第20話 牙を剥く、影
俺が襲撃を受けたのは……いや、襲撃を『誘った』のは、倉森のアパートからの帰り道だ。
楓さんとは途中まで一緒に歩いていたが、迎えの車が来ていたので、そこで別れた。そう、その辺りからである。
露骨に、こちらへ殺意を向ける視線が感じられるようになったのは。
「…………俺か? それとも七尾家関連? あるいは、別件か? まぁ、いいさ」
相手がわざと殺意を発して、こちらを挑発しているのか、それとも、間抜けなことに殺意の隠し方も分からず、襲撃に機会を伺っているのかは分からない。
しかし、今後、偽装関係を続けていく上で、余計なトラブルの芽は早く摘んでおくに限る。
故に、俺はわざとらしく入り組んだ路地裏を歩き、周囲からの視線が無いような行き止まりを選んで、尾行者の反応を待った。
「七尾楓と別れろ。拒否すれば、貴様の命はない」
すると、尾行者はこちらの意図を読み取った上で乗ったのか、それとも、好機だと思ったのかは不明であるが、とりあえずは俺の思惑通りに姿を現してくれた。
ただし、その姿は俺にとって予想外な物だったけれど。
「ええと、真剣に脅してくれているところ悪いんだが、一つだけ良いか? それ、暑くない?」
「…………」
襲撃者は小柄だった。
だが、声の質からして女だろう。意図的に声を変質させようとしているが、俺の耳はその程度では誤魔化されない。
加えて、真っ黒なオーバーコートですっぽりと体を隠していることから、出来る限り体型を知られないように工夫しているのだろうが、明らかに動きづらそうだ。片手に携えられているスタンロッドという凶器が無ければ、間抜けな襲撃者を適当にあしらって帰ろうとさえ思ったかもしれない。
そう、間抜けだ。
人の外見を嗤えるほど上等な顔をしていない俺であるが、目の前の襲撃者は間抜けであると断言できる。何せ、この初夏で、真っ黒なオーバーコートに加えて、頭からすっぽりと黒の目出し帽で顔を隠しているのだから。
これが秋や冬場ならばともかく、夏場でこの格好をするのは違和感でしかない。
…………つまり、この襲撃者はこんな違和感丸出しの姿で俺の前に現れる手段があるということでもある。あれだけ歩き回ったというのに、背後からこの姿を不審に思う声が聞こえなかったということは、姿を隠す手段には長けているのだろう。
「もう一度言う。七尾楓と別れろ。イエスの答えしか認めない」
「仮に、断ったら?」
「貴様が頷けるように、『説得』する」
「へぇ、なるほど。それは恐ろしい。恐ろしすぎて泣いてしまいそうだ――――っと」
言葉の途中で、挑発の意味を込めて肩を竦めてお道化てみると、襲撃者はすぐに行動を切り換えた。即ち、言葉による脅迫から、実際に暴力を行使しての、説得に。
どうやら、この襲撃者は相当こらえ性が無いようだ。
「やれ、ちゃんとバランス良く食事を取っているか? ストレスで胃が荒れていないか? 心の乱れは、体の乱れから始まる物だぞ? んん?」
「…………っ!」
「はっはっは! 相手の言葉に惑わされているようじゃあ、まだまだ未熟じゃないか?」
ひゅんっ、という鋭い風切り音と共に、振るわれるスタンロッド。
オーバーコートによる動きの阻害によって、いくらか遅くはなっているのだろうが、それでも十分に早い。加えて、スタンロッドの特性を良く知っている動きだ。素人じゃない。当てて勝つという動きを練習して、それを実践してきた者の動き。
間違いなく、襲撃者は何かしらの訓練を受けている。
「そして、武器を持っている癖に、無手の相手に軽くあしらわれるのって、恥ずかしくないのか? ああ、そのために態々その恰好なのか。勤勉だな、予め失敗した時のために、そんな暑苦しい格好をするなんて」
「貴様…………っ!」
「惜しい。そのまま、怒りに飲み込まれてくれれば、あっさり武器を奪えたのに」
だが、そんな姿で怒りに惑わされているようでは、俺の敵ではない。
スタンロッドは、電圧によっては相手を一撃で死傷させることも可能な恐ろしい武器であるが、当たらなければ意味はない。そして、体格に合わないオーバーコートを着ている時点で、相手の挙動に無駄が多すぎる。そんな無駄な動きの攻撃に当たってやるほど、俺は未熟者ではないつもりだ。
「…………すぅ、はぁー」
と、ここまでは順調だったのだが、相手は間抜けではあったが、完全な馬鹿ではなかったらしい。
襲撃者は俺の挑発を振り払うように、大きく呼吸を繰り返した。
「油断していた。恥だ。これは、私の恥だ――――故に、全力で戦わせてもらう」
その直後、俺の視界が一瞬、黒に染まる。
脱衣。オーバーコート。視界の制限。奇襲。判断。
「下ぁ!!」
「ちぃっ!!」
一瞬の攻防だった。
襲撃者が覚悟を決めて、オーバーコートを瞬間脱衣。そのまま、俺に投げつけて視界を制限する。さらに、そこからあえて、ミスディレクションとして視界を隠した方からではなく、身を屈めての脚部に対する襲撃。
