第14話 どこにでも居るような、普通の男子高校生
三年前の出来事である。
とある観光ツアーのバスに乗っていた乗客、二十人がトンネルの崩落に巻き込まれる事故があった。原因は不明。前日に大雨が降っていたことから、地盤沈下による土砂崩れが考えられているのだが、余りにも崩落の範囲が広いので現場検証が困難だったのだ。
そして、事故に遭った乗客の内、生存者はたった一人。
当時、中学生だった天野伊織という少年のみである。
もっとも、奇跡的に生き残ったとはいえ、乗客ほとんどが死傷するような事故に巻き込まれてしまったのだから、無事であるはずがない。むしろ、生きていることが不思議なほどの大怪我だったという。
意識不明の日々が短くない期間続くわ、何度も生死の境をさ迷うわ、いつ死んでもおかしくない重体だったのだが、そこは現代医療。加えて、観光ツアーで都心に出向いていたのが、不幸中の幸いだった。
充実した医療器具が揃った大病院で治療を受けた天野伊織は、なんとか容態が安定。しばらくして意識を取り戻すまで回復したのだった。
「ただし、その時には既に俺が『俺』であるという実感を失っていたんだがね。専門の医者が言うには、一種の逃避行為。あるいは、外部からの衝撃による物理的な脳の不調らしい」
けれども、回復した天野伊織は別人だった。
記憶を失ったわけでも無い。
今でもきっちりと、天野伊織の記憶を俺は参照することが出来る。だが、家族が全て死んでしまったので、意識のすり合わせの確認は出来ない。
肉体としても、天野伊織の肉体だ。
脳を別の体に移植されたというわけでも無い。
いくら現代医療とはいえ、脳移植なんて無理難題だろうし。
では、何が違うのか?
それは主観である。
「なんというかな? 俺が天野伊織である、ということはすぐに分かったんだ。何せ、脳はきっちりあるからな、記憶を探ればすぐにわかる。だけど、どうにもしっくりこない。連続していない。その記憶を『自分が体験した物』であるとは思えないんだ。俺からすれば、その時の天野伊織の記憶は、あくまでも実感を伴わないデータ。ドラマの中の出来事みたいに、脳内で参照できる何か、だったんだ」
俺は天野伊織である。
それは間違いない。
ただし、前の天野伊織そのままではない。あの事故の時に、天野伊織としての連続性は途絶えてしまった。
今の天野伊織の主観が始まったのは、あの真っ白な病室からなのである。
「だから、まるで悲しく無かった。家族である人たちが死んだことが、俺はまるで悲しく無かったんだよ、倉森さん。いや、それどころか、生きている実感すらなかった。なんというか、分からなかったんだ。生きる意味が。無気力、とも違うな。何もなかったんだよ、その病室で目覚めた時の俺は。真っ白だった。ただ、医者や看護師の言うことを素直に聞いて、誰かの言うとおりに動くことを是とする人形に近い存在だった。そうすることで初めて、死にぞこないの何かである俺が、存在を許されるような気がしていた。いや、今から思うと、何も感じてなかったというわけではないのか? なんというか、他人の服を着て生きていくような罪悪感があったんだと思う」
産声すらなく。
生誕を祝う母すらいない。
まるで、死体を乗っ取って蘇った怪物のように、現在の俺は生まれた。
だが、生まれたは良いものの、特にやることも無かった。その当時、俺の中には何の渇望も存在していなかったのである。
なんとなく、死にたくはないと思っていただけ。
ただ、言われるがまま、そうした方がいいだろうという方に流されて、治療を受けて、退院して、気付いたら叔父さんに引き取られていた。
「あの頃の夢は、今でも視る。何を食べても美味しくない。何を見ても面白くない。何を触っても気持ちよくない。生きるということが面倒で、けれども、死ぬのは恐ろしいという怠惰に塗れた停滞の時間。あれは、鳥肌が立つほど悍ましい物だった」
ぞわわ、と実際に産毛が逆立った右腕を撫でながら、回想を続ける。
「断言できる。あの時の俺は、人間じゃなかった。人間の振りをした何かだった。あのままだったらきっと、碌な人間にもなれず、いつか死ぬのを遠ざけようとするだけの日々を送っていたと思う。そう、あの時が来るまでは」
思い出す。
泥沼の停滞を破った、あの時のことを。
一人きりで視た、ハードボイルド探偵の映画のことを。
