第16話 夜に虎
物事は中々綺麗に収まらない。
今日は散々な日だったけど、最後に良いことがあったから、まぁいいや、などと思っていても、まだ今日という日は終わっていない。
まだまだ日付変更線は超えていない。
故に、こういうこともたまに存在するようだ。
さながら、蛇足のように。
「――――おい、クソガキ。俺の妹を連れまわして、なんのつもりだ? あぁん?」
あるいは、交通事故のように。
藪から虎が出てくるように。
俺は再び、災難に直面したのだった。
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「今日はごめん。それと、送ってくれてありがとう」
「気にするな。これもサービスの内だ」
「サービス残業?」
「世知辛い解釈は止めて欲しいところだが、概ねその通りかもしれないな」
倉森との和解が済んだ後、俺は彼女の自宅まで付き添って送り届けた。
彼女の住まいは、木造建築の古めかしいアパートの一室らしい。
なんというか、こう? 趣深い? いや、あれだ。うん、夜だからそう見えるだけで、昼間に見ればまた違った印象もあるはずだ、うん。
「うちのアパートボロいでしょう? 築五十年なんだ、これ」
「人が気を遣って言わなかったことを本人が堂々と」
「いいの、ボロなのは事実だし。でも、外見に比べて中は割と綺麗なんだぜ?」
それに家賃も安い、と言って、にやりと倉森は笑みを作った。
自嘲の笑みではなく、むしろ、己の環境を誇るかのように作った笑み。例えそれが、強がりだったとしても、俺は、その笑みが好ましく思えた。
というか、あれだ。
「…………倉森って結構笑うんだな?」
「何さ、その言い方。まるで私の表情筋が死んでいるみたいな」
「教室のアンタは、死人の方がまだ情緒豊かな感じだったから」
「そんなに?」
「そんなに」
互いに過去を明かして、いくらか距離感が縮まったおかげか、倉森の表情がかつてないほどコロコロ変わっている。
これが昨日までの倉森だったなら、仏頂面でつまらなそうに言葉を吐き捨てるだけだったのに。そもそも楓さんも挟まず俺と会話することなんて皆無だったはずなのに。
たった一日を経ただけで、こんなにも見ていて楽しい奴になるとは思わなかった。
「ふん。どうせ、私は不愛想な女ですよー、だ」
「いやいや、違う。貶めるつもりはない。むしろ、褒めている」
「死人みたいと言われて喜ぶ奴が居るの?」
「そっちじゃない。笑った倉森は魅力的だから、もっと笑えばいいのに、ってことだ」
「………………はぁー。趣味わるぅ。と、というかぁ? 彼女が居る女を口説くとか、最低だと思わないの?」
「彼女が居る女」
「馬鹿にするなぁ! 差別だぞ、それは!」
「すまん、素直に謝ろう。口説くつもりも無かった。事実を言っただけのつもりだった」
「ああこのっ! 天野、お前さ! やっぱり普通じゃないよ、普通よりも馬鹿だよ、お前!」
「マジか」
自分では賢いつもりだったのに。
成績は悪くとも、地頭が良い系男子だと密かに思っていたのに。まさか、ひょっとして、俺は割と馬鹿な人間なのだろうか?
「そういうところがほんと馬鹿」
真剣に悩んでいると、倉森からジト目で罵倒された。
だが、何故だろう? 罵倒されたのに嫌ではない。少しだけ分かり合えた相手からの軽口だからだろうか? そういえば、映画でも様々なハードボイルドな主人公たちは、相方と軽口を叩いて困難を乗り越える物だ。
ふむ、そう考えると悪くない。
「なんで笑っているのさ? キモい。楓みたいにキモい」
「罵倒の形容詞がお前の恋人になっているぞ?」
「いいんだよ。あいつは恐ろしいぐらい綺麗だけど、中身は馬鹿で、ちょっとキモいところがあるから」
「へぇ、趣味が良いな」
「…………そこは、趣味が悪いって言えば?」
「アンタの恋人と自分を同時に貶めるなんて器用な真似は出来ないね」
「むぅ。気障な奴」
こういう、僅かな灯りがあるだけの暗闇の中で、密やかに誰かと軽口を叩くのは悪くない。
出来れば、契約が終わっても、誰かとこういう軽口を叩ける関係になれればいいと思う。
そんな時だった。
名残惜しみながら、俺がそろそろ別れの言葉を切り出そうとした時だった。
「――――っ!?」
まるで、突風のように、物陰から何者かが襲ってきたのは。
「え? あ、な、なに!?」
「倉森は俺の後ろに!」
俺はとっさに倉森を庇うように、襲撃者へ立ち塞がるが、襲撃者の動きは緩まない。物陰から飛び出した勢いのまま、容赦なく俺の顔面を狙って拳を振るう。
この躊躇いの無さ。最初から狙いは俺か?
