919:天をも断つ
その人物は、いつの間にそこに立っていたのか。その場にいた誰もが、彼の存在を察知することができなかった。
ボロボロになった袴――胴着に近い衣を身に纏い、腰にはただ刀を一振りだけ佩いて。
強大極まりない圧力を放つドラグハルトの方へ、彼は何ら気負う様子もなくゆっくりと歩いていた。
「……貴公、何者だ」
「何者、ねぇ。お前さんなら、想像は付いているんじゃないのかい」
その老人は、韜晦するようにそう言い放つ。
彼の言葉に対し、ドラグハルトは警戒を抱きつつも魔力を昂らせた。
最早、物理的な衝撃すら伴い発現する、膨大なまでの魔力。
放たれれば、この浮遊島すらも粉砕するであろう圧倒的な力を前に、しかし老人はまるで動揺した様子もなかった。
「魔王の手の者か。ここまでの展開は良しとしても、これ以上先を赦すつもりはないと」
「ま、そりゃそうだわなぁ。マレウスは、別にこの世界の管理権限を奪うことが目的じゃあない。面倒事は女神に押し付けたいのさ。それが自分に回ってくるのは、あいつとしても避けたいところだろうよ」
「傲慢なことだ。余が女神の力を奪ったとて、容易に排除できるとでも思っているのか」
老人の告げた言葉に、ドラグハルトは鋭い殺気を向ける。
常人であれば、呼吸すらもままならなくなるであろう、その圧倒的なまでの圧。
しかし、それを前にしながら、老人はまるで気にした様子もなく小指で耳の穴を掻いていた。
物理的な圧力すら持って向けられているその視線を、微風ほどにも感じていないと言わんばかりに。
――故にこそ、圧倒的な力を得たドラグハルトも、その視線の中に油断はなかった。
「こと、ここに及んで送り込まれてきたのだ。只者ではあるまい、名乗られよ」
「残念ながら、お前さんたちのように大層な名は無いんだわ。肩書もくれてやっちまったからな。今の俺は、ただの剣客よ」
「そうか、ならば――名をも残さぬまま、果てるが良いッ!」
刹那、ドラグハルトの右手に、膨大な魔力が収束する。
空すらも真っ二つに断ち割らんとするような、絶大なる力の一撃。
その圧倒的と言える破壊力を前にして、老人はようやくその腰に佩いた刀へと手をかけた。
それとほぼ同時、ドラグハルトが右腕を振るうと共に、黄金の魔力が斬撃として顕現する。
巨大なドラゴンの爪を模ったその一撃は、人間の体など容易く引き裂きバラバラに粉砕するだろう。
一瞬にして迫るその一撃を前にして――
「また、大層なこった」
老人はただ、刀を引き抜くと共に振るった。
刹那に迫った爪の一撃を前に、寸分の狂いもなく刃を合わせ――あっさりと、それを切断してしまったのだ。
何事もなかったかのように消滅する一撃に、ドラグハルトは思わず眼を見開く。
そして同時に、気付いた。老人の姿が、元いた場所から消え去っていることに。
「な――」
その一瞬の後に、気付く。
離れた場所に立っていたはずの老人が、自らの懐にまで飛び込んできて切ることに。
その事実に、圧倒的な力を得た筈のドラグハルトは、確かに戦慄していた。
ドラグハルトは展開した魔力により、老人の目の前に障壁を生成し――その黄金の壁は、振るわれた白刃によって真っ二つに斬り裂かれた。
「余の力ですら、防げぬだと……!?」
ドラグハルトには、理解ができなかった。
何故なら、その老人からはほぼリソースを感じ取ることができなかったからだ。
この場に集う異邦人たちと比較しても、圧倒的に低いリソース量。
ある程度は蓄積しているものの、とてもではないがこれほどの威力を導き出せるはずがないのだ。
しかし、老人はそんな疑問など意に介した様子もなく、返す刀の一撃をドラグハルトへと向けて振るう。
(防げぬ、ならば――)
理解はできないが、事実は事実として受け入れるしかない。
即座にそう判断したドラグハルトは、老人の一撃に対して大きく回避を選択した。
その刃の圏内から跳び離れようと地を蹴り――その脇腹に、一筋の傷が刻まれていた。
「なっ!?」
「おお? 図体の割には、それなりに身軽なもんだな」
再び、理解できない事象にドラグハルトは目を見開く。
確かに、回避したはずだった。完璧に回避できるタイミングだった。
にもかかわらず、老人の刃はドラグハルトの身に届いてしまった。
その事実に混乱しつつも、ドラグハルトは斬り裂かれた身体を修復する。