危なかった。
一瞬でも判断が遅れれば今頃、俺はあのスタンロッドの餌食となっていただろう。
「ふ、はっ! 今のは――」
「まだだ!」
奇襲を避けた俺であったが、それでも襲撃者による追撃は止まらない。
さながら毒蛇のように俺の足元へ近づき、曲線的な動きでスタンロッドを振るい続ける襲撃者。その姿に、もはや先ほどまでの無駄な動きは感じられない。それも当然、この襲撃者は先ほどまでオーバーコートを着ていたが、今は動きやすいジャージ姿だ。
加えて、こちらよりもあちらの方が、背丈が低く、地を這うようにして動く独特な攻撃に、俺は翻弄されてしまっている。
まず、このままでは。
「シャァッ!」
鋭い呼気と共に振るわれる一閃は、例え、スタンロッドではなく、ただの棒切れであったとしても、痛烈な一撃になるだろう。
そして、このままでは俺はやがて、襲撃者の攻撃を避け切ることは出来ない。上手く相手を制圧出来ればいいのだが、相手が思って以上に強すぎる。こちらを一撃で昏倒させる可能性のある武器を使いこなしているのだから、とても厄介だ。
だから、俺は諦める事にした。
「…………はぁ」
相手を無傷で捕えることを、諦める事にした。
「――――っ!!?」
制限の一部を外す。
まず、こちらが見せた隙を、疑いながらも突こうとする堅実勤勉な襲撃者に対して、容赦なき反撃を。先ほどまで俺が見せていたおおよそ三倍の動きの速さで、俺はスタンロッドを持った襲撃者の腕を蹴り飛ばす。
「ぐ、が、あっ……」
嫌な手ごたえ。
骨までは達していないが、確実に打撲で数日は動かなくなるダメージを与えた感触。肉がつぶれて、人の皮が剥がれるような一撃を与えたという確信。
次いで、相手が混乱から回復する前に、さらなる追撃を。
腕を蹴り飛ばしたことによって、相手は強制的に体勢を崩してボディががら空きだ。そこに、相手が死なない程度に、けれども、動くことなど叶わぬほどの打撃を、掌底で与える。
「――――ご、あ」
襲撃者は俺の打撃を受けて、力を失ったようにその場で膝を着く。
そして、そのまま体をくの字に曲げて、口元から吐しゃ物を路面にまき散らした。
「ふむ、吐しゃ物の中に血は混じっていない、と。我ながら手加減が上手くなったものだ……さて、と」
「が、あ?」
俺は身動きの取れない襲撃者を組み伏せた後、手早く目出し帽を剥ぎ取った。
やれ、まさか人生の中で、女性から強制的に何かを剥ぎ取るような真似をすることになるとはな。
「…………あ、や、やめっ」
組み伏せられた襲撃者は、懇願するようにか弱い声を漏らすけれど、生憎、容赦はしない。
襲撃者から目出し帽を脱がせると、さらり、とショートカットの美しい黒髪が姿を現して、初雪のように白い肌が露になる。
俺はそのまま、襲撃者の顔を確認する前に、体勢を変えて、馬乗りへと移行。相手の両手をこちらの両足を抑え込み、隠すことも許さず、きっちりと襲撃者の顔を見つめる。
「やめ、て……見ない、で、ください……」
美しく、涼しげな容姿の少女が、顔を歪めて涙を零していた。
黒曜石の如き瞳が、涙で歪み、本来はクールビューティであるはずの少女が、今や、ただ泣きわめき、懇願するだけの立場となって、俺に抑え込まれている。
抵抗は出来ないはずだ。
体格差、筋力差で、絶対に外れないはずの拘束…………だが、気付くと俺は、自ら彼女から降りて、後退ってしまった。離れてしまった。
「…………ぐっ」
それどころか、俺は胸を押さえて高鳴る動悸を抑えることしか出来なくなってしまっている。
これは、一体?
「――――っ!」
困惑する俺をよそに、少女はなりふり構わずその場から逃げ出した。
オーバーコートも、凶器であるスタンロッドさえも捨てて。
ただ、必死にこの場から走り去っていった。
俺は直ぐに少女の背中を追いかけようとするが、足が動かない。重い。まるで、体全体が少女を害することを拒んでしまっているような感覚だ。
「なんだ、これは……? 精神、干渉……この、俺に? この、レベルの精神干渉を? ぐ、ぐぐぐぐ、あの襲撃者は、一体、何者だ……?」
頬が上気する。
奴の顔が頭から離れない。
鼓動を落ち着けるのでさえも、ひと手間だ。
「なるほど、あの目出し帽は無意味に周囲へ精神攻撃しないための装備だったのか。くそ、やられた。相手を侮りすぎて、自ら相手の術中に嵌ってしまうなんて…………未熟、ここに極まったか」
俺は自身の情けなさに打ちのめされながらも、頭は冷静に今後の対策に関して考えていた。
まずは、悔しいがあの白衣の屑野郎に連絡を取らないといけない。治療を受けて、この精神干渉から早々に脱して、早く楓さんをあの襲撃者から守らなくては。
●●●
翌日。
「いや、それは恋じゃないかい?」
「…………は?」
「俗に言う、一目惚れという奴だよ」
「…………えぇ」
俺は、『今の俺』になってから初めて、恋の始まりという奴を実感することになってしまった。