「叔父はよく、出来損ないの俺に対して、いろんな映画を見せてくれた。曰く、映画は誰かの人生を変える物らしい。叔父からすれば、元の俺に戻って欲しかったのかもしれないが。いや、どうだろうな? あの人は俺が言うのも難だが何処かおかしい…………話を戻そう。叔父にどんな目論見があったとしても、いろんな映画を見せてくれたのは確かだ。恋愛映画。何百億の売り上げを記録したコメディ映画。わけのわからない戦争映画。アニメの映画。いろんな映画を見せてもらった。だが、どんな映画を視ても俺の心は動かず、こんなものを以前の俺はどうして楽しんでいたのだろう? と疑問に思っていたんだ。でも、叔父さんの言っていたことは真実だった。映画は、俺の人生を変えうる物だった」
誰も居ない平日の自宅。
学校に行く許可が出てなかった時のことだった。
ほとんど惰性に近い動作で、レンタルしてもらった映画のDVDを居間のテレビで再生させる。暇だと口寂しいので、カップへ適当に淹れたコーヒーをテーブルに置いて。
「古めかしい映画だった。とある小説を映画化した物だった。けれど、別に名作ってわけでも無かった。吹き替えだったけれど、主演以外の吹き替えは下手くそだったし。そもそも、俳優の演技だって上手くない。後から原作小説を読んでみたら、大切な部分を幾つもカットしていて、台詞の意味が違ってくるシーンが幾つも出ている。ああ、駄作だったね。それも、笑えるような駄作じゃなくて、ひたすらつまらないタイプの駄作だ」
退屈な映画だったな、と言葉を呟き、コーヒーを口にした。
けれど、いつの間にか並々と淹れられたコーヒーは冷めきっていて。その時初めて、俺は映画をじっくりと見入ってしまっていたことに気づいたのである。
分からない、ではなく、退屈だったと素直な感想が口から出たのは、初めてだったということにも。
いつの間にか、頬を涙で濡らしている自分が居る事にも。
「そんな駄作だったのに、俺は泣いていたんだ。泣くシーンなんてなかったはずなのに。退屈だったはずなのに。それでも俺は、感動したんだと思う。駄作で、つまらなくて、とてもじゃないけれど金を返せと言いたくなるような代物だったとしても、俺はその映画の主人公が大好きだったんだ。理不尽な出来事に振り回されて、何度もひどい目に遭って、結局、最後は依頼人の美女に騙されてくたびれ儲けみたいなオチだったけれど、最後の最後、タフに笑って日常に戻っていく主人公に憧れた。それが、俺にとっての始まりだ」
その時啜った、冷めたコーヒーの味は今でもよく覚えている。
クソまずかった。
とてつもなくまずかった。
冷めているとかそういうのを抜きにしても、酷い味だった。よくもまぁ、こんなクソまずいコーヒーを淹れる奴が居る物だと憤慨したのだった。
「それから、俺は物の良し悪しがわかるようになった。少なくとも、そういう判断基準が戻った。面白い物を面白いと。つまらない物をつまらないと。美味しい物を美味しいと。まずい物をまずいと言えるようになった。だから、俺がハードボイルドを気取っているのも、誰かの厄介ごとを依頼として受けるのも、全ては俺が俺で居るための儀式みたいな物なのさ」
それが俺の、現在の天野伊織にとっての原初風景。
だから、俺はタフに生きるために、ハードボイルドにロールを行う。出来損ないの人間から、少しでもまともな自分になるために。
だから、俺は美味い物を食べたいと思う。あのコーヒーよりも酷い味の食い物を、食べずに済むように。
「さて、長々と話して悪かったな、倉森さん」
俺は十分に熱の残ったコーヒーを飲み干して、一息吐く。
喫茶【骨休み】のそれとは比べるのもおこがましいレベルではあるが、素人が淹れたにしてはマシな味のするコーヒー。
願わくば、将来はもっと美味いコーヒーを淹れられる人間になりたい。
「色々と言ったが、結局はあれだ。年頃の男の特有の『格好つけたい』という願望に沿って動いているだけの思春期ボーイだよ、俺は。まだまだ、ハードボイルドにはなれない青二才だがね? それでも、一度受けた依頼は真摯にやり遂げようと思う。無論、俺を疑ってもいい。でも、自ら破滅の道を行くような自暴自棄な真似だけは…………って、え?」
ぴちゃん、という何かの雫が落ちた音がした。
見ると。いつの間にか倉森さんは、潤んだ瞳で俺を見ていて、その頬からは雫が零れている。熱く、塩辛いであろう雫が、苦く、熱の残ったコーヒーに落ちて、混ざっていく。
「……………………ごめん、天野。私、最低だ」
何故、倉森さんは泣いているのだろう?
泣かせないために、俺は腹を割って話したというのに。笑顔に、せめて、泣くことが無いようにしたかっただけなのに。
どうやら、俺はまた何かを間違えてしまったらしい。