エインセルの身体構造を入手した今のドラグハルトにとって、通常の外傷は大した問題ではなかった。
「ほう、お前さんもその類か。面倒くせぇ性質してやがるもんだなぁ、悪魔ってやつはよ」
刀を肩に担ぎながら、老人は呆れを交えた様子でそう口にする。
そんな彼の言葉に、ドラグハルトはしばし沈黙し――そして、問いかけた。
「貴公、大公との交戦経験があるのか」
「まあなぁ。お前さんらが戦っていない最後の一匹、それを斬ったのは他でもないこの俺よ」
四体存在した大公級悪魔、その最後の一体。
その個体が、東の大陸にて討ち果たされたことは、アルトリウスも話を聞いていた。
しかしながら、その経緯まではアルトリウスも把握していなかったのだ。
そして今、その張本人はそれを誇るでもなく淡々と告げる。
「だが、大公を討ったにもかかわらずそのリソースは……いや、そうか。貴公、まさか――今までに得たすべてのリソースを、その刃に収束しているのか!」
「全部が全部ってわけじゃないぜ? 刀を持つのに必要な分は割り振ってるさ」
その言葉に、ドラグハルトは納得と共に顔を顰めた。
つまり、この老人の持つ力は特別なものではない。
ただ単純に、あの刀の攻撃力が圧倒的に高すぎるだけなのだ。
あらゆる防御も、攻撃も。相対するすべてを、圧倒的な攻撃力で消し飛ばしているだけなのである。
「とはいえ、大公と同じ性質ってのは面倒だから……悪いが、ちと手を貸してくれ」
老人は、虚空へと向けてそう告げ――次の瞬間、彼の背後から滲み出るように現れたのは、翼の生えた砂時計のような存在であった。
その正体を察知し、ドラグハルトは驚愕の声を上げる。
「時空の精霊だと? 魔王に与する者に、何故精霊が協力を……! それ以前に、何故大公を討った者が魔王に協力する!?」
「別段、俺はあの女に与したつもりはねぇぞ? 事情があんだよ、事情が」
軽く嘆息し、老人は担いでいた刀を構え直す。
それと共に、姿を現していた時空の精霊は、構えられた刀に宿り白い輝きを放ち始める。
その刃が時空を断つ性質を持つであろうことは、ドラグハルトにも容易に想像がついた。
「俺のことはどうだっていい。それよりお前さんだ、退く気はねぇんだろう?」
「……無論。余の覇道、余の悲願を、ここで留めるわけにはいかぬ!」
「はぁ……あくまでも、異邦人の敵として立つならマレウスも見逃しただろうに」
異邦人の敵であるなら、障害であるならそれでも良い。
だが、ドラグハルトはマレウスへと反旗を翻した。
己の身を滅ぼさんと狙う者をいつまでも見逃すほど、マレウス・チェンバレンも暢気ではない。
「ならばまぁ、残念だがここで消えな」
「否――消えるのは貴公だ、恐るべき剣士よッ!」
瞬間、ドラグハルトは膨大な魔力を放ち、砲撃として顕現させる。
黄金の光は巨大な光線となって炸裂し、老人の矮躯を飲み込まんと迫る。
金龍王を倒したものに引けを取らぬ――否、それを凌駕する破壊力。
その一撃を、振り下ろした刃の一閃で叩き斬った。
「これすらも通じぬか! だが……!」
老人の持つ武器は規格外であると言ってもいい。
しかしながら、リソースを蓄積してこなかった彼の肉体は脆弱だ。
一撃でも届きさえすれば倒せると、ドラグハルトは再び魔力を展開する。
周囲に散った黄金の輝きは、無数の刃となって空中に顕現し――老人へと向け、一斉に放たれた。
「――そいつは、ちと雑だな」
しかし、老人は冗談のように、その隙間を縫いながら駆け抜ける。
十メートル以上は離れていた距離を一息の内に詰め、ドラグハルトはその眼前へと爪の一撃を叩き込んだ。
老人の攻撃は、あくまでも刃の届く範囲に限定される。
届かぬ距離であるなら、それを消し去ることはできない。
ドラグハルトの判断は正しく、それに老人は確かな称賛の笑みを浮かべていた。
けれど――
「そして、不用意だ」
刹那、老人の姿がドラグハルトの眼前より消える。
だが、先程の性質から姿が消えたわけではなく、近くに移動しただけだと理解し、ドラグハルトは全包囲へと向けて魔力の衝撃波を放つ。
それが悪手であると気づいたのは、衝撃波の壁を貫いて白刃が眼前へと迫った、その刹那であった。
「この、タイミングですら――!」
驚愕の声が、零れ落ちる。
老人の刃は、狙い澄ましたかのように、ドラグハルトの胸を中心から貫いたのだった。





