第15話 縮まる距離
場所にもよるが、東北地方の初夏は思った以上に肌寒い。
コートを羽織る程度ではないけれど、昼と同じ服装では居られない。故に、倉森さんは少しサイズが大きめの、俺のカーディガンを制服の上から羽織るようにしていた。
流石に、泣かせた上に、風邪をひかせてしまったら、プロや素人以前に、男としてどうかと思ったのである。
「私ね、母子家庭なんだ」
あの涙の後、倉森さんはほとんど沈黙していた。
俺からカーディガンを借りる時や、帰ろうとするときにぽつりと短く言葉を発したが、それだけ。涙が引っ込んだ後は、ほぼ沈黙を保っていた。
なので、どれだけ俺に対して申し訳なさそうにしていても、俺は倉森さんを家まで送り届けることを譲らなかった。例え、俺の家から倉森さんの家まで、十五分もかからない場所にあるとしても、もう日も沈んだ夜に、女の子を一人で家に帰すなんてありえない。
故に、しばらくは沈黙と共に歩いていたのだが、唐突に、倉森さんは言葉を紡ぎ始めた。
「お母さんは看護師。毎日、夜遅くまで働いている。でも、お給金はそんなに良くないみたい。だから、私と兄貴は幼い頃からずっと我慢ばっかりだった。一応、記憶の奥底にある、お父さん――クソ親父が一緒に居た頃の風景は覚えているけど、その時も碌なもんじゃなかった。クソ親父は誰にでも優しくて、善人っぽい笑顔を浮かべていたけど、何もできない屑だった。売れない絵画なんて描いて、芸術家気取り。金を稼ぐのも、家事をするのもほとんどお母さんに任せて。それで結局、私が五つになる前に、どこかの若い女と浮気して消えたの」
吐き捨てるように、倉森さんは言う。
俺の隣を歩き、時折、初夏に残された夜の寒さに震えるようにして息を吐いて、口元には自嘲するような笑みを浮かべて。
「だから、なのかな? あるいは、生まれつきなのかもしれないけど、私は男の人は駄目なんだ。生理的に無理って奴。一緒に居たり、軽く手で触ったりするのは大丈夫だけど、それ以上は無理。抱き着かれたりだとかも、無理。生理的に、無理。かといって、女の子が好きってわけでも無かった。大抵の奴らは、私よりも良い環境で生きていて妬ましかったし、私よりも酷い環境に生きてきた奴は、私みたいに人生を投げ出して拗ねているような屑ばっかりだった。だから、ほんと、最初の頃はさ、私は楓のことが大っ嫌いで」
俺の隣で歩きながら、夜の先を見据えながら、倉森さんは言葉を続ける。
「むかついた。私よりも遥かに恵まれた環境に居て、恵まれて生まれてきた奴が、なんで私なんかに構うんだと思った。カースト最上位様のお遊びかと思った。嫌いだった。大嫌いだった。でも、でも、あいつの押しに負けて、渋々言葉を交わしていくうちに、なんか好きになった。仕方ない。だってあいつ、綺麗だし。間抜けなところはあるけど、そこが可愛いし。なんだかんだ、本気だってわかったから。だから、告白された時、私は、嬉しくてちょっと泣いた」
歩く、歩く。
時折、踵で路面を鳴らしながら、素直じゃない少女の独白は続く。
「一年の冬から、今まで付き合っていた。割と幸せだった。でも、最近ちょっと、あの馬鹿のタガが外れかかっていた。まずいと思っていたし、注意はしていたけど、惚れた手前、強く言えない私が居た。一応、あいつも周りに注意していたし。でも、そんな時、天野があの教室に入ってきた。ほんの一瞬だけのキスだけのつもりだったのに、その一瞬に居合わせて。本当にもう、恥ずかしくて、恐ろしくて、私は、私たちはどうにかなりそうだった」
はぁああああああ、と己の過去を悔いるように大きく息を吐いて、ここで倉森さんの足が止まる。俺も、会わせて止まる。
ここで、倉森さんは隣に居る俺へ向き直り、正面から見つめ合うような形になった。
「結局、お前の言う通り。怖かったんだよ、私は。だって、いつの間にか楓と仲良くなっているし。一人だけ、除け者にされた気分だった。奪われるって思った。周りがほとんどお前らを祝福していて、怖かった。私たちは絶対に認められないのに。なんで、お前だけ、って。だから、うん、だから、頭の中でぐるぐると自分に都合の良い理屈ばっかり探して、挙句の果てがあの馬鹿みたいな行動」
「…………」
「ほんと、ばっかだよねぇ、私」
自嘲の笑みが引きつり、目じりが下がって、目が潤む。
どうやら、倉森さんは俺が予想していた以上に涙もろい人らしい。
「勝手に被害妄想を膨らませて、天野を襲撃して。その上、あっさりと制圧されて。泣きわめいて。ご飯を御馳走になって。それでもまたしつこく疑って…………挙句の果てには、天野が自分よりもよほど辛い過去を体験しているって知って、そこで、そこでようやく自分が馬鹿だって思い知るなんて、格好悪すぎる。最低だ。最低最悪だ、私」
「いや、俺としては別に、そんなに辛い過去を背負っているつもりじゃないんだけど?」
ここでようやく、俺が口を挟む。
俺としては、問われたから答えただけだが、確かに、割と長く語ってしまったのは自分の中でどこか、誰かに聞いてもらいたいという甘えがあった所為だろう。それを仕事相手に持ち込んだ自分が悪い。それに、前にも言った通り、実感が無いのだ。だから悲しくなどない。
家族が亡くなろうが、俺は最初から一人だったのだから、悲しくなるわけがない。
「…………ごめん、私、また嫌なことした。勝手に、天野のことを可哀そうな奴呼ばわりした」
