826:地の底へ
書籍版マギカテクニカ、第11巻が12月19日(木)に発売となります!
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轟々と、風の音が耳を掠めていく。
内臓がひっくり返るような錯覚を覚える浮遊感、それが延々と続く感覚に、俺は思わず顔を顰めていた。
鬼に続いて飛び込んだ穴の中。暗く底が見えないその場所は、先行きが不透明であるが故に恐怖を掻き立てる。
軍にいた頃に空挺兵の真似事をしたことはあるが、流石にこれほどの高さからの落下を経験したことは無い。
「というか、着地をどうすればいいんだこれは……」
一応確認してみたが、やはり従魔結晶を使用することはできなかった。
つまり、もし何らかの手助けが無かった場合、自力で着地をしなければならないということだ。
《空歩》があるとはいえ、俺のスキルレベルでは使用できる回数はそれほど多くない。
少ない歩数でこの落下の勢いを殺し切ることは困難だろう。
一応、やれるだけのことはやろうと手段を模索し――ふと、体にかかる風の勢いが弱まってきていることに気が付いた。
下りのエレベータが停止しようとしている時のような感覚。それと共に、落下の勢いは徐々に収まり、同時に視界の先に赤茶色の地面が見え始めた。
(永遠に落ち続ける類だったらどうしようかと思ったが、きちんと下の階層はあったか)
先に穴へと飛び降りた鬼の方は、既に着地を果たしているらしい。
下に辿り着いた赤い鬼は、自らが落下してきた穴を見上げ、俺のことを待っている様子だった。
そういえば、先に放り出した死体の数々はどうなったのだろうか。
俺が落ちてくる間には見かけることは無かったし、鬼が着地した地面でもその姿を見つけることはできないのだが。
言葉で説明して貰えないため、不明な点はあまりにも多いのだが――何にせよ、新たな展開には辿り着くことができたようだ。
「っ、と……」
減速していく圧力に息を詰まらせながら、俺の落下速度は緩やかなものへと変化する。
その中で何とか体勢を立て直した俺は、そのままゆっくりと鬼の側へと着地した。
地面に叩き付けられずに済んだことには安堵しつつ、周囲の状況を改めて確認する。
やはり、先程鬼が投げ入れた死体の山の姿は見えない。
あの暗闇の中で何かがあったのか、説明を聞こうにも鬼が喋ってくれる気配は無い。
それに、今はそれよりも、気にするべきものがあるようだった。
「寺……いや、大きめの祠か?」
そこに建てられていたのは、ここに来る前にいた寺院よりもかなり小さな建物であった。
簡素な造りの建物は、見た目だけでは単なる廃屋の類にしか見られない。
だが、この空間を支配する重厚な圧迫感は、その建物が無人の代物ではないことを如実に示していた。
敵意は感じない。悪意もまた、それに同じだ。しかし、ただそこに存在するだけで圧倒されるほどの、強大な存在感。
それは確かに、かつて相対した金龍王の気配に近しいものであった。
「――ご苦労」
気配が、蠢く。
耳に痛いほどの静寂に、木の床がきしむ音が響き渡り――建物の内側から、一人の人影が姿を現した。
黒く染め上げられた具足、そして目深に目元を隠す一本角の兜。
幅広の野太刀を鞘に納めて携えた、大柄な男の姿。
それは紛れもなく、ここに来る前に仏像として目にした、鬼神の姿であった。
「……お初にお目にかかる」
「異界の英雄か。やはり、貴様には温い試練にしかならなかったようだな」
どうやら、鬼神の方は既に俺のことを知っていたらしい。
女神経由なのかもしれないが、あまり上位存在に名前を周知するのはやめて貰いたいところだ。
とはいえ、この厳格な気配を漂わせる武人を前に、そのような軽口を叩いている場合ではない。
こちらは教えを仰ぎに来た立場なのだから。
「鬼神様とお見受けするが――」
「あまり畏まる必要もない。我は単なる刃に過ぎぬ。余分なものが堆積した、この地を溢れさせぬようにするためのな」
あまり礼儀にこだわるつもりは無いようだが、流石に侮辱されて黙っているような類でもないだろう。
頭を上げ、正面から鬼神の姿を見上げつつ、慎重にその姿を観察する。
