第12話 夜道問答
互いの呼吸がわかるほどの近距離。
上着越しに体温を感じるほどの密着。
ざっくばらんに切り揃えられた髪から香る、整髪剤の混じった少女の匂い。
本来であればそれは、思春期の男子である俺にとっては、胸をときめかせるはずものであるはずなのに、この状況に於いては不穏な前触れに過ぎないのだから、困る。
具体的に何が困るかと言うと、銀に煌めく刃の切っ先を胸元へと向けられているのが困る。
「天野伊織。一年生の時は話したこと無かった。同じクラスになっても、席が近くなっても、ろくに言葉を交わしたことも無かった。素性もまるで知らない。お前のことを知っている人間はとても少ない。誰かの噂話に耳を傾けても、お前の家を知っている人間は皆無だった。ただ、調べていくうちにお前と取り巻く噂の中で、幾つか冗談みたいなものがあった」
俺に寄りかかりながらも、その眼は鋭くこちらを射抜くように見据えている倉森さん。
ナイフを持つ手は、震えていない。
「一年生の頃。去年の冬。地元の不良集団に絡まれて、どこかのクラスの調子に乗った馬鹿が捕まるような事件があった。警察を呼ぼうにも、その馬鹿と不良集団は『自称友達』という設定になっていて、例え呼んだとしても、『悪ふざけ』で済まされる程度。加えて、そんな警察を呼ぶような大事に関わろうと思う奴なんて居なかった。その馬鹿から、ヘルプコールを受けた、どこかの誰か以外は」
「へぇ、奇特な奴も居るものだな?」
「…………その馬鹿は直接、不良集団のたまり場へと単身で乗り込んで行ったらしい。そこからどんな過程があったかは知らないが、馬鹿は大した怪我も無く無事に帰還。馬鹿を助けに行った奴も、怪我一つなく帰還。後々、馬鹿や助けに行った奴にクラスメイト達が事情を尋ねるも、『話し合いをして、分かってもらっただけ』という答えしか返ってこない」
「それが本当なら、暴力じゃなくて、言語を使った交渉の末に実現した、感動的な救出劇だろうさ」
「………………そういう話が、いくつかある。普通の学生だったら、関わらないような厄介ごと。もめ事を、『依頼』として受ける奇人が、この学校に居るって」
「奇人は失礼じゃないか? せめて、変人と呼ぶべきだろう」
「――――――それが、お前だ。奇人・天野伊織。お前は、お前は明らかにおかしい。普通の学生じゃない。まるで、私たちとはジャンルが違う世界の人間が迷い込んでしまったような空気を感じる」
一介の男子高校生に、何て言い様だ、まったく。
大体、依頼の件に関してはそんなに珍しいことでもない。よくある頼みごとの延長戦だ。無論、報酬は食事を奢ってもらうことで美味しくいただいているのだが、そんなに大層な依頼なんてやらない。
大概の依頼内容は、誰もやりたくないようなことを代わりにやる請負人のような物だし。特筆して、凄いと言われるような内容ではないはず。
…………いや、流石に一年生の頃の不良集団との交渉はちょっとまずかったかもしれない。こちらの口止めは出来ているが、あちらの口止めは出来ていないのだから。プライドの高いあちらが、進んで自身の失敗談を語るとは思えないが、ううむ。
まぁ、過去の反省は後でいい。
今はこの状況をどうにかしよう。
「…………それで? 俺に何を訊きたいんだ? 倉森さん」
「前にも言った。お前は、何者だ?」
「俺は俺だ、天野伊織。十七歳。性別は男。趣味は食べ歩きと、映画鑑賞。交際歴は無し。身長は百七十五ぐらい。体重は――――」
「そんなプロフィールを聞きたいわけじゃない」
ぐっ、とその切っ先で制服の胸ポケットを軽く突き、倉森さんは言葉を続けた。
「お前は何者で、何のために楓に近づいたの? 私たちに近づいたの? 何の目的で、私たちを懐柔しようとしているの?」
そして、殺意と…………疑念と嫉妬に満ちた感情渦巻く視線を受けて、俺はようやく現状を理解する。
なるほど、そういうことか。
「倉森さん。そんなに俺が怖いのか?」
「…………怖くなんてない。今、話の主導権は私」
「こんな茶番をやるほど、怖いのか」
ぐっ、と黙り込む倉森さん。
俺はその隙を見逃さず、ナイフを持つ手を掴み――――そのまま、切っ先を俺に差し込むように、ぐいぐいと胸元に引き寄せる。
「あ、何考えてっ、やめっ」
「あのな? なんで抵抗しているんだ? ほら、得物を持っているってことは、刺す覚悟ぐらいはあったんだろ? なのに、どうして、抵抗するんだ?」
「――――っ、う、ううっ」
倉森さんはいくらか抵抗するが、そこは男と女の力の差だ。一度掴まれてしまえば、女の細腕では近距離での筋力勝負は覆しがたい差がある。
故に、かしゃん、というこの場にそぐわないプラスチックの音が、俺の胸元から響くことになったのだ。
「まったく、古典的だな。笑える程に」
俺の胸元に刺さるはずの銀色の刃は、ナイフの柄に収納されてしまった。刃自体も、本物ではない。よくできた模造品。ジョークグッズの類だろう。
「馬鹿に、して――」
「ああ、そっちに本命があるのも薄々分かっている」
ナイフを持った手とは逆の手で、倉森さんはスクールバックに手を突っ込もうとするが、その前にぐい、と抱き寄せて背後から両腕を拘束。
かしゃん、という音と共に、スクールバックからは重く、黒い塊が地面に落ちる。恐らくは、護身用のスタンガンのような物だろう。
ナイフの玩具で脅して、抵抗するようならスタンガンが本命。
素人なりに考えた方かもしれないが、そもそも前提が間違っている。
その道の玄人でさえ、極力戦闘やら、力づくの行為は回避しようとするというのに、素人が進んで暴力に手を出そうとするのが間違いなのだ。
もっとも、そういう俺もまだまだ未熟者の素人なのだけれどね?