「誰だ、アンタ」
「ちっ」
不意打ちであったが、問題ない。
俺は襲撃者の拳を手のひらで受け止めて、きっちりと防ぐ。その後、奇襲が失敗したと悟った襲撃者はすぐに俺から数歩離れて、態勢を立て直す。
人を殴ることに躊躇いが無かった。
奇襲のアドバンテージが失われた時、素直に下がる状況判断力があった。
こいつ、ただの変質者や暴徒にしては練度が高いな。
「答えろ。なんの目的で俺たちを襲った?」
再度、答えなどが無いと知りつつも、俺は問いを重ねる。
言葉を交わしたことのない対象を傷つけるよりも、少しでも言葉を交わした対象を傷つける方が、人間はハードルが僅かながら高くなる。無論、仮に襲撃者が覚悟の決まった暗殺者ならば無意味かもしれないが、日常生活でそんな相手にはまずお目にかからない。
故に、相手が只者ではないにせよ、言葉によるデバフをかけられればいいな、という目的で、俺は言葉を重ねる。
「金が欲しければ働け。女が欲しければ、金を稼げ。暴力を振るいたいなら、そこの電柱でも殴ってろよ。それとも、野良犬みたいに本能で誰彼噛みつかないと気が済まない、畜生か?」
挑発のような言葉を投げかけながら、俺は相手を観察した。
まず、目につくのが金と黒で構成された虎縞を連想させる派手な髪。体格はさほど良いというわけではなく、俺と同等か少し高い程度。けれど、先ほどの獣の如き動きから、体はいくらか鍛えられており、しなやかな筋肉を保有しているだろう。
服装はグレーのパーカーに藍色のジーンズ。靴はスニーカー。普通の者だ。靴底に鉄板などは仕込まれていない。
獲物の有無の確認。
……恐らくは無い。ペンや糸ぐらいの暗器はあるかもしれないが、目立った獲物を隠してある部分は見当たらない。
「あ、天野っ!」
「大丈夫だ、倉森。これでも俺は腕に覚えがあってね? お前から見れば俺は、頼りない未熟者かもしれないが、それでも、お前を守ってやることぐらいは出来る」
「そ、そうじゃなくて、その」
ふむ? 何だろうか? 俺は視線を襲撃者から外さず、倉森の言葉を待つ。
だが、倉森よりも先に、襲撃者が口を開いた。
「はんっ……誰だ? なんの目的だ? ねぇ。そりゃあ、こっちの台詞だっての」
そこで俺は違和感を抱く。
襲撃者の戦闘能力などばかり観察していたから気づかなかったのだが、この、目つきの悪い顔立ち。荒んだ獣を連想させる粗暴さと凛々しさを混ぜたような容姿。どこかで、似たような顔を見たことがあるような?
「――――おい、クソガキ。俺の妹を連れまわして、なんのつもりだ? あぁん?」
イモウト?
…………ああ、妹。
一瞬、あまりにも連想できずに混乱したが、そうか、そうなのか?
「えっと、倉森?」
「…………うちのクソ兄貴です」
視線を自称兄貴から外さず、倉森へ問いかけてみると、直ぐに答えが返ってきた。
そうか、兄貴か…………随分と個性的な人ですね、うん。
「クソとはなんだ! クソとは! 今日も兄ちゃんは頑張ってバイトしてきたんだぞ!? そのおかげで、今晩の夕食におかずが一品増えるんだぞ!」
「クラスメイトにいきなり殴りかかる奴なんて。クソで充分だ!」
「すっかり陽が沈んだ後に、妹の隣に男が居るというだけで、兄貴としては許せなくて当然だろう!?」
「そういう視野狭窄で、暴力的なところがあるから就職できないんじゃん!!」
「アルバイターは職業じゃないってのかよぉ!」
「そんな髪をした社会人が居るかぁ!」
「居るかもしれねーだろうがぁ! アーティストとかにぃ!」
「絵も描けない、音楽も出来ない奴が、アーティストになれるわけねぇだろうが!」
「うるせぇ、これは俺の魂だ! 絶対に切らねぇぞ!」
「髪一つで女々しい!」
「お前はもうちょっと自分の髪に気を遣うようにしろよ!」
「うっさい、人の勝手だろ! 後、食べてきたから夕ご飯は要らない」
「お前、そういうのもっと早く連絡しろよ……明日のお弁当にするかぁ」
ぎゃあぎゃあと、似たような顔で、似たような乱暴な口調の言い争いをしている兄妹を眺めて、俺はふぅ、と小さく息を吐いた。
その騒がしさが、少しだけ羨ましいね、まったく。