第19話 平穏の影
でん、と目の前には肉の山がある。
とてもシンプルな肉の山だ。
豚。豚。豚。どんぶりからはみ出そうなほどの、豚肉。醤油ベースで甘辛く味付けされた大量の肉が、どん、と大きなどんぶりの上で山となっている。その山の中には時折、玉ねぎがぶち込まれており、単調な味わいにアクセントを加えていた。さらに、嬉しいことに、どんぶりの端にはきっちりと、真っ赤な紅ショウガが。
うむ、インパクトは十分。後は、味だ。
「いただきます」
静かに手を合わせた後、俺は割り箸を取って、食べ始める。
豚肉の味だ。けれど、生臭さの感じられない、ちゃんときっちり味付けされた豚肉の味だ。調理酒で肉の臭みを飛ばして、玉ねぎと一緒に炒めることによって、口当たりが柔らかな味わいになっている。
醤油、酒、砂糖の組み合わせは日本人の大好きな味だな、うん。
肉の底に埋まったご飯もまた、甘辛いタレと絡んで実に進むこと、進むこと。
「ほれ、漬物とみそ汁」
「お、ありがとう」
四分の一ほど豚丼を食べ進めたところで、嬉しいことに味噌汁と漬物の追加が入った。
みそ汁はかつおだしベースの安心する味。具材はワカメと豆腐。
漬物は、小ぶりな茄子の漬物。しゃくっ、と噛んだ瞬間に、上等な野菜の冷製スープが口の中に広がるような上品な味付け。
「……ふぅー。ごちそうさまでした」
気づけば、いつの間にか豚丼を漬物やみそ汁も合わせて完食してしまっていた。
ご飯粒一つなく、綺麗な完食である。食べ終わったと気づいた後に感じる、満腹感が心地良い。
「…………んで、どうだった?」
俺が満足げに食後のお茶を飲んでいると、先ほどから俺の隣でそわそわ落ち着きのなかった倉森が感想を尋ねてくる。
どうだったかだって? そんなのは決まっているじゃないか。
「おいしかった!」
「そ、そうか……なんだろう? 嬉しいんだが、普通に嬉しいんだが、子供みたいな笑顔で言われると、何を食わせても『おいしかった!』と言われそうな気が」
「失礼な。きっちりとした感想を聞きたいのなら、今から五分間語るけど?」
「あ、いや、大丈夫」
「まずね、見た目のインパクトが嬉しかったね。食事は味もそうだけど、見た目も肝心だと思うんだよね、俺は。だからこそ、大きなどんぶりに、どーんと、調理された肉が山となって乗っているという絵が良かったと思う」
「結局語るのかよ!」
「語るぞ、存分に。お前が止めても語るのを止めない」
「そこは普通にやめろぉ!」
その後、三分ほど語ったぐらいで脇腹を蹴られ始めたので、渋々引き下がった俺である。
いやいや、しかし、あれだ。女子の手料理という付加価値を求めて、軽く頼んでみただけだったのに、思った以上に美味しい料理を御馳走になって、俺はとても満足だ。
ちなみに、現在地は倉森のアパートの一室。
時間帯は平日の放課後。
先日、あれこれと騒動が起こった結果、倉森が友達として、そう! 俺の友達として、借りを返すために料理を御馳走してくれることになったので、二つ返事でお邪魔させてもらうことになったのだった。
「…………ぎぎぎ、料理ぃ、鈴音の、手料理ぃ……ぎぎぎぎ、私も、まだ、食べたことが……それに、なんか距離感が縮まって……はっ? これがもしかして『寝取られ』なの!?」
なお、当然の如く付いてきた楓さんは現在、血涙を流さんばかりの勢いで俺に敵意を向けてきている。
え? 楓さん、手料理食べたこと無かったの?