「やめっ。変態っ! 離せ!」
「はい、離した」
「…………えっ? あ、ええ、と」
「どうした?」
「ば、馬鹿にして―――」
「ああ、馬鹿にするよ。だって馬鹿だろう、アンタ」
折角解放したのに、足元に転がったスタンガンを拾おうとしたので、軽く肩を掴んで止める。すると、目じりに涙を浮かべてこちらを睨んでくるので、俺は笑顔で対応。
「素人が暴力に頼ろうとするんじゃない。何かあったら、どうするんだ?」
そして、そのまま倉森さんの額へ、割と強めにデコピンを叩き込む。
女性を進んで傷つける趣味はないが、ここで叱咤せずに解放すれば、また似たようなことを繰り返す。今度は、俺以外の誰かに対して、やるかもしれない。その場合、失敗して手遅れになるかもしれない。
だからこそ、多少なりとも強めにデコピンをしたのだが、どうにも、俺が思っていたよりも効いてしまったようだ。
「――――っ! あたっ、頭っ、私の、頭、吹き飛ん、でっ!?」
倉森さんはデコピンを叩き込んだ額を抑えて、しゃがみ込む。
え? そんなに? とは思うが、とりあえず、弱っている内に言うべきことは言っておくことにしよう。
「いいか? 暴力を脅しに使う者は逆襲されても文句は言えないんだぞ? そもそも、そんな細腕でどうして、同世代の男子に勝てると思ったんだ? 仮に、そのナイフが本物だったとしても、筋肉を貫けるのか? ナイフを相手に突きつけるのは脅しとしては分かりやすいかもしれないが、首筋や太い血管あたりじゃないと、相手を殺すことは出来ないから全然さっきの脅しは意味無いんだぞ? そんなバターにナイフを突き刺すみたいに、相手の胸に入っていくわけがないだろう? いや、というか、仮に攻撃が成功したとして、相手が死んだら倉森さんは殺人犯だぞ? 楓さんの恋人であるアンタが殺人犯になってどうするんだ? どれだけあいつが悲しんで、苦しむと思っているんだ。付き合いが浅からぬ俺でも容易く想像できるぞ? あのな? 俺だって本当はこんな情けないことは言いたくないんだ」
「ぐ、ぐぐぐぐぐっ」
「頼むから、もうちょっと自分を大切にしてくれ。俺を不審だと思ったのなら、素直にまず、そう言ってくれ。こんなことして、俺が恐怖でペラペラ何かを話すと思ったのか? 仮に、そういうパターンになったとして、どういう答えを望んでいたんだ? つーか、同じ教室に居る相手をナイフで脅した結果。よしんばお前の思う通りに事が進んで俺を家に帰すことになったとして、その後に通報されると思わなかったのか? 漫画やアニメじゃないんだから、人は安全圏に帰ったら、容易く市民の権利を行使するぞ? もっと悪いパターンだと、逆襲されることもある。倉森さんは例えば、俺じゃなくとも年頃の男子に不意打ちされて、それを易々と察知して対処できる力があるのか? 違うだろ?」
「…………う、うう」
「せめて、行動を起こすならもっと物事を考えてだな…………って、あれ?」
「…………ひっく、ううぅ、うえぇえあああああああ…………っ!」
「あ、あっれー?」
額を抑えて蹲っていた倉森さんが、突如として泣き出した。
え? マジですか? え? やっべぇ、説教しすぎた? いきなり驚かされたから、ちょっと仕返しのつもりだったんだけど、そんなに? というか、駄目だ、これ。目の前で同年代の女子に泣かれてしまうと、今まで考えていた言葉のあれこれが吹っ飛んでしまう。
「ううああうああああああ!!」
「わかった! 俺も言い過ぎた! 言い過ぎたから、泣き止んで……」
「ああああっ! うああうあ!」
「ちょ、殴りかからない! 俺を殴ると逆に拳が痛むって……ほら、言わんこっちゃない」
「ひけえぁああああええあえああ!!」
「やめっ、せめてもの嫌がらせて、大声で泣き叫ぶのはやめて!」
ぼろぼろと涙を零しながら、吠え猛るように泣き叫ぶ倉森さん。
そんな同学年女子を前にしてしまえば、ハードボイルドを気取る余裕などはもはや皆無。俺は、なけなしのプライドやら何やらを全て投げ捨てて、倉森さんを宥め始めたのだった。
…………うん、やっぱり女の涙には敵わないぜ、ちくしょう。