佇まいだけでも見える、達人級の使い手だ。彼がこの箱庭の創造期から存在しているのであれば、途方もない年月を戦い続けてきたことになる。
その技量と経験は、俺のそれを凌駕していることだろう。無論のこと、ステータス面での話は言うまでもない。
まず、敵対など考えるべきではない相手だ。
「さて、雑談をしていても仕方がない。貴様の願いは、鬼人としての力を高めることだな?」
「やはり、既にご存知か」
「考えるまでもない。貴様が我の許に足を運ぶなど、それ以外に理由はあるまいよ」
皮肉気に笑う鬼神の言葉に、俺は嘆息を零すしかない。
彼の言う通り、そのような用事が無ければ、そもそも鬼神という存在を知ることすらなかっただろう。
こちらの要望はとっくの昔に筒抜けで、だからこそこうして待ち構えていたということか。
俺の複雑な感情を他所に、鬼神はゆっくりと建物から地面に降り立ちつつ、声を上げる。
「六道之行とは、即ち獄卒の在り方を知るための修行だ。鬼人とは、只人よりも死の側面に近き者。より多くの死を積み重ねてきた羅刹となれば、人の身でありながら半ば我らの領域に足を踏み入れていることとなる」
「死後の世界の、管理者……」
「言葉遊びに過ぎぬ。我らは、単なる掃除屋だ」
この箱庭という世界において、死とはどのようなものであるのか。
データ的に言うならば、機能停止したAIの行き着く先。
それがどのような処理となるのかは、俺の知識では想像することすらできなかった。
だが、鬼神の言葉を鑑みるに、何かしら処理しなければならないものが残るということなのだろう。
獄卒とは、その処理を担う存在なのだ。
「六道之行の中で、その掃除のための方法を時間をかけて学ぶわけだが……貴様には時間が無いのだろう。故に六道踏破――纏めて全てを学ばせたのだ」
「ご配慮いただき、感謝する」
「良い。貴様をいつまでも拘束していれば、女神より面倒な干渉を受けかねぬ」
鬼神は女神の刃であるという話を聞いていたが、思ったよりも気安い関係なのかもしれない。
とはいえ、流石に彼らの領域の話だ。無遠慮に踏み込んでいいようなものではあるまい。
とにかく、必要なのは鬼人としての力を高める方法だ。
獄卒としての力であり、悪魔狩りに使えるものではないのかもしれないが、あるものは無駄にはならないだろう。
「貴様は既に、羅刹たる力を得ている。人の身でありながらそれだけの血を浴びてきたことは驚嘆に値するが――しかし、貴様は未だ獄卒ではない」
「では、次なる修業は、獄卒としての力を得るためのものであると?」
「然り。人でありながら幽世の力を得る、それが貴様の目指すべきものだ」
果たしてどのような効果があるのかは不明だが、思いつくのは先ほどの鬼が使っていた鎖だ。
左手に巻き付いていたアレは、鬼の能力と見るには異様なものだった。
だが、獄卒としての力に結びついているのであれば納得できる。
「ところで、地獄巡り――即ち、冥界降り。それらに共通する事象が何であるか、理解できるか?」
「冥界降り? 生きたまま、死後の世界を旅する伝承のことを指しているのであれば……黄泉比良坂のような――」
「単純に言えばな……必ずや、重い試練を伴うということだ」
刹那、気配が高まる。圧倒的な存在感――だがそれは、目の前の鬼神から発せられたものではない。
後方にて、何も口に出さずに控えていた、大柄な鬼。
先ほど仕事を手伝ったはずの彼が、ゆっくりと大鉈を持ち上げ、その肩に担いでいたのだ。
「人の世に残った神話において、冥界降りは大抵が失敗に終わる。それは即ち、死の世界とは生者の世界に交わるものではないという証だ。だからこそ、人の身でありながら獄卒たる証を手に入れるには、その境界すらも越えなければならぬ」
「……その割には、随分と分かりやすい試練だ」
「その方が好みであろう、戦士よ。より率直に言おうか――先達の力、見事打倒して見せよ」
ジャラジャラと、左腕の鎖が鳴る。身の丈ほどもある大鉈は、掠っただけでも俺の体を抉り斬るだろう。
先ほどまでの試練とは比べ物にならない、本物の脅威。
それを前にして、俺は笑みと共に餓狼丸の刃を抜き放ったのだった。