていた血が、ようやく下がってきましたので。ええ、それとも、楓様の彼氏は女一人の前から逃げ出すヘタレなのですか?」
「安い挑発だな。だが、買ってやる。ありがたく思え、後輩」
「ええ、貴方を地べたに這いつくばらせた後、お礼を言ってあげましょう」
一緒に暮らすようになってから、太刀川の狂犬めいた態度は鳴りを潜めた。
何故かと言うと、このように、日常的に俺の帰りを待ち構えて、俺か帰ってくるや否や、即座に組手を申し込んでくるからである。
「今日こそ、太刀川流の神髄を見せて差し上げましょう」
「別にいいけど、負けても泣くなよ?」
「泣きません。泣いたことなど一度もありません」
「はいはい、そうですね――っと!」
この後輩、組手という名目で俺へストレートに殴り掛かれるようになってから、明らかにストレスが軽減して、態度が軟化したのだから驚きだ。
しかも、日々戦いながらこちらの動きに慣れて来ているので、襲撃の頃よりも格段に俺が打撃を受ける回数が多くなっているのだから、凄まじいモチベーションと集中力だと思う。
もっとも、それだけではまだまだ負けてやるつもりはないがね。
「――――まだやるか?」
「…………ぐぅ。まいり、ました」
太刀川の武術の合理に溢れた動きを、力任せに破って、地面に組み伏せた。
俺と太刀川の間には、男と女以上に、絶対的な性能の差が存在する。それを覆せるような武装が無ければ、いくら打撃を受けようが、急所さえ避けていればこんなものである。
…………ただ、毎回庭先で組手をすることになるので、ご近所からの視線に気を付けなければいけないのだが。
とりあえず、互いに学校指定のジャージなので、最低限の偽装では出来ていると信じたい。
「ふん。料理は全然駄目でしたが、ええ、学業なども全然楓様の相手には及びませんが。しかし、悔しいですが、武力だけはそれなりにあるみたいですね?」
「なんで地面に這いつくばった状態で、ここまで負け惜しみが言えるの? こいつ」
「心は絶対に屈しませんので」
「はいはい。わかったから、さっさと立ち上がれ。いつまでもそこで寝そべっていると、汚れるぞ?」
「…………人は、限界を超えた時、代償を支払わなければいけません」
「体が痛くて動けなくなるまで、頑張るなよ、馬鹿」
「運んでください、先輩」
「…………まぁ、いいけど」
「明日は休日ですね。三食全て、私が担当させていただきます」
「俺が脱衣所まで運んでやるから、そこから先は自分でやれ」
俺はまんまと餌に釣られて、太刀川を小脇に抱えて運ぶ。
だが、仕方ない。太刀川の料理は本当に美味しいのだ。今後、食事中についうっかり、『結婚してくれ』と叫び出さない自信が無いほどに。
「そこはお姫様抱っこか、背負うところでは?」
「女性の体をみだりに触らないのが紳士って奴だ」
「…………ふぅん」
ぐんにゃりとした太刀川の体を運ぶ……前に、適当に箒で土埃を払ってから、脱衣所に。
…………運んでいる途中、汗と少女の匂いで少しだけ緊張したのは、内緒だ。
「ほれ、運搬完了。汗を流したら、教えてくれ。俺も少し動いて汗かいたから、シャワーを浴びたいんだ」
「わかりました。ここまで運んでいただき、ありがとうございます。ああ、そうそう、先輩」
「ん、なんだ――――あ!?」
言葉を受けて、俺が太刀川の方へ視線を送ると、そこにはジャージの上着を少したくし上げて、腹部を、へそを、見せつける姿があった。
「な、なにやってんだ、馬鹿! 着替えるなら、俺が出て行ってからにしろ!」
慌てて、太刀川の腹部から視線を逸らす俺。
だが、太刀川はそんな俺の視線に追従するように動いてくる。
なんなの? こいつ。
「いえ、先輩はどうやら心優しい人のようなので。ええ、てっきり、私を返り討ちにして傷つけた時のことを気に病んでいるのかと思いまして。もうすっかり痣も引いて、ほとんど痕も残っていないですよ、という証明です」
「わかった、わかったからさっさと隠せ!」
「大げさですね。ただのお腹です。健全な雑誌の表紙でも、お腹ぐらい見せますよ?」
「いいから! そういうのは! もっと恥じらいを持てよ、もう!」
太刀川が何故か、執拗に腹部を見せようとしているが、俺は必死に視線を外して、脱衣場を後にする。
顔が熱い。熱が上がってくる感触を自覚せざるを得ない。
そんな、怒りなんだか、羞恥なんだか分からない感情を、頭に上った熱ごと吐き出すように、俺は、脱衣所の外から太刀川に文句を言う。
「今度そういうことをしたら、楓に報告するからな!! 気を付けろよ!!」
「…………く、ふふふふ、ええ、わかりました。とても」
本当に分かったのだろうか?
俺は、脱衣場の中から聞こえてくる不敵な言葉に嫌な予感を覚えつつも、これ以上何も出来ないので、さっさと退散することにした。
――――この時の予感が正しかったと俺が理解するのは、それから丸一日経った後だった。