「だって、お前の家って専属の料理人が居るレベルじゃん。そうじゃなくても、お前の家の母ちゃん、プロレベルの料理上手らしいじゃん。いやだよ、そんな舌の肥えた奴に手料理を振る舞うの。絶対、比べられる」
俺が疑問の視線を向けると、倉森が食器を片付けながら即答してくれた。
ああ、確かに、気持ちはわかる。俺もあのレベルの食事を日常的に摂取している人に、自分の手料理を自信満々に振る舞える自信は無いぜ。
「そんなことないわ! 鈴音が作ってくれたという事実だけで、愛情補正でどんな料理よりも美味しく感じるようになっているもの、私の味覚!」
「いや、そういう気を遣われるの、ちょっと」
「あああああ!! 鈴音が虐めるぅ! なんなの? いつの間にか、偽装彼氏と私の恋人との距離が縮まっているしぃ! 捨てられるの? 私、捨てられちゃうの? その場合、頑張って二人とも道連れに心中するわよ!?」
「やめろ、目のハイライトを消して縋るな、鬱陶しい。つーか、誰が『寝取られ』だ、ばぁーか…………最初に私を除け者にしたのは、そっちの癖に」
「え? ひょっとして嫉妬していてくれたの? ふふふ、それならそうと早く言ってくれれば、私がたっぷりと甘やかして――」
「なんの! ための! 偽装交際中だと! 思って、いるんだ!? この、馬鹿!!」
「いたっ、いたっ、駄目よ、鈴音! グーで人の柔らかい部分を殴っちゃいけません!」
ぎゃあぎゃあ、と喧しくいちゃつく恋人同士を眺めながら、俺は和やかな気分になった。
楓さんと偽装交際を始めてから、ようやく、今日で三週間。
折り返しには少し足りないが、そろそろ別れ話の演出に向けて、伏線を張り始めても悪くない頃合いである。
「……なんだかんだ、どうにかなったな」
思えば、あの突発的な事故みたいな遭遇から、よくぞここまで状況が安定した物だ。
偽装交際を開始してから、早々に楓さんの自宅訪問。その後に、ちょっと病んだ倉森による襲撃などがあったが、それ以降は平穏そのもの。
幸いなことに、学校へ行っている間はほとんどの時間、学業に集中していれば、他のことに気を遣わなくて済む。それ以外の休憩時間もまた、常に楓さんと一緒に居なければいけない、という縛りがあるわけでも無い。
楓さんはバスケ部のエースであり、俺もまた、放課後からバイトに行くこともあるので、微妙に登下校を共にする時間が合わないという理由があるから。
そのため、俺たちは学内では意外と会わない設定になっている。会う時があるとすれば、それは、お互いの予定が合った時だけ。これが、意外と楽でいい。後は、たまに週末、同じ学校の学生たちが暇つぶしにたむろするカフェやら、デパートやらにデートを装って外出すれば、周囲は勝手に納得してくれる。
加えて、倉森も協力的になってくれたのだからありがたい。
倉森は元々、一部で楓さんの友達であるということを知られていたらしいので、俺が楓さん関連に関して齟齬を生じるようなことを言ってしまいそうになった時、さりげなく後ろの席からフォローしてくれるようになったのだ。
「ハードボイルドとは言い難いけど、まぁ、格好つけて失敗するよりも、格好悪くても依頼が成功する方がいい、か」
万全とは言い難いが、既に、安定した日常のサイクルは出来ている。
後は、それに沿って、別れる演出を行うまで、平穏無事に過ごすだけ。やれ、楽な仕事で何よりだぜ…………いや、割としんどかったな。七尾家への呼び出しとか、泣いている倉森の対処とかがしんどかった分、後から対価として平穏が与えられているのを忘れてはいけない。
「伊織君、この捻くれガールが!」
「天野! このポンコツお嬢様が!」
「はいはい、二人とも、落ち着け。その内、壁ドンされるぞ、クレーム的な意味で」
俺は、楓さんと倉森を適当にあしらいつつ、心の中で密かに願う。
この暖かくも平穏な時間が、無事に契約完了の時まで、続けばいい、と。
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「七尾楓と別れろ。拒否すれば、貴様の命はない」
そんな風に気を抜いて、フラグを立ててしまったのが悪かったのかもしれない。
場所は人気のない路地裏。
時間帯は、日が沈みかけた黄昏時。
脅迫者は、頭からつま先まで黒尽くめで、その手にはスタンロッドと思しき凶器を携えて俺の正面に居る。
ああ、まったく。俺の日常という奴はどうして、こうもイベントが目白押しなんだか。
「やれやれだぜ」
俺は、襲撃者に何かの答えを返す前に、お決まりの台詞を吐いて、肩を竦めた。
さぁ、いつも通りに困難に立ち向かおう。
出来れば、ハードボイルドに、格好良く。