「あー、その、特に気にしてないからいい――」
「私が、されて嫌なことを、お前にした。最低だ、私」
「…………うーん」
さてはて、完全にダウナーな方向に入っている倉森さんだが、どうしたらいい物か。
ここに楓さんが居てくれれば、まだ望みは繋がったというのに、ここに居るのは残念ながら、女の子一人泣き止ませることが出来ない未熟者だけだ。
どうしようか? 楓さんにヘルプコールしてみるか? いいや、駄目だな、余計に状況がこんがらがる未来しか見えない。
何より、倉森さんはこんな姿を楓さんにだけは見せたくないだろう。
「だ、だから、その…………このことは、どうか、楓には黙っていてください」
しまった、そうこうしている内に、倉森さんが勝手に追い詰められて俺に頭を下げ始めている。これはまずい兆候であると俺の直感がビンビン来ているぜ。
「ちょっ、そういうのは止めようか、倉森さん」
「なんでも、なんて、できない、けど……出来る範囲なら……頑張ります……」
「やめて、涙ながらにそういうことを言わないで」
だから勝手に破滅の道に進むのをやめて頂きたいのだが、もう。
…………いや、これは変に語りすぎてしまった俺の所為だ。今から実は嘘でした、なんて言えば丸く収まる……はずもないよな、うん。激昂して俺が悪者になるだけならばともかく、しっかり調べられて俺が気を遣ったことがばれても余計に倉森さんは追い詰められるだろうし。
うむ、じゃあ、仕方ないか。
「わかった。なら、顔を上げてからしばらくの間、目を瞑っていてくれるか?」
「…………っ、う、うん。それで、お前の気が済むなら」
俺の要求に従い、ぎゅっとスカートの裾を力強く掴み、ぷるぷる肩を震わせる倉森さん。その目は閉じられているが、あと少ししたら涙が再び流れてもおかしくない緊張感だ。
やれ、なんでこんなことをする羽目になったのやら。
俺は心中で大きくため息を吐きながらも、ゆっくりと倉森さんへと手を伸ばして。
「ていっ」
「あいたっ!?」
ぺちん、ととても手加減したデコピンを食らわせた。
前回の反省を生かして、今回は適切な威力で打ち込むことが出来たと思う。
「はい、もういいぞ。これでお互い不意打ちしたから、お相子だな」
「…………え、あ、こんなので……っ!」
「いいんだよ、こんなので」
目を開いた倉森さんは、俺に馬鹿にされたと思ってこちらを睨みつけてくる。けれど、額をさすりながらちょっと涙目になっている倉森さんでは、いくら睨んでも怖くない。
「女を殴る趣味はない。女を脅して、何かを強請るようなクソ野郎にもなるつもりはない。ついでに言えば、俺は何も実害なんて被っていない。この通り、なんでもないのさ」
だから、俺は肩を竦めた後、両手を広げて大仰にアピールして見せる。
女の子の癇癪なんて、余裕で受け止めてこそのハードボイルドであると。
「それでも、アンタが何か足りないというのなら、今度はアンタが俺に飯を食わせてくれ。ああ、もちろん、手料理だぜ? ほら、女の子の手料理って奴に、普通の男子高校生は憧れるんだろう?」
「…………お前は」
一瞬、呆れたように目を丸くした倉森さんは、なんだかとても可愛らしく見えた。
なるほど、こういうところに楓さんは惹かれたのかもしれない。
「お前は、馬鹿だ」
「かもな? でも、格好いい馬鹿だと自負している」
「…………ばぁーか」
ここでようやく。倉森さんは小さく微笑んだ。
呆れ半分ではあるけれど、初めて、俺に向けられた、倉森さんの笑みだった。
「男は皆、女の子の前では馬鹿になるものさ。大目に見てくれ」
「気障な台詞。それも、映画の真似?」
「いいや、あの映画の主人公だと、大抵の女の人には二言目に『今夜どうだい?』みたいなことを言うから」
「うっわ、最低」
「俺に対する罵倒みたいなリアクションは止めてくれ。目的語をはっきりさせてくれ」
「ん、そうだよね? 天野は別に、そういうこと…………いやでも、気障な台詞は吐きまくっているし。本当に楓に手を出さない?」
「出さないと何度言えばわかるんだよ。アンタは。大体、物凄く綺麗だとは思うが、どちらかと言えば倉森さんの方が好みだからな? 外見だけで評価しても」
「え? 趣味悪い。そして、ごめん。私には愛する人がいるの」
「告白してないのに振られた。そうか、これがあの時の楓さんの気分か、悪いことをした」
「ふ、ふふふっ、これでも私は一途だからさ」
「はいはい、そうだな」
俺はハードボイルドに気取って、倉森さんの隣を歩く。
ああ、なんだ、まったく。
今日は散々な日だと思っていたけれど。
「だから、気安く名前なんて呼ばせない。私とお前は、苗字で呼び合うぐらいがちょうどいいんだよ」
「元より、碌に交流の無かった女子を名前で呼ぶような度胸は、俺には無いぜ、倉森さん」
「…………でも、あれだ。うん、いつまでも『さん』付けは距離が離れすぎだと思うから、呼び捨てで良いよ。互いに敬称は無し。遠慮も無しのビジネスライクでいこうよ」
「それって、何か変わるのか?」
「変わるよ、少しだけ」
「じゃあ、今後ともよろしく、倉森」
「ん、よろしく、天野」
少しだけ弾むような、倉森さん――倉森の声と、強がった笑顔を見られたのならば、なんだかんだ悪くはない。
そんな風に、俺は、先ほどよりも少しだけ、縮まった距離で思ったのだった。